一二
代助は
代助は二、三の
「誠太郎、なんだい、人のいない留守に来て、
「そこにいるなら、いてもかまわないよ」と言っても、聞かなかった。
代助は誠太郎を
「叔父さんはいつ奥さんをもらうの」と、またせんだってと同じような質問をかけた。
この日誠太郎は、父の使いに来たのであった。その口上は、
「なんだい、ひどいじゃないか。用も言わないで、むやみに人を呼びつけるなんて」と言った。誠太郎はやっぱりにやにやしていた。代助はそれぎり話をほかへそらしてしまった。新聞に出ている
「それじゃ、叔父さん、明日は来ないんですか」と聞いた。代助はやむをえず、
「うむ。どうだかわからない。叔父さんは旅行するかもしれないからって、帰ってそう言ってくれ」と言った。
「いつ」と誠太郎が聞き返したとき、代助は
「どこへいらっしゃるの」と代助を見上げた。代助は、
「どこって、まだわかるもんか。ぐるぐる回るんだ」と言ったので、誠太郎はまたにやにやしながら、
代助はその夜すぐ立とうと思って、グラッドストーンの中を門野に
「少し手伝いましょうか」と突っ立ったまま聞いた。代助は、
「なに、わけはない」と断わりながら、いったん詰め込んだ香水の
「先生、車をそう言っときますかな」と注意した。代助はグラッドストーンを前へ置いて、顔を上げた。
「そう、少し待ってくれたまえ」
庭を見ると、
彼はまた旅行案内を開いて、細かい数字をたんねんに調べだしたが、少しも決定の運びに近寄らないうちに、また三千代のほうに頭がすべっていった。立つ前にもう一ぺん様子を見て、それから東京を出ようという気が起こった。グラッドストーンは今夜中に始末をつけて、
「またお出かけですか。なにかお買い物じゃありませんか。私でよければ買ってきましょう」と門野が驚いたように言った。
「今夜はやめだ」と言い放したまま、代助は外へ出た。外はもう暗かった。美しい空に星がぽつぽつ影を増してゆくように見えた。心持ちのいい風が
平岡の家の近所へ来ると、暗い人影が
「そんなにひまなんですか」と代助は
平岡はいなかった。三千代は今湯から帰ったところだと言って、うちわさえ膝のそばに置いていた。いつもの
平岡は三千代の言ったとおりにはなかなか帰らなかった。いつでもこんなに遅いのかねと尋ねたら、笑いながら、まあそんなところでしょうと答えた。代助はその笑いの中に一種のさみしさを認めて、目を正して、三千代の顔をじっと見た。三千代は急にうちわを取って
代助は平岡の経済のことが気にかかった。正面から、このごろは生活費には不自由はあるまいと尋ねてみた。三千代はそうですねと言って、また前のような笑い方をした。代助がすぐ返事をしなかったものだから、
「あなたには、そう見えて」と今度は向こうから聞き直した。そうして、手に持ったうちわを放り出して、湯から出たてのきれいなほそい指を、代助の前に広げて見せた。その指には代助の贈った
「しかたがないんだから、堪忍してちょうだい」と言った。代助はあわれな心持ちがした。
代助はその夜九時ごろ平岡の家を辞した。辞する前、自分の紙入れの中にあるものを出して、三千代に渡した。その時は、腹の中で多少の工夫を費やした。彼はまずなにげなく懐中物を胸の所であけて、中にある紙幣を、勘定もせずにつかんで、これをあげるからお使いなさいと
「そんなことを」と、かえって両手をぴたりと身体へつけてしまった。代助はしかし自分の手を引き込めなかった。
「指環を受け取るなら、これを受け取っても、同じことでしょう。紙の指環だと思っておもらいなさい」
代助は笑いながら、こう言った。三千代はでも、あんまりだからとまた
「大丈夫だから、お取んなさい」としっかりした低い調子で言った。三千代は顎を
「また来る。平岡君によろしく」と言って、代助は表へ出た。町を横断して
