九
代助はまた父から呼ばれた。代助にはその用事がたいていわかっていた。代助はふだんからなるべく父を避けて会わないようにしていた。このごろになってはなおさら奥へ寄りつかなかった。あうと、
代助は人類の
この二つの
代助の父の場合は、一般に比べると、やや特殊的傾向を帯びるだけに複雑であった。彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。この教育は情意行為の標準を、自己以外の遠いところにすえて、事実の発展によって証明せらるべき手近な
といって、父は代助の
代助はすべての道徳の出立点は社会的事実よりほかにないと信じていた。はじめから頭の中にこわばった道徳をすえつけて、その道徳から逆に社会的事実を発展させようとするほど、本末を誤った話はないと信じていた。したがって日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考えた。彼らは学校で昔風の道徳を教授している。それでなければ一般欧州人に適切な道徳をのみ込ましている。この劇烈なる生活欲に襲われた不幸な国民から見れば、迂遠の空談にすぎない。この迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る時、昔の講釈を思い出して笑ってしまう。でなければ
代助はこのまえ梅子に礼を言いに行った時、梅子からちょっと奥へ行って、挨拶をしていらっしゃいと注意された。代助は笑いながらお父さんはいるんですかとそらとぼけた。いらっしゃるわという確答を得た時でも、今日はちと急ぐからよそうと帰って来た。
今日はわざわざそのために来たのだから、いやでも応でも父にあわなければならない。相変わらず、
「どうだ、
「当ててごらんなさい。どのくらい古いんだか」と一杯ついだ。
「代助にわかるものか」と言って、誠吾は弟の唇のあたりをながめていた。代助は一口飲んで
「うまいですね」と言った。
「だから時代を当ててごらんなさいよ」
「時代があるんですか。偉いものを買い込んだもんだね。帰りに一本もらって行こう」
「おあいにくさま、もうこれぎりなの。到来物よ」と言って梅子は縁側へ出て、膝の上に落ちたウェーファーの粉をはたいた。
「
「今日は休養だ。このあいだじゅうはどうも忙しすぎて降参したから」と誠吾は火の消えた葉巻きを口にくわえた。代助は自分のそばにあったマッチをすってやった。
「
「姉さん
「あなたもう行ったの、驚いた。あなたもよっぽど
「怠けものはよくない。勉強の方向が違うんだから」
「押しの強いことばかり言って。人の気も知らないで」と梅子は誠吾の方を見た。誠吾は赤い
「ねえ、あなた」と梅子が催促した。誠吾はうるさそうに葉巻きを指の
「今のうちたんと勉強してもらっておいて、今にこっちが貧乏したら、救ってもらうほうがいいじゃないか」と言った。梅子は、
「代さん、あなた役者になれて」と聞いた。代助はなんにも言わずに、コップを姉の前に出した。梅子も黙って葡萄酒の壜を取り上げた。
「兄さん、このあいだじゅうはなんだかたいへん忙しかったんだってね」と代助は前へもどって聞いた。
「いや、もう大弱りだ」と言いながら、誠吾は寝ころんでしまった。
「なにか日糖事件に関係でもあったんですか」と代助が聞いた。
「日糖事件に関係はないが、忙しかった」
兄の答えはいつでもこの程度以上に
「日糖もつまらないことになったが、ああなる前にどうか方法はないんでしょうかね」
「そうさなあ。実際世の中のことは、なにがどうなるんだかわからないからな。──梅、今日は
「いよいよ奥へ行ってお父さんにしかられて来るかな」と言いながらまたコップを
「嫁のことか」と誠吾が聞いた。
「まあ、そうだろうと思うんです」
「もらっておくがいい。そう
「気をつけないといかんよ。少し低気圧が来ているから」と注意した。代助は立ちかけながら、
「まさかこのあいだじゅうの奔走からきた低気圧じゃありますまいね」と念を押した。兄は寝ころんだまま、
「なんとも言えないよ。こうみえて、我々も日糖の重役と同じように、いつ拘引されるかわからない
