八
代助が嫂に失敗して帰った夜は、だいぶふけていた。彼はかろうじて青山の通りで、最後の電車を
その夜は雨催いの空が、地面と同じような色に見えた。停留所の赤い柱のそばに、たった一人立って電車を待ち合わしていると、遠い向こうから小さい火の玉があらわれて、それが一直線に暗い中を
家へ着いたら、婆さんも門野も大いに地震の
その
日糖事件の起こる少し前、東洋汽船という会社は、一割二分の配当をしたあとの半期に、八十万円の欠損を報告したことがあった。それを代助は記憶していた。その時の新聞がこの報告を評して信を置くに足らんと言ったことも記憶していた。
代助は自分の父と兄の関係している会社については何事も知らなかった。けれども、いつどんなことが起こるまいものでもないとは常から考えていた。そうして、父も兄もあらゆる点において神聖であるとは信じていなかった。もしやかましい吟味をされたなら、両方とも拘引に価する資格ができはしまいかとまで疑っていた。それほどでなくっても、父と兄の財産が、彼らの脳力と手腕だけで、誰が見てももっともと認めるように、作り上げられたとは
代助はこういう考えで、新聞記事に対しては別に驚きもしなかった。父と兄の会社についても心配をするほど正直ではなかった。ただ三千代のことだけが多少気にかかった。けれども、てぶらで行くのがおもしろくないんで、そのうちのことと腹の中で料簡を定めて、
しまいにアンニュイを感じだした。どこか遊びに行くところはあるまいかと、娯楽案内をさがして、
玄関から座敷へ通ってみると、寺尾は真ん中へ
「さっきお宅からお使いでした。手紙は書斎の机の上に載せておきました。受け取りはちょっと私が書いて渡しておきました」と言った。
手紙は古風な状箱のうちにあった。その赤塗りの表には名あてもなにも書かないで、
けれども中にあった手紙は、状箱とは正反対に簡単な、言文一致で用をすましていた。このあいだわざわざ来てくれた時は、おたのみどおり計らいかねて、お気の毒をした。あとから考えてみると、その時いろいろ無遠慮な失礼を言ったことが気にかかる。どうか悪く取ってくださるな。そのかわりお金をあげる。もっともみんなというわけにはゆかない。二百円だけ都合してあげる。からそれをすぐお友だちのところへ届けておあげなさい。これは
手紙の中に巻き込めて、二百円の小切手がはいっていた。代助は、しばらく、それをながめているうちに、梅子にすまないような気がしてきた。このあいだの晩、帰りがけに、向こうから、じゃお金はいらないのと聞いた。貸してくれと切り込んで頼んだ時は、ああ手きびしくはねつけておきながら、いざ断念して帰る段になると、かえって断わったほうから、
代助はすぐ返事を書いた。そうしてできるだけ暖かい言葉を使って感謝の意を表した。代助がこういう気分になることは兄に対してもない。父に対してもない。世間一般に対してはもとよりない。近来は梅子に対してもあまり起こらなかったのである。
代助はすぐ三千代のところへ出かけようかと考えた。実をいうと、二百円は代助にとって中途
代助は
平岡の玄関の
平岡は不在であった。それを聞いた時、代助は話していやすいような、また話していにくいような変な気がした。けれども三千代のほうは常のとおり落ちついていた。ランプもつけないで、暗い
予期したとおり、平岡は相変わらず奔走している。が、この一週間ほどは、あんまり外へ出なくなった。疲れたと言って、よく
「昔と違って気が荒くなって困るわ」と言って、三千代は暗に同情を求める様子であった。代助は黙っていた。下女が帰って来て、勝手口でがたがた音をさせた。しばらくすると、
代助は
「せんだってお頼みの金ですがね」
三千代はなんにも答えなかった。ただ目をあげて代助を見た。
「実は、すぐにもと思ったんだけれども、こっちの都合がつかなかったものだから、つい遅くなったんだが、どうですか、もう始末はつきましたか」と聞いた。
その時三千代は急に心細そうな低い声になった。そうして
「まだですわ。だって、片づくわけがないじゃありませんか」と言ったまま、目をみはってじっと代助を見ていた。代助は折れた小切手を取り上げて二つに開いた。
「これだけじゃだめですか」
三千代は手を伸ばして小切手を受け取った。
「ありがとう。平岡が喜びますわ」と静かに小切手を畳の上に置いた。
代助は金を借りて来た由来を、ごくざっと説明して、自分はこういう
「それは、私も承知していますわ。けれども、困って、どうすることもできないものだから、つい無理をお願いして」と三千代は気の毒そうにわびを述べた。代助はそこで念を押した。
「それだけで、どうか始末がつきますか。もしどうしてもつかなければ、もう一ぺん
「もう一ぺん工面するって」
「判を押して高い利のつくお金を借りるんです」
「あら、そんなことを」と三千代はすぐ打ち消すように言った。「それこそたいへんよ。あなた」
代助は平岡の今苦しめられているのも、その起こりは、
