一一


 いつの間にか、人がの羽織を着て歩くようになった。二、三日、うちで調べ物をして庭先よりほかにながめなかった代助は、冬帽をかぶって表へ出て見て、急に暑さを感じた。自分もセルを脱がなければならないと思って、五、六町歩くうちに、あわせを着た人に二人出あった。そうかと思うと新しい氷屋で書生がコップを手にして、冷たそうなものを飲んでいた。代助はその時誠太郎を思い出した。

 近ごろ代助は前よりも誠太郎が好きになった。ほかの人間と話していると、人間の皮と話すようではがゆくってならなかった。けれども、顧みて自分を見ると、自分は人間中で、もっとも相手をはがゆがらせるようにこしらえられていた。これも長年生存競争の因果にさらされたばちかと思うと、あまりありがたい心持ちはしなかった。

 このごろ誠太郎はしきりに玉乗りのけいをしたがっているが、それは、まったくこの間あさくさおくやまへいっしょに連れて行った結果である。あのいちなところはよく、あによめの気性を受け継いでいる。しかし兄の子だけあって、一図なうちに、どこかせまらないおうような気象がある。誠太郎の相手をしていると、向こうの魂が遠慮なくこっちへ流れ込んで来るから愉快である。実際代助は、昼夜の区別なく、武装を解いたことのない精神に、包囲されるのが苦痛であった。

 誠太郎はこの春から中学校へ行きだした。すると急にたけが延びてくるように思われた。もう一、二年すると声が変わる。それから先どんな径路を取って、生長するかわからないが、とうてい人間として、生存するためには、人間からきらわれるという運命に到着するにちがいない。その時、彼は穏やかに人の目につかないをして、じきのごとく、何物をか求めつつ、人のいちをうろついて歩くだろう。

 代助はほりばたへ出た。この間まで向こうの土手にむら躑躅つつじが、団々と紅白の模様を青い中にいんしていたのが、まるで跡形もなくなって、のべつに草がおい茂っている高い傾斜の上に、大きな松が何十本となく並んで、どこまでもつづいている。空はきれいに晴れた。代助は電車に乗って、うちへ行って、嫂にからかって、誠太郎と遊ぼうと思ったが、急にいやになって、この松を見ながら、くたびれる所まで堀端をつたって行く気になった。

 しんつけへ来ると、向こうから来たり、こっちから行ったりする電車が苦になりだしたので、堀を横切って、しようこんしやの横からばんちようへ出た。そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いていることが、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものはせんみんだと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賤民のほうが偉いような気がした。まったく、またアンニュイに襲われたと悟って、帰りだした。神楽かぐらざかへかかると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしていた。その音がはなはだしく金属性の刺激を帯びていて、大いに代助の頭にこたえた。

 家の門をはいると、今度は門野が、主人の留守を幸いと、大きな声でうたをうたっていた。それでも代助の足音を聞いて、ぴたりとやめた。

 「いや、お早うがしたな」と言って玄関へ出て来た。代助はなんにも答えずに、帽子をそこへかけたまま、縁側から書斎へはいった。そうして、わざわざ障子をしめ切った。つづいてのみに茶をついで持って来た門野が、

 「しめときますか。暑かありませんか」と聞いた。代助はたもとからハンケチを出して額をふいていたが、やっぱり、

 「しめておいてくれ」と命令した。門野は妙な顔をして障子をしめて出て行った。代助は暗くしたへやのなかに、十分ばかりぽかんとしていた。

 彼は人のうらやむほどつやの好い皮膚と、労働者に見いだしがたいように柔らかな筋肉をもった男であった。彼は生まれて以来、まだ大病と名のつくものを経験しなかったくらい、健康において幸福をうけていた。彼はこれでこそ、いきがあると信じていたのだから、彼の健康は、彼にとって、他人の倍以上に価値をもっていた。彼の頭は、彼の肉体と同じくたしかであった。ただ終始論理に苦しめられていたのは事実である。それから時々、頭の中心が、だいきゆうの的のように、二重もしくは三重にかさなるように感ずることがあった。ことに、今日は朝からそんな心持ちがした。

 代助が黙然として、自己はなんのためにこの世の中に生まれて来たかを考えるのはこういう時であった。彼は今まで何べんもこの大問題をとらえて、彼の眼前にすえつけてみた。その動機は、単に哲学上の好奇心から来たこともあるし、また世間の現象が、あまりに複雑な色彩をもって、彼の頭を染めつけようとあせるから来ることもあるし、また最後にこんにちのごとくアンニュイの結果として来ることもあるが、その都度彼は同じ結論に到着した。しかしその結論は、この問題の解決ではなくって、むしろその否定と異ならなかった。彼の考えによると、人間はある目的をもって、生まれたものではなかった。これと反対に、生まれた人間に、はじめてある目的ができて来るのであった。最初からかくかんてきにある目的をこしらえて、それを人間に付着するのは、その人間の自由な活動を、すでに生まれる時に奪ったと同じことになる。だから人間の目的は、生まれた本人が、本人自身に作ったものでなければならない。けれども、いかな本人でも、これを随意に作ることはできない。自己存在の目的は、自己存在の経過が、すでにこれを天下に向かって発表したと同様だからである。

