一〇

 ありの座敷へ上がる時候になった。代助は大きなはちへ水を張って、その中に真っ白なすずらんを茎ごとけた。むらがる細かい花が、濃い模様のふちを隠した。鉢を動かすと、花がこぼれる。代助はそれを大きな字引の上に載せた。そうして、そのそばに枕を置いてあおけに倒れた。黒い頭がちょうど鉢の陰になって、花から出るにおいが、いい具合に鼻にかよった。代助はその香をかぎながらうたた寝をした。

 代助は時々尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける。それがはげしくなると、晴天から来る日光の反射にさえ堪えがたくなることがあった。そういう時には、なるべく世間との交渉を希薄にして、朝でもひるでもかまわず寝る工夫をした。その手段には、きわめて淡い、甘味の軽い、花の香をよく用いた。まぶたを閉じて、ひとみに落ちる光線を謝絶して、静かに鼻の穴だけで呼吸しているうちに、まくらもとの花が、しだいに夢のほうへ、さわぐ意識を吹いて行く。これが成功すると、代助の神経が生れ代わったように落ちついて、世間との連絡が、前よりは比較的楽に取れる。

 代助は父に呼ばれてから二、三日の間、庭のすみに咲いたの花の赤いのを見るたびに、それが点々として目を刺してならなかった。その時は、いつでも、手水ちょうずばちのそばにある、しゆの葉に目を移した。その葉には、ほうな白いしまが、三筋か四筋、長く乱れていた。代助が見るたびに、擬宝珠の葉は延びてゆくように思われた。そうして、それとともに白い縞も、自由に拘束なく、延びるような気がした。柘榴ざくろの花は、薔薇よりも派手にかつ重苦しく見えた。緑の間にちらりちらりと光って見えるくらい、強い色を出していた。したがってこれも代助の今の気分にはうつらなかった。

 彼の今の気分は、彼に時々起こるごとく、総体のうえに一種の暗調を帯びていた。だからあまりに明るすぎるものに接すると、その矛盾に堪えがたかった。擬宝珠の葉も長く見つめていると、すぐいやになるくらいであった。

 そのうえ彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲われだした。その不安は人と人との間に信仰がない原因から起こる野蛮程度の現象であった。彼はこの心的現象のためにはなはだしき動揺を感じた。彼は神に信仰を置くことを喜ばぬ人であった。また頭脳の人として、神に信仰を置くことのできぬであった。けれども、相互に信仰を有するものは、神に依頼する必要がないと信じていた。相互が疑い合うときの苦しみをだつするために、神ははじめて存在の権利を有するものと解釈していた。だから、神のある国では、人が噓をつくものときめた。しかし今の日本は、神にも人にも信仰のないくにがらであるということを発見した。そうして、彼はこれを一に日本の経済事情に帰着せしめた。

 ごんぜん、彼はと結託して悪事を働いた刑事巡査の話を新聞で読んだ。それが一人や二人ではなかった。他の新聞のしるすところによれば、もし厳重に、それからそれへと、手を延ばしたら、東京は一時ほとんど無警察の有様に陥るかもしれないそうである。代助はその記事を読んだとき、ただ苦笑しただけであった。そうして、生活の大難に対抗せねばならぬ薄給の刑事が、悪いことをするのは、実際もっともだと思った。

 代助が父にあって、結婚の相談を受けたときも、少しこれと同様の気がした。が、これはただ父に信仰がないところから起こる、代助にとって不幸な暗示にすぎなかった。そうして代助は自分の心のうちに、かかるいまわしい暗示を受けたのを、不徳義とは感じえなかった。それが事実となって眼前にあらわれても、やはり父をもっともだとうけがうつもりだったからである。

 代助は平岡に対しても同様の感じをいだいていた。しかし平岡にとっては、それが当然なことであると許していた。ただ平岡を好く気になれないだけであった。代助は兄を愛していた。けれどもその兄に対してもやはり信仰はもちえなかった。あによめは実意のある女であった。しかし嫂は、直接生活の難関にあたらないだけ、それだけ兄よりも近づきやすいのだと考えていた。

