一一
いつの間にか、人が
近ごろ代助は前よりも誠太郎が好きになった。ほかの人間と話していると、人間の皮と話すようではがゆくってならなかった。けれども、顧みて自分を見ると、自分は人間中で、もっとも相手をはがゆがらせるようにこしらえられていた。これも長年生存競争の因果にさらされた
このごろ誠太郎はしきりに玉乗りの
誠太郎はこの春から中学校へ行きだした。すると急に
代助は
家の門をはいると、今度は門野が、主人の留守を幸いと、大きな声で
「いや、お早うがしたな」と言って玄関へ出て来た。代助はなんにも答えずに、帽子をそこへかけたまま、縁側から書斎へはいった。そうして、わざわざ障子をしめ切った。つづいて
「しめときますか。暑かありませんか」と聞いた。代助は
「しめておいてくれ」と命令した。門野は妙な顔をして障子をしめて出て行った。代助は暗くした
彼は人のうらやむほどつやの好い皮膚と、労働者に見いだしがたいように柔らかな筋肉をもった男であった。彼は生まれて以来、まだ大病と名のつくものを経験しなかったくらい、健康において幸福をうけていた。彼はこれでこそ、
代助が黙然として、自己はなんのためにこの世の中に生まれて来たかを考えるのはこういう時であった。彼は今まで何べんもこの大問題をとらえて、彼の眼前にすえつけてみた。その動機は、単に哲学上の好奇心から来たこともあるし、また世間の現象が、あまりに複雑な色彩をもって、彼の頭を染めつけようとあせるから来ることもあるし、また最後に
この根本義から
だから、代助は今日まで、自分の脳裏に
この主義をできるだけ遂行する彼は、その遂行の途中で、われ知らず、自分のとうに棄却した問題に襲われて、自分は今なんのために、こんなことをしているかと考え出すことがある。彼が番町を散歩しながら、なぜ散歩しつつあるかと疑ったのはまさにこれである。
その時彼は自分ながら、自分の活力に充実していないことに気がつく。
彼は立て切った
彼は
「やっぱり、三千代さんにあわなくちゃいかん」
彼は足の進まない方角へ散歩に出たのを悔いた。もう一ぺん出直して、平岡のもとまで行こうかと思っているところへ、
「なんだって、今時分来たんだ」と代助は
「今時分がちょうど訪問に好い刻限だろう。君、また昼寝をしたな。どうも職業のない人間は、惰弱でいかん。君はいったいなんのために生まれて来たのだったかね」と言って、寺尾は麦藁帽で、しきりに胸のあたりへ風を送った。時候はまだそれほど暑くないのだから、この所作はすこぶる
「なんのために生まれて
「君もずいぶん礼儀を知らない男だね」と寺尾はやむをえず答えた。けれどもべつだん感情を害した様子も見えなかった。実をいうと、このくらいな言葉は寺尾にとって、少しも無礼とは思えなかったのである。代助は黙って、寺尾の顔を見ていた。それは、むなしい壁を見ているより以上のなんらの感動をも、代助に与えなかった。
寺尾は
「これを訳さなけりゃならないんだ」と言った。代助は依然として黙っていた。
「食うに困らないと思って、そう無精な顔をしなくっても好かろう。もう少し判然としてくれ。こっちは生死の戦いだ」と言って、寺尾は小形の本を、とんとんと
「いつまでに」
寺尾は、書物のページをさらさらとくって見せたが、断然たる調子で、
「二週間」と答えたあとで、「どうでもこうでも、それまでに片づけなけりゃ、食えないんだからしかたがない」と説明した。
「偉い勢いだね」と代助はひやかした。
「だから、
「
「なんぼ、僕だって、そう無責任な翻訳はできないだろうじゃないか。誤訳でも指摘されるとあとから面倒だあね」
「しようがないな」と言って、代助はやっぱり横着な態度を維持していた。すると、寺尾は、「おい」と言った。「
「じゃなるべく少しにしようじゃないか」と断わっておいて、マークのつけてある所だけを見た。代助はその書物の
「やあ、ありがとう」と言って本を伏せた。
「わからない所はどうする」と代助が聞いた。
「なにどうかする。──
相談がすむと、寺尾は例によって、文学談を持ち出した。不思議なことに、そうなると、自己の翻訳とは違って、いつものとおり非常に熱心になった。代助は現今の文学者の公けにする創作のうちにも、寺尾の翻訳と同じ意味のものがたくさんあるだろうと考えて、寺尾の矛盾をおかしく思った。けれども面倒だから、口へは出さなかった。
寺尾のおかげで代助はその日とうとう平岡へ行きはぐれてしまった。
そこへ門野が大きなランプを持ってはいって来た。それには
「もう、そろそろ
「まだ出やしまい」と答えた。すると門野は例のごとく、