「馬鹿なことをおっしゃるなよ」と梅子がたしなめた。
「やっぱり僕ののらくらが持ち来たした低気圧なんだろう」と代助は笑いながら立った。
廊下伝いに中庭を越して、奥へ来てみると、父は唐机の前へすわって、唐本を見ていた。父は詩が好きで、ひまがあるとおりおり
父はまず
「来たか」と言った。その語調は平常よりもかえって穏やかなくらいであった。代助は膝の上に手を置きながら、兄がまじめな顔をして、自分をかついだんじゃなかろうかと考えた。代助はそこでまた苦い茶を飲ませられて、しばらく雑談に時を移した。今年は
代助はそれから後は、一言も口をきかなくなった。ただつつしんで
父の
代助は次に、独立のできるだけの財産がほしくはないかと聞かれた。代助はむろんほしいと答えた。すると、父が、では佐川の娘をもらったらよかろうという条件をつけた。その財産は佐川の娘が持って来るのか、または父がくれるのかはなはだ
次に、いっそ洋行する気はないかと言われた。代助は好いでしょうと言って賛成した。けれども、これにも、やっぱり結婚が先決問題として出て来た。
「そんなに佐川の娘をもらう必要があるんですか」と代助がしまいに聞いた。すると父の顔が赤くなった。
代助は父をおこらせる気は少しもなかったのである。彼の近ごろの主義として、人と
その時父はすこぶる熱した語気で、まず自分の年を取っていること、子供の未来が心配になること、子供に嫁を持たせるのは親の義務であるということ、嫁の資格その他については、本人よりも親のほうがはるかに周到な注意を払っているということ、ひとの親切は、その当時にこそよけいなお世話に見えるが、あとになると、もう一ぺんうるさく干渉してもらいたい時機が来るものであるということを、非常に丁寧に説いた。代助は慎重な態度で、きいていた。けれども、父の言葉が切れた時も、依然として許諾の意を表さなかった。すると父はわざとおさえた調子で、
「じゃ、佐川はやめるさ。そうして誰でもお前の好きなのをもらったら好いだろう。誰かもらいたいのがあるのか」と言った。これは嫂の質問と同様であるが、代助は梅子に対するように、ただ苦笑ばかりしてはいられなかった。
「別にそんなもらいたいのもありません」と明らかな返事をした。すると父は急に
「じゃ、少しはこっちのことも考えてくれたら好かろう。なにもそう自分のことばかり思っていないでも」と急調子に言った。代助は、突然父が代助を離れて、彼自身の利害に飛び移ったのに驚かされた。けれどもその驚きは、論理なき急激の変化の上に注がれただけであった。
「あなたにそれほど御都合が好いことがあるなら、もう一ぺん考えてみましょう」と答えた。
父はますます機嫌をわるくした。代助は人と応対している時、どうしても論理を離れることのできない場合がある。それがため、よく人から、相手をやり込めるのを目的とするように受け取られる。実際をいうと、彼ほど人をやり込めることのきらいな男はないのである。
「なにもおれの都合ばかりで、嫁をもらえと言ってやしない」と父は前の言葉を訂正した。
「そんなに理屈を言うなら、参考のため、言って聞かせるが、お前はもう三十だろう、三十になって、普通のものが結婚をしなければ、世間ではなんと思うかたいていわかるだろう。そりゃ今は昔と違うから、独身も本人の随意だけれども、独身のために親や兄弟が迷惑したり、はては自分の名誉に関係するようなことが
代助はただ
「そりゃ私のことだから少しは道楽もしますが……」と言いかけた。父はすぐそれをさえぎった。
「そんなことじゃない」
二人はそれぎりしばらく口をきかずにいた。父はこの沈黙をもって代助に向かって与えた打撃の結果と信じた。やがて、言葉を和らげて、
「まあ、よく考えてごらん」と言った。代助ははあと答えて、父の
「あなたは僕のことをなにかお父さんに
梅子はハハハハと笑った。そうして、
「まあおはいんなさいよ。ちょうど好いところだから」と言って、代助を楽器のそばまで引っ張って行った。
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