七
代助は風呂へはいった。
「先生、どうです。お
「結構」と答えた。すると、門野が、
「ですか」と言いすてて、茶の間の方へ引き返した。代助は門野の返事のし具合に、いたく興味をもって、ひとりにやにやと笑った。代助には人の感じえないことを感じる神経がある。それがため時々苦しい思いもする。ある時、友だちの
まだ不思議なことがある。このあいだ、ある書物を読んだら、ウェバーという生理学者は自分の心臓の鼓動を、増したり、減らしたり、随意に変化さしたと書いてあったので、平生から鼓動を試験する癖のある代助は、ためしにやってみたくなって、一
湯のなかに、静かにつかっていた代助は、なんの気なしに右の手を左の胸の上へ持っていったが、どんどんという命の音を二、三度聞くやいなや、たちまちウェバーを思い出して、すぐ流しへ下りた。そうして、そこにあぐらをかいたまま、
代助はまた湯にはいって、平岡の言ったとおり、まったく暇がありすぎるので、こんなことまで考えるのかと思った。湯から出て、鏡に自分の姿を写したとき、また平岡の言葉を思い出した。幅の厚い西洋かみそりで、
茶の間を抜けようとする拍子に、
「どうも先生はうまいよ」と門野さんが婆さんに話していた。
「なにがうまいんだ」と代助は立ちながら、門野を見た。門野は、
「やあ、もうお上がりですか。早いですな」と答えた。この挨拶では、もう一ぺん、なにがうまいんだと聞かれもしなくなったので、そのまま書斎へ帰って、
休息しながら、こう頭が妙な方面に鋭く働きだしちゃ、身体の毒だから、ちと旅行でもしようかと思ってみた。一つは近来持ち上がった結婚問題を避けるに都合がいいとも考えた。するとまた平岡のことが妙に気にかかって、転地する計画をすぐ打ち消してしまった。それをよく煎じつめてみると、平岡のことが気にかかるのではない、やっぱり三千代のことが気にかかるのである。代助はそこまで押してきても、べつだん不徳義とは感じなかった。むしろ愉快な心持ちがした。
代助が三千代と知り合いになったのは、今から四、五年前のことで、代助がまだ学生のころであった。代助は長井家の関係から、当時交際社会の表面にあらわれて出た、若い女の顔も名も、たくさんに知っていた。けれども三千代はその方面の婦人ではなかった。色合いから言うと、もっと地味で、気持ちからいうと、もう少し沈んでいた。そのころ、代助の学友に
この菅沼は東京近県のもので、学生になった二年目の春、修行のためと号して、国から妹を連れて来ると同時に、今までの下宿を引き払って、二人して家を持った。その時妹は国の高等女学校を卒業したばかりで、年はたしか十八とかいう話であったが、派手な
菅沼の家は
代助はそこへよく遊びに行った。はじめて三千代にあった時、三千代はただお辞儀をしただけで引っ込んでしまった。代助は上野の森を評して帰って来た。二へん行っても、三べん行っても、三千代はただお茶を持って出るだけであった。そのくせ狭い家だから、隣の
三千代と口をききだしたのは、どんなはずみであったか、今では代助の記憶に残っていない。残っていないほど、
平岡も、代助のように、よく菅沼の家へ遊びに来た。あるときは二人連れ立って、来たこともある。そうして、代助と前後して、三千代と懇意になった。三千代は兄とこの二人にくっついて、時々
それが母の死んだ時も、菅沼の死んだ時も出て来て、始末をしたので、生前に関係の深かった代助とも平岡とも知り合いになった。三千代を連れて国へ帰る時は、娘とともに二人の下宿を別々にたずねて、
その年の秋、平岡は三千代と結婚した。そうしてそのあいだに立ったものは代助であった。もっとも表向きは郷里の先輩を頼んで、
結婚して間もなく二人は東京を去った。国にいた父は思わざるある事情のために余儀なくされて、これもまた北海道へ行ってしまった。三千代はどっちかといえば、今心細い境遇にいる。どうかして、この東京に
けれども、平岡へ行ったところで、三千代がむやみに洗いざらいしゃべり散らす女ではなし、よしんばどうして、そんな金がいるようになったかの事情を、詳しく聞きえたにしたところで、夫婦の腹の中なんぞは容易にさぐられるわけのものではない。──代助の心の底をよく見つめていると、彼のほんとうに知りたい点は、かえってここにあると、みずから承認しなければならなくなる。だから正直を言うと、なにゆえに金が
