一〇
代助は時々尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける。それがはげしくなると、晴天から来る日光の反射にさえ堪えがたくなることがあった。そういう時には、なるべく世間との交渉を希薄にして、朝でもひるでもかまわず寝る工夫をした。その手段には、きわめて淡い、甘味の軽い、花の香をよく用いた。
代助は父に呼ばれてから二、三日の間、庭の
彼の今の気分は、彼に時々起こるごとく、総体のうえに一種の暗調を帯びていた。だからあまりに明るすぎるものに接すると、その矛盾に堪えがたかった。擬宝珠の葉も長く見つめていると、すぐいやになるくらいであった。
そのうえ彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲われだした。その不安は人と人との間に信仰がない原因から起こる野蛮程度の現象であった。彼はこの心的現象のためにはなはだしき動揺を感じた。彼は神に信仰を置くことを喜ばぬ人であった。また頭脳の人として、神に信仰を置くことのできぬ
代助が父にあって、結婚の相談を受けたときも、少しこれと同様の気がした。が、これはただ父に信仰がないところから起こる、代助にとって不幸な暗示にすぎなかった。そうして代助は自分の心のうちに、かかるいまわしい暗示を受けたのを、不徳義とは感じえなかった。それが事実となって眼前にあらわれても、やはり父をもっともだと
代助は平岡に対しても同様の感じをいだいていた。しかし平岡にとっては、それが当然なことであると許していた。ただ平岡を好く気になれないだけであった。代助は兄を愛していた。けれどもその兄に対してもやはり信仰はもちえなかった。
代助は平生から、このくらいに世の中を
一時間ののち、代助は大きな黒い目をあいた。その目は、しばらくの間一つ所にとどまってまったく動かなかった。手も足も寝ていた時の姿勢を少しもくずさずに、まるで死人のそれのようであった。その時一匹の黒い蟻が、ネルの
膝のまわりに、まだ三、四匹はっていたのを、薄い
「お目ざめですか」と言って、門野が出て来た。
「お茶でも入れて来ましょうか」と聞いた。代助は、はだかった胸をかき合わせながら、
「君、僕の寝ていたうちに、誰か来やしなかったかね」と、静かな調子で尋ねた。
「ええ、おいででした。平岡の奥さんが。よく御存じですな」と門野は平気に答えた。
「なぜ起こさなかったんだ」
「あんまりよくお休みでしたからな」
「だってお客ならしかたがないじゃないか」
代助の語勢は少し強くなった。
「ですがな。平岡の奥さんのほうで、起こさないほうが好いって、おっしゃったもんですからな」
「それで、奥さんは帰ってしまったのか」
「なに帰ってしまったというわけでもないんです。ちょっと
「じゃまた来るんだね」
「そうです。実はお目覚めになるまで待っていようかって、この座敷まで上がって来られたんですが、先生の顔を見て、あんまりよく寝ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」
「また出て行ったのかい」
「ええ、まあそうです」
代助は笑いながら、両手で寝起きの顔をなでた。そうして風呂場へ顔を洗いに行った。頭をぬらして、縁側まで帰って来て、庭をながめていると、前よりは気分がだいぶ
代助はこのまえ平岡の訪問を受けてから、心待ちにあとから三千代の来るのを待っていた。けれども、平岡の言葉はついに事実として現われてこなかった。特別の事情があって、三千代がわざと来ないのか、また平岡がはじめからお世辞を使ったのか、疑問であるが、それがため、代助は心のどこかに空虚を感じていた。しかし彼はこの空虚な感じを、一つの経験として日常生活中に見いだしたまでで、その原因をどうするの、こうするのという気はあまりなかった。この経験自身の奥をのぞき込むと、それ以上に暗い影がちらついているように思ったからである。
それで彼は進んで平岡を訪問するのを避けていた。散歩のとき彼の足は多く
彼は平岡の安否を気にかけていた。まだ
こんなふうに、代助は空虚なるわが心の一角をいだいて今日に至った。いまさきがた門野を呼んで
代助は両手を額に当てて、高い空をおもしろそうに切って回る