 この根本義からしゆつたつした代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としていた。歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる。考えたいから考える。すると考えるのが目的になる。それ以外の目的をもって、歩いたり、考えたりするのは、歩行と思考の堕落になるごとく、自己の活動以外に一種の目的を立てて、活動するのは活動の堕落になる。したがって自己全体の活動をあげて、これを方便の具に使用するものは、みずから自己存在の目的を破壊したも同然である。

 だから、代助は今日まで、自分の脳裏にがんもうよくが起こるたびごとに、これらの願望嗜欲を遂行するのを自己の目的として存在していた。二個のあいれざる願望嗜欲が胸にたたかう場合も同じことであった。ただ矛盾から出る一目的のしようこうと解釈していた。これをせんじつめると、彼は普通にいわゆる無目的な行為を目的として活動していたのである。そうして、他を偽らざる点においてそれをもっとも道徳的なものと心得ていた。

 この主義をできるだけ遂行する彼は、その遂行の途中で、われ知らず、自分のとうに棄却した問題に襲われて、自分は今なんのために、こんなことをしているかと考え出すことがある。彼が番町を散歩しながら、なぜ散歩しつつあるかと疑ったのはまさにこれである。

 その時彼は自分ながら、自分の活力に充実していないことに気がつく。えたる行動は、一気に遂行する勇気と、興味に乏しいから、みずからその行動の意義を中途で疑うようになる。彼はこれをアンニュイと名づけていた。アンニュイにかかると、彼は論理の迷乱を引き起こすものと信じていた。彼の行為の中途において、なにのためという、かんてんとうの疑いを起こさせるのは、アンニュイにほかならなかったからである。

 彼は立て切ったへやの中で、一、二度頭をおさえて振り動かしてみた。彼は昔からこんにちまでの思索家の、しばしば繰り返した無意義な疑義を、また脳裏にねんていするに堪えなかった。その姿のちらりと眼前に起こった時、またかという具合に、すぐ切りすててしまった。同時に彼は自己の生活力の不足をはげしく感じた。したがって行為そのものを目的として、円満に遂行する興味ももたなかった。彼はただ一人荒野の中に立った。ばうぜんとしていた。

 彼はこうしような生活欲の満足をこいねがう男であった。またある意味において道義欲の満足を買おうとする男であった。そうして、ある点へ来ると、この二つのものが火花を散らして切り結ぶ関門があると予想していた。それで生活欲を低い程度にとどめて我慢していた。彼の室は普通の日本間であった。これというほどの大した装飾もなかった。彼に言わせると、額さえ気のきいたものはかけてなかった。色彩として目をひくほどに美しいのは、ほんだなに並べてある洋書に集められたというくらいであった。彼は今この書物の中に、茫然としてすわった。ややあって、これほど寝入った自分の意識を強烈にするには、もう少し周囲の物をどうかしなければならぬと、思いながら、室の中をぐるぐる見回した。それから、またぽかんとして壁をながめた。が、最後に、自分をこの薄弱な生活から救いうる方法は、ただ一つあると考えた。そうして口の内で言った。

 「やっぱり、三千代さんにあわなくちゃいかん」

 彼は足の進まない方角へ散歩に出たのを悔いた。もう一ぺん出直して、平岡のもとまで行こうかと思っているところへ、もりかわちようから寺尾が来た。新しいむぎわらぼうをかぶって、閑静な薄い羽織を着て、暑い暑いと言って赤い顔をふいた。

 「なんだって、今時分来たんだ」と代助はあいもなく言い放った。彼は寺尾とは平生でも、このくらいな言葉で交際していたのである。

 「今時分がちょうど訪問に好い刻限だろう。君、また昼寝をしたな。どうも職業のない人間は、惰弱でいかん。君はいったいなんのために生まれて来たのだったかね」と言って、寺尾は麦藁帽で、しきりに胸のあたりへ風を送った。時候はまだそれほど暑くないのだから、この所作はすこぶるあいきようを添えた。

 「なんのために生まれてようと、よけいなお世話だ。それより君こそなにしに来たんだ。また『ここ十日ばかりの間』じゃないか、金の相談ならもう御免だよ」と代助は遠慮なく先へ断わった。

 「君もずいぶん礼儀を知らない男だね」と寺尾はやむをえず答えた。けれどもべつだん感情を害した様子も見えなかった。実をいうと、このくらいな言葉は寺尾にとって、少しも無礼とは思えなかったのである。代助は黙って、寺尾の顔を見ていた。それは、むなしい壁を見ているより以上のなんらの感動をも、代助に与えなかった。