 代助は平生から、このくらいに世の中をうちっていた。だから、非常な神経質であるにもかかわらず、不安の念に襲われることは少なかった。そうして、自分でもそれを自覚していた。それが、どういう具合か急にうごきだした。代助はこれを生理上の変化から起こるのだろうと察した。そこである人が北海道から採って来たと言ってくれた鈴蘭の束を解いて、それをことごとく水の中に浸して、その下に寝たのである。

 一時間ののち、代助は大きな黒い目をあいた。その目は、しばらくの間一つ所にとどまってまったく動かなかった。手も足も寝ていた時の姿勢を少しもくずさずに、まるで死人のそれのようであった。その時一匹の黒い蟻が、ネルのえりを伝わって、代助のに落ちた。代助はすぐ右の手を動かして咽喉をおさえた。そうして、額にしわを寄せて、指のまたにはさんだ小さな動物を、鼻の上まで持って来てながめた。その時蟻はもう死んでいた。代助はひとさしゆびの先についた黒いものを、親指のつめで向こうへはじいた。そうして起き上がった。

 膝のまわりに、まだ三、四匹はっていたのを、薄いぞうのペーパーナイフで打ち殺した。それから手をたたいて人を呼んだ。

 「お目ざめですか」と言って、門野が出て来た。

 「お茶でも入れて来ましょうか」と聞いた。代助は、はだかった胸をかき合わせながら、

 「君、僕の寝ていたうちに、誰か来やしなかったかね」と、静かな調子で尋ねた。

 「ええ、おいででした。平岡の奥さんが。よく御存じですな」と門野は平気に答えた。

 「なぜ起こさなかったんだ」

 「あんまりよくお休みでしたからな」

 「だってお客ならしかたがないじゃないか」

 代助の語勢は少し強くなった。

 「ですがな。平岡の奥さんのほうで、起こさないほうが好いって、おっしゃったもんですからな」

 「それで、奥さんは帰ってしまったのか」

 「なに帰ってしまったというわけでもないんです。ちょっと神楽かぐらざかに買い物があるから、それをすましてまた来るからって、言われるもんですからな」

 「じゃまた来るんだね」

 「そうです。実はお目覚めになるまで待っていようかって、この座敷まで上がって来られたんですが、先生の顔を見て、あんまりよく寝ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」

 「また出て行ったのかい」

 「ええ、まあそうです」

 代助は笑いながら、両手で寝起きの顔をなでた。そうして風呂場へ顔を洗いに行った。頭をぬらして、縁側まで帰って来て、庭をながめていると、前よりは気分がだいぶせいせいした。曇った空をつばめが二羽飛んでいる様が大いに愉快に見えた。

 代助はこのまえ平岡の訪問を受けてから、心待ちにあとから三千代の来るのを待っていた。けれども、平岡の言葉はついに事実として現われてこなかった。特別の事情があって、三千代がわざと来ないのか、また平岡がはじめからお世辞を使ったのか、疑問であるが、それがため、代助は心のどこかに空虚を感じていた。しかし彼はこの空虚な感じを、一つの経験として日常生活中に見いだしたまでで、その原因をどうするの、こうするのという気はあまりなかった。この経験自身の奥をのぞき込むと、それ以上に暗い影がちらついているように思ったからである。

 それで彼は進んで平岡を訪問するのを避けていた。散歩のとき彼の足は多くがわの方角に向いた。桜の散る時分には、夕暮の風に吹かれて、四つの橋をこちらから向こうへ渡り、向こうからまたこちらへ渡り返して、長いどてを縫うように歩いた。がその桜はとくに散ってしまって、今はりよくいんの時節になった。代助は時々橋の真ん中に立って、らんかんほおづえを突いて、茂る葉の中を、まっすぐに通っている、水の光をながめつくして見る。それからその光の細くなった先の方に、高くそびえるじろだいの森を見上げてみる。けれども橋を向こうへ渡って、いしかわの坂を上がることはやめにして帰るようになった。ある時彼はおおまがりのところで、電車をおりる平岡の影を半町ほど手前から認めた。彼はたしかにそうにちがいないと思った。そうして、すぐあげの方へ引き返した。

 彼は平岡の安否を気にかけていた。まだぐいの不安な境遇におるにちがいないとは思うけれども、あるいはどの方面かへ、生活の行路を切り開く手がかりができたかもしれないとも想像してみた。けれども、それをたしかめるために、平岡の後を追う気にはなれなかった。彼は平岡に面するときの、原因不明な一種の不快を予想するようになった。といって、ただ三千代のためにのみ、平岡の位地を心配するほど、平岡をにくんでもいなかった。平岡のためにも、やはり平岡の成功を祈る心はあったのである。