「そうでしょうか」と言う返事をしたが、すぐまじめな調子で、「蛍てえものは、昔はだいぶはやったもんだが、近来はあまり文士がたが騒がないようになりましたな。どういうもんでしょう。蛍だの
「そうさ。どういうわけだろう」と代助もそらっとぼけて、まじめな挨拶をした。すると門野は、
「やっぱり、電気燈に圧倒されて、だんだん退却するんでしょう」と言い終わって、みずから、えへへへと、
「またお出かけですか。よござんす。ランプは私が気をつけますから。──小母さんがさっきから腹が痛いって寝たんですが、なにたいしたことはないでしょう。御ゆっくり」
代助は門を出た。江戸川まで来ると、河の水がもう暗くなっていた。彼はもとより平岡をたずねる気であった。からいつものように
実をいうと、代助はそれから三千代にも平岡にも二、三べんあっていた。一ぺんは平岡から比較的長い手紙を受け取った時であった。それには、第一に着京以来お世話になってありがたいという礼が述べてあった。それから、──その後いろいろ
いま一ぺんは、いよいよ新聞のほうがきまったから、一晩ゆっくり君と飲みたい。
三べん目には、平岡の社へ出た留守をたずねた。その時は用事もなにもなかった。約三十分ばかり縁へ腰をかけて話した。
それから以後はなるべく
翌日目がさめると、依然として脳の中心から、半径の違った円が、頭を二重に仕切っているような心持ちがした。こういう時に代助は、頭の内側と外側が、質の異なった切り組み細工ででき上がっているとしか感じえられない癖になっていた。それでよく自分で自分の頭を振ってみて、二つのものを混ぜようとつとめたものである。彼は今枕の上へ髪をつけたなり、右の手を固めて、耳の上を二、三度たたいた。
代助はかかる脳髄の異状をもって、かつて酒の
床の上に起き上がって、彼はまた頭を振った。
「小母さん、そう働いちゃ悪いだろう。先生の
ナイフを置くやいなや、代助はすぐ
「お宅からお迎いが参りました」と言った。代助は
「勝、お迎えってなんだい」と聞くと、勝は恐縮の態度で、
「奥様が車を持って、迎いに言って来いって、おっしゃいました」
「なにか急用でもできたのかい」
勝はもとより何事も知らなかった。
「おいでになればわかるからって──」と簡潔に答えて、言葉の
代助は奥へはいった。婆さんを呼んで着物を出させようと思ったが、腹の痛むものを使うのがいやなので、自分で
その日は風が強く吹いた。勝は苦しそうに、前の方にこごんで
なにか事が起こったのかと思って、上がり掛けに、
「やあ、
「
「今日はなぜ学校へ行かないんだ。そうして朝っぱらから莓なんぞ食って」とからかうように、しかるように言った。
「だって今日は日曜じゃありませんか」と誠太郎はまじめになった。
「おや、日曜か」と代助は驚いた。
直木は代助の顔を見てとうとう笑いだした。代助も笑って、座敷へ来た。そこには誰もいなかった。替え立ての畳の上に、丸い
座敷を通り抜けて、兄の部屋の方へ来たら、人の影がした。
「あら、だって、それじゃあんまりだわ」と言う
「そら来た。ね。だからいっしょに連れて行っておもらいよ」と梅子に話しかけた。代助にはなんの意味だかもとよりわからなかった。すると、梅子が代助の方に向き直った。
「
「ええ、まあ暇です」と代助は答えた。
「じゃ、いっしょに
代助は嫂のこの言葉を聞いて、頭の中に、たちまち一種の
「ええよろしい、行きましょう」と
「だって、あなたは、もう、一ぺんみたっていうんじゃありませんか」と聞き返した。
「一ぺんだろうが、二へんだろうが、ちっともかまわない。行きましょう」と代助は梅子を見て微笑した。
「あなたもよっぽど道楽ものね」と梅子が評した。代助はますます滑稽を感じた。
兄は用があると言って、すぐ出て行った。四時ごろ用がすんだら
梅子と縫子は長い時間をお化粧に費やした。代助は懇よくお化粧の監督者になって、
父は
「ひどく、信用を落としたもんだな」
代助はこう言って、嫂と縫子の
代助は風を恐れて
芝居の中では、嫂も縫子も非常に熱心な
幕の合間に縫子が代助の方を向いて時々妙なことを聞いた。なぜあの人は
小供のうちから日本在来の芝居を見慣れた代助は、むろん梅子と同じように、単純なる芸術の鑑賞家であった。そうして舞台における芸術の意味を、役者の手腕についてのみ用いべきものと狭義に解釈していた。だから梅子とは大いに話が合った。時々顔を見合わして、
代助の右隣には自分と同年輩の男が
代助は苦しいので、何べんも席を立って、後ろの廊下へ出て、狭い空を仰いだ。兄が来たら、嫂と縫子を引き渡して早く帰りたいくらいに思った。一ぺんは縫子を連れて、そこいらをぐるぐる運動して歩いた。しまいにはちと酒でも取り寄せて飲もうかと思った。