 寺尾はふところからきたないかりとじの書物を出した。

 「これを訳さなけりゃならないんだ」と言った。代助は依然として黙っていた。

 「食うに困らないと思って、そう無精な顔をしなくっても好かろう。もう少し判然としてくれ。こっちは生死の戦いだ」と言って、寺尾は小形の本を、とんとんとの角で二へんたたいた。

 「いつまでに」

 寺尾は、書物のページをさらさらとくって見せたが、断然たる調子で、

 「二週間」と答えたあとで、「どうでもこうでも、それまでに片づけなけりゃ、食えないんだからしかたがない」と説明した。

 「偉い勢いだね」と代助はひやかした。

 「だから、ほんごうからわざわざやって来たんだ。なに、金は借りなくても好い。──貸せばなお好いが──それより少しわからない所があるから、相談しようと思って」

 「めんどうだな。僕は今日は頭が悪くって、そんなことはやっていられないよ。いいかげんに訳しておけばかまわないじゃないか。どうせ原稿料はページでくれるんだろう」

 「なんぼ、僕だって、そう無責任な翻訳はできないだろうじゃないか。誤訳でも指摘されるとあとから面倒だあね」

 「しようがないな」と言って、代助はやっぱり横着な態度を維持していた。すると、寺尾は、「おい」と言った。「じようだんじゃない、君のように、のらくら遊んでる人は、たまにはそのくらいなことでも、しなくっちゃ退屈でしかたがないだろう。なに、僕だって、本のよく読める人の所へ行く気なら、わざわざ君のところまで来やしない。けれども、そんな人は君と違って、みんな忙しいんだからな」と少しもへきえきした様子を見せなかった。代助はけんをするか、相談に応ずるかどっちかだと覚悟をきめた。彼の性質として、こういう相手をけいべつすることはできるが、おこりつける気は出せなかった。

 「じゃなるべく少しにしようじゃないか」と断わっておいて、マークのつけてある所だけを見た。代助はその書物のこうがいさえ聞く勇気がなかった。相談を受けた部分にもあいまいな所はたくさんあった。寺尾は、やがて、

 「やあ、ありがとう」と言って本を伏せた。

 「わからない所はどうする」と代助が聞いた。

 「なにどうかする。──だれに聞いたって、そうよくわかりゃしまい。第一時間がないからやむを得ない」と、寺尾は、誤訳よりも生活費のほうが大事件であるごとくに天からきめていた。

 相談がすむと、寺尾は例によって、文学談を持ち出した。不思議なことに、そうなると、自己の翻訳とは違って、いつものとおり非常に熱心になった。代助は現今の文学者の公けにする創作のうちにも、寺尾の翻訳と同じ意味のものがたくさんあるだろうと考えて、寺尾の矛盾をおかしく思った。けれども面倒だから、口へは出さなかった。

 寺尾のおかげで代助はその日とうとう平岡へ行きはぐれてしまった。

 ばんめしの時、まるぜんから小包が届いた。はしをおいてあけてみると、よほど前に外国へ注文した二、三の新刊書であった。代助はそれをわきの下にかかえ込んで、書斎へ帰った。一冊ずつ順々に取り上げて、暗いながら二、三ページ、はぐるように目を通したがどこも彼の注意をひくようなところはなかった。最後の一冊に至っては、その名前さえすでに忘れていた。いずれそのうち読むことにしようという考えで、いっしょにまとめたまま、立って、本棚の上に重ねておいた。縁側から外をうかがうと、きれいな空が、高い色を失いかけて、隣のとうのひときわ濃く見える上に、薄い月が出ていた。

 そこへ門野が大きなランプを持ってはいって来た。それにはきぬちぢみのように、たてみぞの入った青いかさがかけてあった。門野はそれをテーブルの上に置いて、また縁側へ出たが、出がけに、

 「もう、そろそろほたるが出る時分ですな」と言った。代助はおかしな顔をして、

 「まだ出やしまい」と答えた。すると門野は例のごとく、

 「そうでしょうか」と言う返事をしたが、すぐまじめな調子で、「蛍てえものは、昔はだいぶはやったもんだが、近来はあまり文士がたが騒がないようになりましたな。どういうもんでしょう。蛍だのからすだのって、このごろじゃついぞ見たことがないくらいなもんだ」と言った。

 「そうさ。どういうわけだろう」と代助もそらっとぼけて、まじめな挨拶をした。すると門野は、

 「やっぱり、電気燈に圧倒されて、だんだん退却するんでしょう」と言い終わって、みずから、えへへへと、しやの結末をつけて、しよせいへ帰って行った。代助もつづいて玄関まで出た。門野は振り返った。