「たいへん遅うがしたな。
「明日もおやめだ」と答えて、自分の
目がさめた時は、高い日が縁に黄金色の震動をさし込んでいた。
「青山からお
「やあ
「この室はたいへんいいにおいがするようだが、お前の頭かい」と聞いた。
「僕の頭の見える前からでしょう」と答えて、
「ははあ、だいぶしゃれたことをやるな」と言った。
兄はめったに代助の所へ来たことのない男であった。たまに来れば必ず来なくってならない用事を持っていた。そうして、用をすますとさっさと帰って行った。
「
「ええ、実は
「六時に立てるくらいな早起きの男なら、今時分わざわざ青山からやって来やしない」と言った。改めて用事を聞いてみると、やはり予想のとおり肉薄の遂行にすぎなかった。すなわち今日高木と佐川の娘を呼んで
「なにあいつが今夜中に立つものか、今ごろはかばんの前へすわって考え込んでいるぐらいのものだ。明日になってみろ、放っておいてもやって来るからって、おれが姉さんを安心させたのだよ」と誠吾は落ちつき払っていた。代助は少しいまいましくなったので、
「じゃ、放っておいてごらんなさればいいのに」と言った。
「ところが女と言うものは、気の短いもので、お父さんに悪いからって、今朝起きるやいなや、おれをせびるんだからね」と誠吾はおかしいような顔もしなかった。むしろ迷惑そうに代助をながめていた。代助は行くとも、行かないとも決答を与えなかった。けれども兄に対しては、誠太郎同様に、要領を握らせないで返してしまう勇気も出なかった。そのうえ午餐を断わって、旅行するにしても、もう自分の懐中を当てにするわけにはいかなかった。やはり、兄とか
「
「それで、必ずしも今日旅行する必要もないんだろう」と聞いた。
代助はないと答えざるを得なかった。
「じゃ、今日
代助はまた好いと答えないわけにはいかなかった。
「じゃ、おれはこれから、ちょっとわきへ回るから、まちがいのないように来てくれ」と相変わらず多忙に見えた。代助はもう度胸をすえたから、どうでもかまわないという気で、先方に都合の好い返事を与えた。すると兄が突然、
「いったいどうなんだ。あの女をもらう気はないのか。好いじゃないかもらったって。そうえり好みをするほど女房に重きを置くと、なんだか
代助は座敷へもどって、しばらく、兄の警句を
兄の言うところによると、佐川の娘は、今度久しぶりに叔父に連れられて、見物かたがた上京したので、叔父の商用がすみしだいまた連れられて国へ帰るのだそうである。父がその機会を利用して、相互の関係に、永遠の利害を結びつけようと企てたのか、またはせんだっての旅行先で、この機会をも自発的にこしらえて帰って来たのか、どっちにしても代助はあまり研究の余地を認めなかった。自分はただこれらの人と同じ食卓で、うまそうに午餐を味わってみせれば、社交上の義務はそこに終わるものと考えた。もしそれより以上に、なんらかの発展が必要になった場合には、その時に至って、はじめて処置をつけるよりほかに道はないと思案した。
代助は婆さんを呼んで着物を出さした。
代助が青山に着いた時は、十一時五分前であったがお客はまだ来ていなかった。兄もまだ帰らなかった。
「あなたも、ずいぶん乱暴ね。人を出し抜いて旅行するなんて」と、いきなりやり込めた。梅子は場合によると、決して
「今にお客さんが来たら、僕が奥へ知らせに行く。その時挨拶をすれば好かろう」と言って、やっぱり平常のようなむだ口をたたいていた。けれども佐川の娘に関しては、一言も口を切らなかった。梅子はなんとかして、話をそこへ持ってゆこうとした。代助には、それが明らかに見えた。だから、なおそらとぼけて
そのうち待ち設けたお客が来たので、代助は約束どおりすぐ父の所へ知らせに行った。父は、案のじょう、