 こんなふうに、代助は空虚なるわが心の一角をいだいて今日に至った。いまさきがた門野を呼んでくくまくらを取り寄せて、ひるねをむさぼった時は、あまりにはつらつたる宇宙の刺激に堪えなくなった頭を、できるならば、あおい色のついた、深い水の中に沈めたいくらいに思った。それほど彼は命を鋭く感じすぎた。したがって熱い頭を枕へつけた時は、平岡も三千代も、彼にとってほとんど存在していなかった。彼は幸いにして涼しいこころちに寝た。けれどもその穏やかな眠りのうちに、誰かすうと来て、またすうと出て行ったような心持ちがした。目をさまして起き上がってもその感じがまだ残っていて、頭からぬぐいさることができなかった。それで門野を呼んで、寝ている間に誰か来はしないかと聞いたのである。

 代助は両手を額に当てて、高い空をおもしろそうに切って回るつばめの運動を縁側からながめていたが、やがて、それが目まぐるしくなったので、へやの中へはいった。けれども、三千代がまたたずねて来るという目前の予期が、すでに気分の平調を冒しているので、思索も読書もほとんど手につかなかった。代助はしまいにほんだなの中から、大きなちようを出してきて、膝の上に広げて、繰りはじめた。けれども、それも、ただ指の先で順々にあけていくだけであった。一つはんぶんとは味わっていられなかった。やがてブランギンのところへ来た。代助は平生からこの装飾画家に多大の趣味をもっていた。彼の目は常のごとく輝きを帯びて、ひとたびはその上に落ちた。それはどこかの港の図であった。背景に船とほばしらと帆を大きくかいて、その余った所に、きわって花やかな空の雲と、あおぐろい水の色をあらわした前に、裸体の労働者が四、五人いた。代助はこれらの男性の、山のごとくにいからした筋肉の張り具合や、彼らの肩から背へかけて、肉塊と肉塊が落ち合って、そのあいだにうずのような谷を作っている模様を見て、そこにしばらく肉の力の快感を認めたが、やがて、画帖を開けたまま、目を放して耳を立てた。すると勝手の方でばあさんの声がした。それから牛乳配達があきびんを鳴らして急ぎ足に出て行った。うちのうちが静かなので、鋭い代助の聴神経にはよくこたえた。

 代助はぼんやり壁を見つめていた。門野をもう一ぺん呼んで、三千代がまたくる時間を、言い置いて行ったかどうか尋ねようと思ったが、あまり愚だからはばかった。そればかりではない、人の細君が訪ねて来るのを、それほど待ち受ける趣意がないと考えた。またそれほど待ち受けるくらいなら、こちらからいつでも行って話をすべきであると考えた。この矛盾の両面をそうたいに見た時、代助は急に自己の没論理に恥じざるを得なかった。彼の腰は半ばを離れた。けれども彼はこの没論理の根底によこたわるいろいろのファクターを自分でよく承知していた。そうして、今の自分にとっては、この没論理の状態が、ゆいいつの事実であるからしかたないと思った。かつ、この事実と衝突する論理は、自己に無関係な命題をつなぎ合わしてでき上がった、自己の本体をべつする、形式にすぎないと思った。そう思ってまた椅子へ腰をおろした。

 それから、三千代の来るまで、代助はどんなふうに時をすごしたか、ほとんど知らなかった。表に女の声がした時、彼は胸に一鼓動を感じた。彼は論理においてもっとも強い代わりに、心臓の作用においてもっとも弱い男であった。彼は近来おこれなくなったのは、まったく頭のおかげで、腹を立てるほど自分を馬鹿にすることを、理知が許さなかったからである。がその他の点においては、尋常以上に情緒の支配を受けるべく余儀なくされていた。取り次ぎに出た門野が足音を立てて、書斎のいりぐちにあらわれた時、血色のいい代助のほおはかすかにつやを失っていた。門野は、