 「またお出かけですか。よござんす。ランプは私が気をつけますから。──小母さんがさっきから腹が痛いって寝たんですが、なにたいしたことはないでしょう。御ゆっくり」

 代助は門を出た。江戸川まで来ると、河の水がもう暗くなっていた。彼はもとより平岡をたずねる気であった。からいつものようにかわべりを伝わないで、すぐ橋を渡って、こんごうざかを上がった。

 実をいうと、代助はそれから三千代にも平岡にも二、三べんあっていた。一ぺんは平岡から比較的長い手紙を受け取った時であった。それには、第一に着京以来お世話になってありがたいという礼が述べてあった。それから、──その後いろいろほうゆうや先輩の尽力をかたじけのうしたが、近ごろある知人の周旋で、某新聞の経済部の主任記者にならぬかとの勧誘を受けた。自分もやってみたいような気がする。しかし着京の当時君に御依頼をしたこともあるから、無断ではよろしくあるまいと思って、一応御相談をするという意味があとに書いてあった。代助は、その当時平岡から、兄の会社に周旋してくれと依頼されたのを、そのままにして、断わりもせずこんにちまで放っておいた。ので、その返事を促されたのだと受け取った。一通の手紙で謝絶するのも、あまり冷淡すぎるという考えもあったので、翌日出向いて行って、いろいろ兄のほうの事情を話して当分、こっちは断念してくれるように頼んだ。平岡はその時、僕もおおかたそうだろうと思っていたと言って、妙な目をして三千代のほうを見た。

 いま一ぺんは、いよいよ新聞のほうがきまったから、一晩ゆっくり君と飲みたい。何日いくかに来てくれという平岡のはがきが着いた時、おりあしくさしつかえができたからと言って散歩のついでに断わりに寄ったのである。その時平岡は座敷の真ん中に引っくり返って寝ていた。昨夕ゆうべどこかの会へ出て、飲み過ごした結果だと言って、赤い目をしきりにこすった。代助を見て、突然、人間はどうしても君のように独身でなけりゃ仕事はできない。僕も一人なら満州へでもアメリカへでも行くんだがと大いに妻帯の不便を鳴らした。三千代は次の間で、こっそり仕事をしていた。

 三べん目には、平岡の社へ出た留守をたずねた。その時は用事もなにもなかった。約三十分ばかり縁へ腰をかけて話した。

 それから以後はなるべくいしかわの方面へ立ち回らないことにして今夜に至ったのである。代助はたけはやちようへ上がって、それを向こうへ突き抜けて、二、三町行くと、平岡という軒燈のすぐ前へ来た。こうの外から声をかけると、ランプを持って下女が出た。が平岡は夫婦とも留守であった。代助は出先も尋ねずに、すぐ引き返して、電車へ乗って、ほんごうまで来て、本郷からまたかんへ乗り換えて、そこで降りて、あるビヤー・ホールへはいって、ビールをぐいぐい飲んだ。

 翌日目がさめると、依然として脳の中心から、半径の違った円が、頭を二重に仕切っているような心持ちがした。こういう時に代助は、頭の内側と外側が、質の異なった切り組み細工ででき上がっているとしか感じえられない癖になっていた。それでよく自分で自分の頭を振ってみて、二つのものを混ぜようとつとめたものである。彼は今枕の上へ髪をつけたなり、右の手を固めて、耳の上を二、三度たたいた。

 代助はかかる脳髄の異状をもって、かつて酒のとがに帰したことはなかった。彼は小供の時から酒に量を得た男であった。いくら飲んでも、さほど平常を離れなかった。のみならず、一度熟睡さえすれば、あとは身体になんの故障も認めることができなかった。かつてなにかのはずみに、兄とり飲みをやって、三合入りのとくを十三本倒したことがある。その翌日あくるひ代助は平気な顔をして学校へ出た。兄は二日も頭が痛いと言って苦り切っていた。そうして、これをの違いだと言った。

 昨夜ゆうべ飲んだビールはこれにくらべると愚かなものだと、代助は頭をたたきながら考えた。さいわいに、代助はいくら頭が二重になっても、脳の活動に狂いを受けたことがなかった。時としては、ただ頭を使うのがおつくうになった。けれども努力さえすれば、十分複雑な仕事に堪えるという自信があった。だから、こんな異状を感じても、脳の組織の変化から、精神に悪い影響を与えるものとしては、悲観する余地がなかった。はじめて、こんな感覚があった時は驚いた。二へん目はむしろ新奇な経験として喜んだ。このごろは、この経験が、多くの場合に、精神気力の低落に伴うようになった。内容の充実しない行為をあえてして、生活する時の徴候になった。代助にはそこが不愉快だった。

 床の上に起き上がって、彼はまた頭を振った。あさめしの時、門野はの新聞に出ていたへびわしの戦いのことを話しかけたが、代助は応じなかった。門野はまた始まったなと思って、茶の間を出た。勝手の方で、