代助はぼんやり壁を見つめていた。門野をもう一ぺん呼んで、三千代がまたくる時間を、言い置いて行ったかどうか尋ねようと思ったが、あまり愚だからはばかった。そればかりではない、人の細君が訪ねて来るのを、それほど待ち受ける趣意がないと考えた。またそれほど待ち受けるくらいなら、こちらからいつでも行って話をすべきであると考えた。この矛盾の両面を
それから、三千代の来るまで、代助はどんなふうに時をすごしたか、ほとんど知らなかった。表に女の声がした時、彼は胸に一鼓動を感じた。彼は論理においてもっとも強い代わりに、心臓の作用においてもっとも弱い男であった。彼は近来おこれなくなったのは、まったく頭のおかげで、腹を立てるほど自分を馬鹿にすることを、理知が許さなかったからである。がその他の点においては、尋常以上に情緒の支配を受けるべく余儀なくされていた。取り次ぎに出た門野が足音を立てて、書斎の
「こっちにしますか」とはなはだ簡単に代助の意向をたしかめた。座敷へ案内するか、書斎であうかと聞くのが面倒だから、こうつめてしまったのである。代助はうんと言って、入口に返事を待っていた門野を追い払うように、自分で立って行って、縁側へ首を出した。三千代は縁側と玄関の継ぎ目の所に、こちらを向いてためらっていた。
三千代の顔はこのまえあった時よりはむしろ
「どうかしましたか」と聞いた。
三千代はなんにも答えずに
「ああ苦しかった」と言いながら、代助の方を見て笑った。代助は手をたたいて水を取り寄せようとした。三千代は黙ってテーブルの上をさした。そこには代助の食後のうがいをするガラスのコップがあった。中に水が二口ばかり残っていた。
「きれいなんでしょう」と三千代が聞いた。
「こいつはさっき僕が飲んだんだから」と言って、コップを取り上げたが、
「今すぐ持って来てあげる」と言いながら、せっかくあけたコップをそのまま洋卓の上に置いたなり、勝手の方へ出て行った。茶の間を通ると、門野は無細工な手をして
「先生、今じきです」と言い訳をした。
「茶は後でも好い。水がいるんだ」と言って、代助は自分で台所へ出た。
「はあ、そうですか。あがるんですか」と茶壷を放り出して門野もついて来た。二人でコップをさがしたがちょっと見つからなかった。婆さんはと聞くと、今お客さんの菓子を買いに行ったという答えであった。
「菓子がなければ、早く買っておけばいいのに」と代助は水道の
「つい、
「じゃ、君が菓子を買いに行けばいいのに」と代助は勝手を出ながら、門野にあたった。門野はそれでも、まだ、返事をした。
「なに菓子のほかにも、まだいろいろ買い物があるって言うもんですからな。足は悪し天気はよくないし、よせばいいんですのに」
代助は振り向きもせず、書斎へもどった。敷居をまたいで、中へはいるやいなや三千代の顔を見ると、三千代はさっき代助の置いて行ったコップを膝の上に両手で持っていた。そのコップの中には、代助が庭へあけたと同じくらいに水がはいっていた。代助は湯吞を持ったまま、
「どうしたんです」と聞いた。三千代はいつものとおり落ちついた調子で、
「ありがとう。もうたくさん。今あれを飲んだの。あんまりきれいだったから」と答えて、鈴蘭のつけてある鉢をかえりみた。代助はこの
「なぜあんなものを飲んだんですか」と代助はあきれて聞いた。
「だって毒じゃないでしょう」と三千代は手に持ったコップを代助の前へ出して、透かして見せた。
「毒でないったって、もし
「いえ、さっき来た時、あのそばまで顔を持って行ってかいでみたの。その時、たった今その鉢へ水を入れて、
代助は黙って椅子へ腰をおろした。はたして詩のために鉢の水をのんだのか、または生理上の作用にうながされて飲んだのか、追窮する勇気も出なかった。よし前者としたところで、詩をてらって、小説のまねなぞをした受け売りの所作とは認められなかったからである。そこで、ただ、
「気分はもう好くなりましたか」と聞いた。
三千代の
「けれども、慣れっこになってるんだから、驚きゃしません」と言って、代助を見てさみしい笑い方をした。
「心臓のほうは、まだすっかりよくないんですか」と代助は気の毒そうな顔で尋ねた。
「すっかりよくなるなんて、生涯だめですわ」
意味の絶望なほど、三千代の言葉は沈んでいなかった。ほそい指をそらしてはめている