 「こっちにしますか」とはなはだ簡単に代助の意向をたしかめた。座敷へ案内するか、書斎であうかと聞くのが面倒だから、こうつめてしまったのである。代助はうんと言って、入口に返事を待っていた門野を追い払うように、自分で立って行って、縁側へ首を出した。三千代は縁側と玄関の継ぎ目の所に、こちらを向いてためらっていた。

 三千代の顔はこのまえあった時よりはむしろあおじろかった。代助に目と顎で招かれて書斎の入口へ近寄った時、代助は三千代の息をはずましていることに気がついた。

 「どうかしましたか」と聞いた。

 三千代はなんにも答えずにへやの中にはいって来た。セルの単衣ひとえの下にじゆばんを重ねて、手に大きな白いの花を三本ばかりさげていた。その百合をいきなりテーブルの上に投げるように置いて、その横にある椅子へ腰をおろした。そうして、ったばかりの銀杏いちようがえしを、かまわず、椅子の背に押しつけて、

 「ああ苦しかった」と言いながら、代助の方を見て笑った。代助は手をたたいて水を取り寄せようとした。三千代は黙ってテーブルの上をさした。そこには代助の食後のうがいをするガラスのコップがあった。中に水が二口ばかり残っていた。

 「きれいなんでしょう」と三千代が聞いた。

 「こいつはさっき僕が飲んだんだから」と言って、コップを取り上げたが、ちゆうちよした。代助のすわっている所から、水をすてようとすると、障子の外に硝子戸が一枚じゃまをしている。門野は毎朝縁側の硝子戸を一、二枚ずつあけないで、元のとおりに放っておく癖があった。代助は席を立って、縁へ出て、水を庭へあけながら、門野を呼んだ。今いた門野はどこへ行ったか、容易に返事をしなかった。代助は少しまごついて、また三千代の所へ帰って来て、

 「今すぐ持って来てあげる」と言いながら、せっかくあけたコップをそのまま洋卓の上に置いたなり、勝手の方へ出て行った。茶の間を通ると、門野は無細工な手をしてすずちやつぼから玉露をつまみ出していた。代助の姿を見て、

 「先生、今じきです」と言い訳をした。

 「茶は後でも好い。水がいるんだ」と言って、代助は自分で台所へ出た。

 「はあ、そうですか。あがるんですか」と茶壷を放り出して門野もついて来た。二人でコップをさがしたがちょっと見つからなかった。婆さんはと聞くと、今お客さんの菓子を買いに行ったという答えであった。

 「菓子がなければ、早く買っておけばいいのに」と代助は水道のせんをねじってのみに水をあふらせながら言った。

 「つい、さんに、お客さんの来ることを言っておかなかったものですからな」と門野は気の毒そうに頭をかいた。

 「じゃ、君が菓子を買いに行けばいいのに」と代助は勝手を出ながら、門野にあたった。門野はそれでも、まだ、返事をした。

 「なに菓子のほかにも、まだいろいろ買い物があるって言うもんですからな。足は悪し天気はよくないし、よせばいいんですのに」

 代助は振り向きもせず、書斎へもどった。敷居をまたいで、中へはいるやいなや三千代の顔を見ると、三千代はさっき代助の置いて行ったコップを膝の上に両手で持っていた。そのコップの中には、代助が庭へあけたと同じくらいに水がはいっていた。代助は湯吞を持ったまま、ぼうぜんとして、三千代の前に立った。

 「どうしたんです」と聞いた。三千代はいつものとおり落ちついた調子で、

 「ありがとう。もうたくさん。今あれを飲んだの。あんまりきれいだったから」と答えて、鈴蘭のつけてある鉢をかえりみた。代助はこのおおはちの中に水を八分目ほど張っておいた。つまようぐらいな細い茎の薄青い色が、水の中にそろっている間から、やきものの模様がほのかに浮いて見えた。

 「なぜあんなものを飲んだんですか」と代助はあきれて聞いた。

 「だって毒じゃないでしょう」と三千代は手に持ったコップを代助の前へ出して、透かして見せた。

 「毒でないったって、もしふつみつもたった水だったらどうするんです」

 「いえ、さっき来た時、あのそばまで顔を持って行ってかいでみたの。その時、たった今その鉢へ水を入れて、おけから移したばかりだって、あのかたが言ったんですもの。大丈夫だわ。好いにおいね」