兄は日暮とすれすれに来た。たいへん遅かったじゃありませんかと言った時、帯の間から、金時計を出して見せた。実際六時少し回ったばかりであった。兄は例のごとく、平気な顔をして、方々見回していた。が、飯を食う時、立って廊下へ出たぎり、なかなか帰って来なかった。しばらくして、代助がふと振り返ったら、一件置いて隣の金縁の眼鏡をかけた男の所へはいって、話をしていた。若い女にも時々話しかけるようであった。しかし女のほうでは笑い顔をちょっと見せるだけで、すぐ舞台の方へまじめに向き直った。代助は嫂にその人の名を聞こうと思ったが、兄は人の集まる所へさえ出れば、どこへでもかくのごとく平気にはいり込むほど、世間の広い、また世間を自分の家のように心得ている男であるから、気にもかけずに黙っていた。
すると幕の切れ目に、兄が入口まで帰ってきて、代助ちょっと来いと言いながら、代助をその金縁の男の席へ連れて行って、愚弟だと紹介した。それから代助には、これが
五、六分して、代助は兄とともに自分の席に返った。佐川の娘を紹介されるまでは、兄の見えしだい逃げる気であったが、今ではそういかなくなった。あまり現金に見えては、かえって好くない結果を引き起こしそうな気がしたので、苦しいのをがまんしてすわっていた。兄も芝居についてはまったく興味がなさそうだったけれども、例のごとく
芝居のしまいになったのは十一時近くであった。外へ出て見ると、風はまったくやんだが、月も星も見えない静かな晩を、電燈が少しばかり照らしていた。時間が遅いので茶屋では話をする暇もなかった。三人の迎いは来ていたが、代助はつい車をあつらえておくのを忘れた。
「お神さん、電車へ乗るなら、ここじゃいけない。向こう側だ」と教えながら歩きだした。神さんは礼を言ってついて来た。代助は
車の中では、眠くて寝られないような気がした。揺れながらも今夜の睡眠が苦になった。彼は大いに疲労して、白昼のすべてに、惰気をもよおすにもかかわらず、知られざる何物かの興奮のために、静かな夜をほしいままにすることができないことがよくあった。彼の脳裏には、今日の日中に、かわるがわるあとを残した色彩が、時の前後と形の差別を忘れて、一度にちらついていた。そうして、それがなにの色彩であるか、なにの運動であるか、たしかにわからなかった。彼は目を眠って、家へ帰ったら、またウィスキーの力を借りようと覚悟した。
彼はこの取りとめのない花やかな色調の反照として、三千代のことを思い出さざるを得なかった。そうしてそこにわが安住の地を見いだしたような気がした。けれどもその安住の地は、明らかには、彼の目に映じて出なかった。ただ、かれの心の調子全体で、それを認めただけであった。したがって彼は三千代の顔や、ようすや、言葉や、夫婦の関係や、病気や、身分をひとまとめにしたものを、わが情調にしっくり合う対象として、発見したにすぎなかった。
翌日代助は
この友人は国へ帰ってから、約一年ばかりして、京都在のある財産家から嫁をもらった。それはむろん親の言いつけであった。すると、しばらくして、すぐ子供が生まれた。女房のことはもらった時よりほかになにも言ってこないが、子供のおいたちには興味があると見えて、時々代助がおかしくなるような報知をした。代助はそれを読むたびに、この子供に対して、満足しつつある友人の生活を想像した。そうして、この子供のために、彼の細君に対する感想が、もらった当時に比べて、どのくらい変化したかを疑った。
友人は時々
代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向をもっていたこの旧友が、当時とはまるで反対の思想と行動とに支配されて、生活の
彼は
彼は肉体と精神において美の類別を認める男であった。そうして、あらゆる美の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考えた。あらゆる美の種類に接触して、そのたびごとに甲から乙に気を移し、乙から丙に心を動かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞家であると断定した。彼はこれを自家の経験に徴して争うべからざる真理と信じた。その真理から
ここまで考えた時、代助の頭の中に、突然三千代の姿が浮かんだ。その時代助はこの論理中に、ある
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