すると、三千代は急に思い出したように、このあいだの小切手の礼を述べだした。その時なんだか少し頰を赤くしたように思われた。視感の鋭敏な代助にはそれがよくわかった。彼はそれを、貸借に関した
さっき三千代がさげてはいって来た百合の花が、依然としてテーブルの上に載っている。甘たるい強い香が二人の間に立ちつつあった。代助はこの重苦しい刺激を鼻の先に置くに堪えなかった。けれども無断で、取りのけるほど、三千代に対して思い切ったふるまいができなかった。
「この花はどうしたんです。買って来たんですか」と聞いた。三千代は黙ってうなずいた。そうして、
「好いにおいでしょう」と言って、自分の鼻を
「そうそばでかいじゃいけない」
「あらなぜ」
「なぜって理由もないんだが、いけない」
代助は少し
「あなた、この花、おきらいなの?」
代助は椅子の足を斜めに立てて、身体を後ろへ伸ばしたまま、答えをせずに、微笑してみせた。
「じゃ、買って来なくっても好かったのに。つまらないわ、回り
雨はほんとうに降ってきた。
「僕にくれたのか。そんなら早くいけよう」と言いながら、すぐさっきの大鉢の中に投げ込んだ。茎が長すぎるので、根が水をはねて、飛び出しそうになる。代助は
「さあこれで好い」と代助は鋏をテーブルの上に置いた。三千代はこの不思議な無作法にいけられた百合を、しばらく見ていたが、突然、
「あなた、いつからこの花がお嫌いになったの」と妙な質問をかけた。
昔三千代の兄がまだ生きていた時分、ある日なにかのはずみに、長い百合を買って、代助が
「あなただって、鼻をつけてかいでいらしったじゃありませんか」と言った。代助はそんなことがあったようにも思って、しかたなしに苦笑した。
そのうち雨はますます深くなった。家を包んで遠い音がきこえた。門野が出てきて、少し寒いようですな、ガラス戸をしめましょうかと聞いた。ガラス戸を引く間、二人は顔をそろえて庭の方を見ていた。青い木の葉がことごとくぬれて、静かな
「好い雨ですね」と言った。
「ちっともよかないわ、
三千代はむしろ恨めしそうに樋からもるあまだれをながめた。
「帰りには車を言いつけてあげるからいいでしょう。ゆっくりなさい」
三千代はあまりゆっくりできそうな様子も見えなかった。まともに、代助の方を見て、
「あなたも相変わらず
今まで三千代の陰に隠れてぼんやりしていた平岡の顔が、この時明らかに代助の心の
「平岡君はどうしました」とわざとなにげなく聞いた。すると三千代の口元がこころもち締まって見えた。
「相変わらずですわ」
「まだなんにも
「そのほうはまあ安心なの。来月から新聞のほうがたいていできるらしいんです」
「そりゃ好かった。ちっとも知らなかった。そんなら当分それで好いじゃありませんか」
「ええ、まあありがたいわ」と三千代は低い声でまじめに言った。代助は、その時三千代をたいへんかわいく感じた。引き続いて、
「あっちのほうは差し当たり責められるようなこともないんですか」と聞いた。
「あっちのほうって──」と少しためらっていた三千代は、急に顔をあからめた。
「私、実は今日それでおわびにあがったのよ」と言いながら、一度うつむいた顔をまた上げた。
代助は少しでも気まずい様子を見せて、この上にも、女の優しい血潮を動かすに堪えなかった。同時に、わざと向こうの意を迎えるような言葉をかけて、相手をことさらに気の毒がらせる結果を避けた。それで静かに三千代の言うところをきいた。
先だっての二百円は、代助から受け取るとすぐ借銭のほうへ回すはずであったが、新らしく家を持ったため、いろいろ入費がかかったので、ついそのほうの用を、あのうちでいくぶんか弁じたのがはじまりであった。あとはと思っていると、今度は毎日の
「私、ほんとうにすまないことをしたと思って、後悔しているのよ。けれども拝借するときは、けっしてあなたをだまして噓をつくつもりじゃなかったんだから、堪忍してちょうだい」と三千代ははなはだ苦しそうに言い訳をした。
「どうせあなたにあげたんだから、どう使ったって、誰もなんとも言うわけはないでしょう。役にさえ立てばそれで好いじゃありませんか」と代助は慰めた。そうしてあなたという字をことさらに重くかつゆるく響かせた。三千代はただ、
「私、それでようやく安心したわ」と言っただけであった。
雨が
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