 代助は黙って椅子へ腰をおろした。はたして詩のために鉢の水をのんだのか、または生理上の作用にうながされて飲んだのか、追窮する勇気も出なかった。よし前者としたところで、詩をてらって、小説のまねなぞをした受け売りの所作とは認められなかったからである。そこで、ただ、

 「気分はもう好くなりましたか」と聞いた。

 三千代のほおにようやく色が出て来た。たもとからハンケチを取り出して、口のあたりをふきながら話を始めた。──たいていはでんずういんまえから電車へ乗ってほんごうまで買い物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷のほうは神楽かぐらざかに比べて、どうしても一割か二割物が高いというので、このあいだから一、二度こっちのほうへ出て来てみた。このまえも寄るはずであったが、つい遅くなったので急いで帰った。今日はそのつもりで早くうちを出た。が、おやすみ中だったので、また通りまで行って買い物をすまして帰りがけに寄ることにした。ところが天気模様が悪くなって、わらだなを上がりかけるとぽつぽつ降りだした。かさを持って来なかったので、ぬれまいと思って、つい急ぎすぎたものだから、すぐ身体にさわって、息が苦しくなって困った。──

 「けれども、慣れっこになってるんだから、驚きゃしません」と言って、代助を見てさみしい笑い方をした。

 「心臓のほうは、まだすっかりよくないんですか」と代助は気の毒そうな顔で尋ねた。

 「すっかりよくなるなんて、生涯だめですわ」

 意味の絶望なほど、三千代の言葉は沈んでいなかった。ほそい指をそらしてはめているゆびを見た。それから、ハンケチを丸めて、また袂へ入れた。代助は目をふせた女の額の、髪に連なるところをながめていた。

 すると、三千代は急に思い出したように、このあいだの小切手の礼を述べだした。その時なんだか少し頰を赤くしたように思われた。視感の鋭敏な代助にはそれがよくわかった。彼はそれを、貸借に関したしゆうの血潮とのみ解釈した。そこで話をすぐよそへそらした。

 さっき三千代がさげてはいって来た百合の花が、依然としてテーブルの上に載っている。甘たるい強い香が二人の間に立ちつつあった。代助はこの重苦しい刺激を鼻の先に置くに堪えなかった。けれども無断で、取りのけるほど、三千代に対して思い切ったふるまいができなかった。

 「この花はどうしたんです。買って来たんですか」と聞いた。三千代は黙ってうなずいた。そうして、

 「好いにおいでしょう」と言って、自分の鼻をはなびらのそばまで持って来て、ふんとかいでみせた。代助は思わず足をまっすぐに踏ん張って、身を後ろの方へそらした。

 「そうそばでかいじゃいけない」

 「あらなぜ」

 「なぜって理由もないんだが、いけない」

 代助は少しまゆをひそめた。三千代は顔をもとの位地にもどした。

 「あなた、この花、おきらいなの?」

 代助は椅子の足を斜めに立てて、身体を後ろへ伸ばしたまま、答えをせずに、微笑してみせた。

 「じゃ、買って来なくっても好かったのに。つまらないわ、回りみちをして。おまけに雨に降られそくなって、息を切らして」

 雨はほんとうに降ってきた。あまだれといに集まって、流れる音がざあと聞こえた。代助は椅子から立ち上がった。目の前にある百合の束を取り上げて、根元をくくったぬれわらをむしり切った。

 「僕にくれたのか。そんなら早くいけよう」と言いながら、すぐさっきの大鉢の中に投げ込んだ。茎が長すぎるので、根が水をはねて、飛び出しそうになる。代助はしたたる茎をまた鉢から抜いた。そうしてテーブルの引出しから西せいようばさみを出して、ぷつりぷつりと半分ほどの長さにきり詰めた。そうして、大きな花を、鈴蘭のむらがる上に浮かした。

 「さあこれで好い」と代助は鋏をテーブルの上に置いた。三千代はこの不思議な無作法にいけられた百合を、しばらく見ていたが、突然、

 「あなた、いつからこの花がお嫌いになったの」と妙な質問をかけた。

 昔三千代の兄がまだ生きていた時分、ある日なにかのはずみに、長い百合を買って、代助がなかの家をたずねたことがあった。その時彼は三千代にあやしげなはないけそうをさして、自分で、大事そうに買って来た花をいけて、三千代にも、三千代の兄にも、床へ向き直ってながめさしたことがあった。三千代はそれを覚えていたのである。