 「小母さん、そう働いちゃ悪いだろう。先生のぜんは僕が洗っておくから、あっちへ行って休んでおいで」と婆さんをいたわっていた。代助ははじめて婆さんの病気のことを思い出した。なにか優しい言葉でもかけるところであったが、面倒だと思ってやめにした。

 ナイフを置くやいなや、代助はすぐこうちやぢやわんを持って書斎へはいった。時計を見るともう九時すぎであった。しばらく、庭をながめながら、茶をすすり延ばしていると、門野が来て、

 「お宅からお迎いが参りました」と言った。代助はうちから迎いを受ける覚えがなかった。聞き返してみても、門野は車夫がとかなんとか要領を得ないことを言うので、代助は頭を振り振り玄関へ出てみた。すると、そこに兄の車を引くかつというのがいた。ちゃんと、ゴムの車を玄関へよこづけにして、ていねいにお辞儀をした。

 「勝、お迎えってなんだい」と聞くと、勝は恐縮の態度で、

 「奥様が車を持って、迎いに言って来いって、おっしゃいました」

 「なにか急用でもできたのかい」

 勝はもとより何事も知らなかった。

 「おいでになればわかるからって──」と簡潔に答えて、言葉のしりを結ばなかった。

 代助は奥へはいった。婆さんを呼んで着物を出させようと思ったが、腹の痛むものを使うのがいやなので、自分でたんのひきだしをかき回して、急いでたくをして、勝の車に乗って出た。

 その日は風が強く吹いた。勝は苦しそうに、前の方にこごんでけた。乗っていた代助は、二重の頭がぐるぐる回転するほど、風に吹かれた。けれども、音も響きもない車輪が美しく動いて、意識に乏しい自分を、半睡の状態で宙に運んで行く有様が愉快であった。青山のうちへ着く時分には、起きたころとは違って、しよくがよほどせいせいしてきた。

 なにか事が起こったのかと思って、上がり掛けに、しよせいをのぞいてみたら、なおと誠太郎がたった二人で、白砂糖を振りかけたいちごを食っていた。

 「やあ、そうだな」と言うと、直木は、すぐ居ずまいを直して、挨拶をした。誠太郎は唇のふちをぬらしたまま、突然、

 「さん、奥さんはいつもらうんですか」と聞いた。直木はにやにやしている。代助はちょっと返答に窮した。やむをえず、

 「今日はなぜ学校へ行かないんだ。そうして朝っぱらから莓なんぞ食って」とからかうように、しかるように言った。

 「だって今日は日曜じゃありませんか」と誠太郎はまじめになった。

 「おや、日曜か」と代助は驚いた。

 直木は代助の顔を見てとうとう笑いだした。代助も笑って、座敷へ来た。そこには誰もいなかった。替え立ての畳の上に、丸いたんくりぬきぼんが一つ出ていて、中に置いたのみには、京都のあさもくの模様画が染めつけてあった。からんとした広い座敷へ朝の緑が庭からさし込んで、すべてが静かに見えた。そとの風は急に落ちたように思われた。

 座敷を通り抜けて、兄の部屋の方へ来たら、人の影がした。

 「あら、だって、それじゃあんまりだわ」と言うあによめの声が聞こえた。代助は中へはいった。中には兄と嫂と縫子がいた。兄は角帯にきんぐさりを巻きつけて、近ごろはやる妙なの羽織を着て、こちらを向いて立っていた。代助の姿を見て、

 「そら来た。ね。だからいっしょに連れて行っておもらいよ」と梅子に話しかけた。代助にはなんの意味だかもとよりわからなかった。すると、梅子が代助の方に向き直った。

 「だいさん、今日あなた、むろん暇でしょう」と言った。

 「ええ、まあ暇です」と代助は答えた。

 「じゃ、いっしょにへ行ってちょうだい」

 代助は嫂のこの言葉を聞いて、頭の中に、たちまち一種のこつけいを感じた。けれども今日はいつものように、嫂にからかう勇気がなかった。めんどうだから、平気な顔をして、

 「ええよろしい、行きましょう」とげんよく答えた。すると梅子は、

 「だって、あなたは、もう、一ぺんみたっていうんじゃありませんか」と聞き返した。

 「一ぺんだろうが、二へんだろうが、ちっともかまわない。行きましょう」と代助は梅子を見て微笑した。

 「あなたもよっぽど道楽ものね」と梅子が評した。代助はますます滑稽を感じた。

 兄は用があると言って、すぐ出て行った。四時ごろ用がすんだらしばのほうへ回る約束なんだそうである。それまで自分と縫子だけで見ていたらよさそうなものだが、梅子はそれがいやだと言った。そんなら直木を連れて行けと兄から注意された時、直木はこんがすりを着て、はかまをはいて、むずかしくすわっていていけないと答えた。それでしかたがないから代助を迎いにやったのだ、と、これは兄が出がけの説明であった。代助は少々理屈に合わないと思ったが、ただ、そうですかと答えた。そうして、嫂は幕の合間に話し相手がほしいのと、それからいざという時に、いろいろ用を言いつけたいものだから、わざわざ自分を呼び寄せたにちがいないと解釈した。