「そうか」とすぐ立ち上がっただけであった。代助に小言を言う暇もなにもなかった。代助は座敷へ引き返して来て、袴をはいて、それから応接間へ出た。客と主人とはそこでことごとく顔を合わせた。父と高木とが第一に話を始めた。梅子はおもに佐川の令嬢の相手になった。そこへ兄が
「いや、どうも遅くなりまして」と客の方に挨拶をしたが、席についたとき、代助を振り返って、
「だいぶ早かったね」と小さな声をかけた。
食堂には応接室の次の間を使った。代助は戸のあいた間から、白い
「ではどうぞ」と父は立ち上がった。高木も
食卓は、
卓上の談話はおもに平凡な世間話であった。はじめのうちは、それさえあまり興味がのらないように見えた。父はこういう場合には、よく自分の好きな書画
父は乾いた会話に色彩を添えるため、やがて好きな方面の問題に触れてみた。ところが一、二
梅子はもとより初めから断えず口を動かしていた。その努力のおもなるものは、むろん自分の前にいる令嬢の遠慮と沈黙を打ちくずすにあった。令嬢は礼儀上からいっても、梅子の間断なき質問に応じないわけにゆかなかった。けれども積極的に自分から梅子の心を動かそうとつとめた
令嬢は京都で教育を受けた。音楽は、初めは琴を習ったが、後にはピアノにかえた。バイオリンも少し
「せんだっての歌舞伎座はいかがでした」と梅子が聞いた時、令嬢はなんとも答えなかった。代助にはそれが劇を解しないというより、劇を軽蔑しているように取れた。それだのに、梅子はつづけて、同じ問題について、甲の役者はどうだの、乙の役者はなんだのと評しだした。代助はまた嫂が論理を踏みはずしたと思った。しかたがないから、横合いから、
「芝居はおきらいでも、小説はお読みになるでしょう」と聞いて芝居の話をやめさした。令嬢はその時はじめて、ちょっと代助の方を見た。けれども答えは案外にはっきりしていた。
「いえ小説も」
令嬢の答えを待ち受けていた、
「それは結構だ」とほめた。梅子は、そういう教育の価値をまったく解することができなかった。にもかかわらず、
「ほんとうにね」と趣味にかなわない
「じゃ英語はお
令嬢はいいえと言って、こころもち顔を赤くした。
食事がすんでから、主客はまた応接間にもどって、話を始めたが、
「なにか一ついかがですか」と言いながら令嬢を顧みた。令嬢はもとより席を動かなかった。
「じゃ、
「まあ、
一時間ほどして客は帰った。
「代助はまだ帰るんじゃなかろうな」と父が言った。代助はみんなから一足おくれて、
「おい、すぐ帰っちゃいけない。お父さんがなにか用があるそうだ。奥へおいで」と兄はわざとらしいまじめな調子で言った。梅子は薄笑いをしている。代助は黙って頭をかいた。
代助は一人で父の
「あの、
「うん、今行く」と返事をして、それから、兄夫婦にこういう理屈を述べた。──自分一人で父にあうと、父がああいう気象のところへもってきて、自分がこんなずぼらだから、ことによると大いに
兄は議論がきらいな男なので、なんだくだらないと言わぬばかりの顔をしたが、
「じゃ、さあ行こう」と立ち上がった。梅子も笑いながらすぐに立った。三人して廊下を渡って父の室に行って、何事も起こらなかったのごとく着座した。
そこでは、梅子が
令嬢の資格がほぼ定まった時、父は代助に向かって、
「たいした異存もないだろう」と尋ねた。その語調といい、意味といい、どうするかねぐらいの程度ではなかった。代助は、
「そうですな」とやっぱり煮え切らない答えをした。父はじっと代助を見ていたが、だんだん
「まあ、もう少しよく考えてみるがいい」と言って、代助のために余裕をつけてくれた。
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