代助は経済問題の裏面にひそんでいる、夫婦の関係をあらまし推察しえたような気がしたので、あまり多くこっちから問うのを控えた。帰りがけに、
「そんなに弱っちゃいけない。昔のように元気におなんなさい。そうしてちっと遊びにおいでなさい」と勇気をつけた。
「ほんとね」と三千代は笑った。彼らは互いの昔を互いの顔の上に認めた。平岡はとうとう帰って来なかった。
中
「こっちへお通し申しましょうか」と門野から催促されたとき、代助はうんと言って、座敷へはいった。あとから席に導かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を着ていた。
話してみると、平岡の事情は、依然として発展していなかった。もう近ごろは運動しても当分だめだから、毎日こうして遊んで歩く。それでなければ、宅に寝ているんだと言って、大きな声を出して笑って見せた。代助もそれがよかろうと答えたなり、後は当たらずさわらずの世間話に時間をつぶしていた。けれども自然に出る世間話というよりも、むしろある問題を回避するための世間話だから、両方ともに緊張を腹の底に感じていた。
平岡は三千代のことも、金のことも口へ出さなかった。したがって三日前代助が彼の留守宅を訪問したことについてもなにも語らなかった。代助も初めのうちは、わざと、その点に触れないですましていたが、いつまでたっても、平岡のほうでよそよそしく構えているので、かえって不安になった。
「実は
「うん。そうだったそうだね。その節はまたありがとう。おかげさまで。──なに、君を煩わさないでもどうかなったんだが、あいつがあまり心配しすぎて、つい君に迷惑をかけてすまない」と冷淡な礼を言った。それから、
「僕も実はお礼に来たようなものだが、ほんとうのお礼には、いずれ当人が出るだろうから」とまるで三千代と自分を別物にした言い分であった。代助はただ、
「そんな面倒なことをする必要があるものか」と答えた。話はこれで切れた。がまた両方に共通で、しかも、両方のあまり興味を持たない方面にずりすべって行った。すると、平岡が突然、
「僕はことによると、もう実業はやめるかもしれない。実際内幕を知れば知るほどいやになる。そのうえこっちへ来て、少し運動をしてみて、つくづく勇気がなくなった」と心底かららしい告白をした。代助は、一口、
「それは、そうだろう」と答えた。平岡はあまりこの返事の冷淡なのに驚いた様子であった。が、またあとをつけた。
「せんだってもちょっと話したんだが、新聞へでもはいろうかと思ってる」
「口があるのかい」と代助が聞き返した。
「今、一つある。たぶんできそうだ」
来た時は、運動してもだめだから遊んでいるというし、今は新聞に口があるから出ようというし、少し要領を欠いでいるが、追窮するのも面倒だと思って、代助は、
「それはおもしろかろう」と賛成の意を表しておいた。
平岡の帰りを玄関まで見送った時、代助はしばらく、障子に身を寄せて、敷居の上に立っていた。
門野もお付き合いに平岡の後ろ姿をながめていた。が、すぐ口を出した。
「平岡さんは思ったよりハイカラですな。あの
「そうでもないさ。近ごろはみんな、あんなものだろう」と代助は立ちながら答えた。
「まったく、
代助は返事もしずに書斎へ引き返した。縁側に垂れた君子蘭の緑の
平岡はとうとう自分と離れてしまった。あうたんびに、遠くにいて応対するような気がする。実をいうと、平岡ばかりではない。誰にあってもそんな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体にすぎなかった。大地は自然に続いているけれども、その上に家を建てたら、たちまち切れ切れになってしまった。家の中にいる人間もまた切れ切れになってしまった。文明は我らをして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。
代助と接近していた時分の平岡は、人に泣いてもらうことをよろこぶ人であった。今でもそうかもしれない。が、ちっともそんな顔をしないから、わからない。いな、つとめて、人の同情をしりぞけるようにふるまっている。孤立しても世は渡って見せるという我慢か、またはこれが現代社会に本来の面目だという悟りか、どっちかに帰着する。
平岡に接近していた時分の代助は、人のために泣くことの好きな男であった。それが次第次第に泣けなくなった。泣かないほうが現代的だからというのではなかった。事実はむしろこれを逆にして、泣かないから現代的だと言いたかった。
代助は今の平岡に対して、隔離の感よりもむしろ
こういう意味の孤独の底に陥って
代助は書斎に閉じこもって一日考えに沈んでいた。晩食の時、門野が、
「先生今日は一日御勉強ですな。どうです、ちと御散歩になりませんか。今夜は
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