 梅子と縫子は長い時間をお化粧に費やした。代助は懇よくお化粧の監督者になって、両人ふたりのそばについていた。そうして時々は、おもしろ半分のひやかしも言った。縫子からは叔父さんずいぶんだわを二、三度繰り返された。

 父は早くから出て、家にいなかった。どこへ行ったのだか、嫂は知らないと言った。代助は別に知りたい気もなかった。ただ父のいないのがありがたかった。このあいだの会見以後、代助は父とはたった二度ほどしか顔を合わせなかった。それも、ほんの十分か十五分にすぎなかった。話が込み入りそうになると、急に丁寧なお辞義をして立つのを例にしていた。父は座敷の方へ出て来て、どうも代助は近ごろ少しも尻が落ちつかなくなった。おれの顔さえ見れば逃げたくをすると言っておこった。と嫂は鏡の前で夏帯の尻をなでながら代助に話した。

 「ひどく、信用を落としたもんだな」

 代助はこう言って、嫂と縫子のかわほりがさをさげて一足先へ玄関へ出た。車はそこに三ちよう並んでいた。

 代助は風を恐れてとりうちぼうをかぶっていた。風はようやくやんで、強い日が雲のすきから頭の上を照らした。先へ行く梅子と縫子はかさを広げた。代助は時々手の甲を額の前にかざした。

 芝居の中では、嫂も縫子も非常に熱心なけんぶつであった。代助は二へん目のせいといい、このさんよつらいの脳の状態からといい、そういちずに舞台ばかりに気を取られているわけにもいかなかった。たえず精神に重苦しい暑さを感ずるので、しばしばうちわを手にして、風をえりから頭へ送っていた。

 幕の合間に縫子が代助の方を向いて時々妙なことを聞いた。なぜあの人はたらいで酒を飲むんだとか、なぜ坊さんが急に大将になれるんだとか、たいてい説明のできない質問のみであった。梅子はそれを聞くたんびに笑っていた。代助はふとさん前新聞で見た、ある文学者の劇評を思い出した。それには、日本の脚本が、あまりにとっぴな筋に富んでいるので、楽に見物ができないと書いてあった。代助はその時、役者の立場から考えて、なにもそんな人に見てもらう必要はあるまいと思った。作者に言うべき小言を、役者のほうへ持ってくるのは、ちかまつの作を知るために、こしじようがききたいという愚物と同じことだと言って門野に話した。門野は依然として、そんなもんでしょうかなと言っていた。

 小供のうちから日本在来の芝居を見慣れた代助は、むろん梅子と同じように、単純なる芸術の鑑賞家であった。そうして舞台における芸術の意味を、役者の手腕についてのみ用いべきものと狭義に解釈していた。だから梅子とは大いに話が合った。時々顔を見合わして、くろうとのような批評を加えて、互いに感心していた。けれども、だいたいにおいて、舞台にはもう厭きが来ていた。幕の途中でも、双眼鏡で、あっちを見たり、こっちを見たりしていた。双眼鏡の向かう所には芸者がたくさんいた。そのあるものは、むこうでも眼鏡めがねの先をこっちへ向けていた。

 代助の右隣には自分と同年輩の男がまるまげった美しい細君を連れて来ていた。代助はその細君の横顔を見て、自分の近づきのある芸者によく似ていると思った。左隣には男づれがよつたりばかりいた。そうして、それが、ことごとく博士はかせであった。代助はその顔をいちいち覚えていた。そのまた隣に、広い所をたった二人で専領しているものがあった。その一人は、兄と同じくらいなとしかつこうで、正しい洋服を着ていた。そうして金縁の眼鏡をかけて、物を見るときには、あごを前へ出して、こころもちあおむく癖があった。代助はこの男を見たとき、どこか見覚えのあるような気がした。が、ついに思い出そうとつとめてもみなかった。そのつれは若い女であった。代助はまだ二十はたちになるまいと判定した。羽織を着ないで、普通よりは大きくひさしを出して、多くは顎をえりもとへぴたりとつけてすわっていた。

 代助は苦しいので、何べんも席を立って、後ろの廊下へ出て、狭い空を仰いだ。兄が来たら、嫂と縫子を引き渡して早く帰りたいくらいに思った。一ぺんは縫子を連れて、そこいらをぐるぐる運動して歩いた。しまいにはちと酒でも取り寄せて飲もうかと思った。