 「あなただって、鼻をつけてかいでいらしったじゃありませんか」と言った。代助はそんなことがあったようにも思って、しかたなしに苦笑した。

 そのうち雨はますます深くなった。家を包んで遠い音がきこえた。門野が出てきて、少し寒いようですな、ガラス戸をしめましょうかと聞いた。ガラス戸を引く間、二人は顔をそろえて庭の方を見ていた。青い木の葉がことごとくぬれて、静かな湿しめが、ガラス越しに代助の頭に吹き込んできた。世の中の浮いているものは残らず大地の上に落ちついたように見えた。代助は久しぶりでわれに返った心持ちがした。

 「好い雨ですね」と言った。

 「ちっともよかないわ、わたしぞうをはいて来たんですもの」

 三千代はむしろ恨めしそうに樋からもるあまだれをながめた。

 「帰りには車を言いつけてあげるからいいでしょう。ゆっくりなさい」

 三千代はあまりゆっくりできそうな様子も見えなかった。まともに、代助の方を見て、

 「あなたも相変わらずのんなことおっしゃるのね」とたしなめた。けれどもその目元には笑いの影がうかんでいた。

 今まで三千代の陰に隠れてぼんやりしていた平岡の顔が、この時明らかに代助の心のひとみに映った。代助は急に薄暗がりから物に襲われたような気がした。三千代はやはり、離れがたい黒い影を引きずって歩いている女であった。

 「平岡君はどうしました」とわざとなにげなく聞いた。すると三千代の口元がこころもち締まって見えた。

 「相変わらずですわ」

 「まだなんにもっからないんですか」

 「そのほうはまあ安心なの。来月から新聞のほうがたいていできるらしいんです」

 「そりゃ好かった。ちっとも知らなかった。そんなら当分それで好いじゃありませんか」

 「ええ、まあありがたいわ」と三千代は低い声でまじめに言った。代助は、その時三千代をたいへんかわいく感じた。引き続いて、

 「あっちのほうは差し当たり責められるようなこともないんですか」と聞いた。

 「あっちのほうって──」と少しためらっていた三千代は、急に顔をあからめた。

 「私、実は今日それでおわびにあがったのよ」と言いながら、一度うつむいた顔をまた上げた。

 代助は少しでも気まずい様子を見せて、この上にも、女の優しい血潮を動かすに堪えなかった。同時に、わざと向こうの意を迎えるような言葉をかけて、相手をことさらに気の毒がらせる結果を避けた。それで静かに三千代の言うところをきいた。

 先だっての二百円は、代助から受け取るとすぐ借銭のほうへ回すはずであったが、新らしく家を持ったため、いろいろ入費がかかったので、ついそのほうの用を、あのうちでいくぶんか弁じたのがはじまりであった。あとはと思っていると、今度は毎日の活計くらしに追われだした。自分ながら好い心持ちはしなかったけれども、しかたなしに困るとは使い、困るとは使いして、とうとうあらましなくしてしまった。もっともそうでもしなければ、夫婦はこんにちまでこうして暮らしては行けなかったのである。今から考えてみると、いっそのこと無ければ無いなりに、どうかこうかめんもついたかもしれないが、なまじい、手元にあったものだから、苦しまぎれに、急場の間に合わしてしまったので、肝心の証書を入れた借銭のほうは、いまだにそのままにしてある。これはむしろ平岡の悪いのではない。まったく自分のあやまちである。

 「私、ほんとうにすまないことをしたと思って、後悔しているのよ。けれども拝借するときは、けっしてあなたをだまして噓をつくつもりじゃなかったんだから、堪忍してちょうだい」と三千代ははなはだ苦しそうに言い訳をした。

 「どうせあなたにあげたんだから、どう使ったって、誰もなんとも言うわけはないでしょう。役にさえ立てばそれで好いじゃありませんか」と代助は慰めた。そうしてあなたという字をことさらに重くかつゆるく響かせた。三千代はただ、

 「私、それでようやく安心したわ」と言っただけであった。

 雨がしきりなので、帰るときには約束どおり車を雇った。寒いので、セルの上へ男の羽織を着せようとしたら、三千代は笑って着なかった。

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