 兄は日暮とすれすれに来た。たいへん遅かったじゃありませんかと言った時、帯の間から、金時計を出して見せた。実際六時少し回ったばかりであった。兄は例のごとく、平気な顔をして、方々見回していた。が、飯を食う時、立って廊下へ出たぎり、なかなか帰って来なかった。しばらくして、代助がふと振り返ったら、一件置いて隣の金縁の眼鏡をかけた男の所へはいって、話をしていた。若い女にも時々話しかけるようであった。しかし女のほうでは笑い顔をちょっと見せるだけで、すぐ舞台の方へまじめに向き直った。代助は嫂にその人の名を聞こうと思ったが、兄は人の集まる所へさえ出れば、どこへでもかくのごとく平気にはいり込むほど、世間の広い、また世間を自分の家のように心得ている男であるから、気にもかけずに黙っていた。

 すると幕の切れ目に、兄が入口まで帰ってきて、代助ちょっと来いと言いながら、代助をその金縁の男の席へ連れて行って、愚弟だと紹介した。それから代助には、これがこうの高木さんだと言って引き合わした。金縁の紳士は、若い女を顧みて、私のめいですと言った。女はしとやかにお辞儀をした。その時兄が、佐川さんの令嬢だと口を添えた。代助は女の名を聞いたとき、うまくかけられたと腹の中で思った。が何事も知らぬもののごとく装って、いいかげんに話していた。すると嫂がちょっと自分の方を振り向いた。

 五、六分して、代助は兄とともに自分の席に返った。佐川の娘を紹介されるまでは、兄の見えしだい逃げる気であったが、今ではそういかなくなった。あまり現金に見えては、かえって好くない結果を引き起こしそうな気がしたので、苦しいのをがまんしてすわっていた。兄も芝居についてはまったく興味がなさそうだったけれども、例のごとくおうように構えて、黒い頭をいぶすほど、葉巻きをくゆらした。時々評をすると、縫子あの幕はきれいだろうぐらいのところであった。梅子は平生の好奇心にも似ず、高木についても、佐川の娘についても、なんらの質問をかけず、いちごんの批評も加えなかった。代助にはそのすました様子がかえって滑稽に思われた。彼はこんにちまで嫂の策略にかかったことが時々あった。けれども、ただの一ぺんも腹を立てたことはなかった。今度の狂言も、平生ならば、退屈まぎらしの遊戯程度に解釈して、笑ってしまったかもしれない。そればかりではない。もし自分が結婚する気なら、かえって、この狂言を利用して、みずから人巧的に、おめでたい喜劇を作りあげて、生涯自分をあざけって満足することもできた。しかしこの姉までが、今の自分を、父や兄と共謀して、ぜんぜん窮地にいざなって行くかと思うと、さすがにこの所作をただの滑稽として、観察するわけにはいかなかった。代助はこの先、嫂がこの事件をどう発展させる気だろうと考えて、少々弱った。家のもののうちで、嫂がいちばんこんな計画に興味をもっていたからである。もし嫂がこの方面に向かって代助に肉薄すればするほど、代助は漸々家族のものと疎遠にならなければならぬという恐れが、代助の頭のどこかに潜んでいた。

 芝居のしまいになったのは十一時近くであった。外へ出て見ると、風はまったくやんだが、月も星も見えない静かな晩を、電燈が少しばかり照らしていた。時間が遅いので茶屋では話をする暇もなかった。三人の迎いは来ていたが、代助はつい車をあつらえておくのを忘れた。めんどうだと思って、嫂の勧めをしりぞけて、茶屋の前から電車に乗った。ばしで乗りかえようと思って、黒いみちの中に、待ち合わしていると、小供をおぶった神さんが、たいぎそうに向こうから近寄って来た。電車は向こう側を二、三度通った。代助とレールの間には、土か石の積んだものが、高い土手のようにはさまっていた。代助ははじめて間違った所に立っていることを悟った。

 「お神さん、電車へ乗るなら、ここじゃいけない。向こう側だ」と教えながら歩きだした。神さんは礼を言ってついて来た。代助はさぐりでもするように、暗い所をいいかげんに歩いた。十四、五間左の方へほりぎわをめあてに出たら、ようやく停留所の柱が見つかった。神さんはそこで、かんばしの方へ向いて乗った。代助はたった一人反対のあかさかゆきへはいった。

 車の中では、眠くて寝られないような気がした。揺れながらも今夜の睡眠が苦になった。彼は大いに疲労して、白昼のすべてに、惰気をもよおすにもかかわらず、知られざる何物かの興奮のために、静かな夜をほしいままにすることができないことがよくあった。彼の脳裏には、今日の日中に、かわるがわるあとを残した色彩が、時の前後と形の差別を忘れて、一度にちらついていた。そうして、それがなにの色彩であるか、なにの運動であるか、たしかにわからなかった。彼は目を眠って、家へ帰ったら、またウィスキーの力を借りようと覚悟した。

 彼はこの取りとめのない花やかな色調の反照として、三千代のことを思い出さざるを得なかった。そうしてそこにわが安住の地を見いだしたような気がした。けれどもその安住の地は、明らかには、彼の目に映じて出なかった。ただ、かれの心の調子全体で、それを認めただけであった。したがって彼は三千代の顔や、ようすや、言葉や、夫婦の関係や、病気や、身分をひとまとめにしたものを、わが情調にしっくり合う対象として、発見したにすぎなかった。

 翌日代助はたじにいる友人から長い手紙を受け取った。この友人は学校を卒業すると、すぐ国へ帰ったぎり、今日までついぞ東京へ出たことのない男であった。当人はむろん山の中で暮らす気はなかったんだが、親の命令でやむをえず、故郷に封じ込められてしまったのである。それでも一年ばかりの間は、もう一ぺんおやを説きつけて、東京へ出る出ると言って、うるさいほど手紙を寄こしたが、このごろはようやく断念したと見えて、たいした不平がましい訴えもしないようになった。家は所の旧家で、先祖から持ち伝えた山林を年々り出すのが、おもな用事になっているよしであった。今度の手紙には、彼の日常生活の模様がくわしく書いてあった。それから、一か月前町長にあげられて、ねんぽうを三百円ちようだいする身分になったことを、おもしろ半分、ことさらにまじめな句調でふいちようしてきた。卒業してすぐ中学の教師になっても、この三倍はもらえると、自分と他の友人との比較がしてあった。

 この友人は国へ帰ってから、約一年ばかりして、京都在のある財産家から嫁をもらった。それはむろん親の言いつけであった。すると、しばらくして、すぐ子供が生まれた。女房のことはもらった時よりほかになにも言ってこないが、子供のおいたちには興味があると見えて、時々代助がおかしくなるような報知をした。代助はそれを読むたびに、この子供に対して、満足しつつある友人の生活を想像した。そうして、この子供のために、彼の細君に対する感想が、もらった当時に比べて、どのくらい変化したかを疑った。

 友人は時々あゆしたのや、かきの乾したのを送ってくれた。代助はこの返礼にたいがいは新らしい西洋の文学書をやった。するとその返事には、それをおもしろく読んだ証拠になるような批評がきっとあった。けれども、それが長くは続かなかった。しまいには受け取ったという礼状さえ寄こさなかった。こっちからわざわざ問い合わせると、書物はありがたく頂戴した。読んでから礼を言おうと思って、つい遅くなった。実はまだ読まない。白状すると、読むひまがないというより、読む気がしないのである。もういっそうこつに言えば、読んでもわからなくなったのである。という返事が来た。代助はそれから書物をやめて、そのかわりに新らしいおもちやを買って送ることにした。

 代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向をもっていたこの旧友が、当時とはまるで反対の思想と行動とに支配されて、生活のいろを出しているという事実を、せつに感じた。そうして、命のいとの震動から出る二人の響きをつまびらかに比較した。

 彼は理論セオリストとして、友人の結婚をうけがった。山の中に住んで、や谷を相手にしているものは、親の取りきめたとおりの妻を迎えて、安全な結果を得るのが自然の通則と心得たからである。彼は同じ論法で、あらゆる意味の結婚が、都会人士には、不幸を持ち来たすものと断定した。その原因を言えば、都会は人間の展覧会にすぎないからであった。彼はこの前提からこの結論に達するためにこういう径路をたどった、

 彼は肉体と精神において美の類別を認める男であった。そうして、あらゆる美の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考えた。あらゆる美の種類に接触して、そのたびごとに甲から乙に気を移し、乙から丙に心を動かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞家であると断定した。彼はこれを自家の経験に徴して争うべからざる真理と信じた。その真理からしゆつたつして、都会的生活を送るすべてのなんによは、両性間のアツトラクシヨンにおいて、ことごとく随縁臨機に測りがたき変化を受けつつあるとの結論に到着した。それを引き延ばすと、既婚の一対は、双方ともに、流俗にいわゆるインフイデリチの念に冒されて、過去から生じた不幸を、始終なめなければならないことになった。代助は、感受性のもっとも発達した、また接触点のもっとも自由な、都会人士の代表者として、げいしやを選んだ。彼らのあるものは、生涯に情夫を何人取り替えるかわからないではないか。普通の都会人は、より少なき程度において、みんな芸妓ではないか。代助はかわらざる愛を、今の世に口にするものを偽善家の第一位に置いた。

 ここまで考えた時、代助の頭の中に、突然三千代の姿が浮かんだ。その時代助はこの論理中に、あるフアクターは数え込むのを忘れたのではなかろうかと疑ぐった。けれども、そのフアクターはどうしても発見することができなかった。すると、自分が三千代に対する情合いも、この論理によって、ただ現在的なものにすぎなくなった。彼の頭はまさにこれを承認した。しかし彼のハートは、たしかにそうだと感ずる勇気がなかった。

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