そのうえ平岡の留守へ行きあてて、
代助は、ともかくもまず嫂に相談してみようと決心した。そうして、自分ながらはなはだおぼつかないとは思った。今まで嫂にちびちび、無心を吹きかけたことは何度もあるが、こう短兵急に痛めつけるのははじめてである。しかし梅子は自分の自由になる資産をいくらか持っているから、あるいはできないともかぎらない。それでだめなら、また高利でも借りるのだが、代助はまだそこまでには気が進んでいなかった。ただ早晩平岡から表向きに、連帯責任を
兄の家の門をはいると、客間でピアノの音がした。代助はちょっと砂利の上に立ちどまったが、すぐ左へ切れて勝手口の方へ回った。そこには
入口の書生部屋をのぞき込んで、敷居の上に立ちながら、二言三言
「おや」
縫子のほうは、黙ってかけて来た。そうして、代助の手をぐいぐい引っ張った。代助はピアノのそばまで来た。
「いかなる名人が鳴らしているのかと思った」
梅子はなんにも言わずに、額に八の字を寄せて、笑いながら手を振り振り、代助の言葉をさえぎった。そうして、向こうからこう言った。
「
代助は黙って嫂と入れかわった。譜を見ながら、両方の指をしばらくきれいに働かしたあと、
「こうだろう」と言って、すぐ席を離れた。
それから三十分ほどの間、
「もうよしましょう。あっちへ行って、御飯でもたべましょう。叔父さんもいらっしゃい」と言いながら立った。部屋のなかはもう薄暗くなっていた。代助はさっきから、ピアノの音を聞いて、嫂や
居間にはもう電燈がついていた。代助はそこで、梅子とともに晩食をすました。子供二人も卓をともにした。誠太郎に兄の部屋からマニラを一本取ってこさして、それを吹かしながら、雑談をした。やがて、子供は
代助は突然例の話を持ち出すのも、変なものだと思って、関係のないところからそろそろ進行を始めた。まず父と兄が
今夜も遅くなる。もし、
梅子は代助の言うことを
「だから思いきって貸してください」と言った。すると梅子はまじめな顔をして、
「そうね。けれども全体いつ返す気なの」と思いも寄らぬことを問い返した。代助は
「皮肉じゃないのよ。おこっちゃいけませんよ」
代助はむろんおこってはいなかった。ただ
「代さん、あなたはふだんから私を馬鹿にしておいでなさる。──いいえ、
「困りますね、そう真剣に詰問されちゃ」
「よござんすよ。ごまかさないでも。ちゃんとわかってるんだから。だから正直にそうだと言っておしまいなさい。そうでないと、あとが話せないから」
代助は黙ってにやにや笑っていた。
「でしょう。そら御覧なさい。けれども、それが当たり前よ。ちっともかまやしません。いくら
代助は嫂の態度の真率なところが気に入った。それで、
「ええ、少しは馬鹿にしています」と答えた。すると梅子はさも愉快そうにハハハハと笑った。そうして言った。
「兄さんも馬鹿にしていらっしゃる」
「兄さんですか。兄さんは大いに尊敬している」
「噓をおっしゃい。ついでだから、みんなぶちまけておしまいなさい」
「そりゃ、ある点では馬鹿にしないこともない」
「それ御覧なさい。あなたは一家族中ことごとく馬鹿にしていらっしゃる」
「どうも恐れ入りました」
「そんな言い訳はどうでも好いんですよ。あなたから見れば、みんな馬鹿にされる資格があるんだから」
「もう、よそうじゃありませんか。今日はなかなかきびしいですね」
「ほんとうなのよ。それでさしつかえないんですよ。
「だからさっきから頭を下げているんです」
「まだ本気で聞いていらっしゃらないのね」
「これが私の本気なところなんです」
「じゃ、それもあなたの偉いところかもしれない。しかし誰もお金を貸し手がなくって、今のお友だちを救ってあげることができなかったら、どうなさる。いくら偉くってもだめじゃありませんか。無能力なことは車屋とおんなじですもの」
代助は今まで嫂がこれほど適切な異見を自分に向かって加ええようとは思わなかった。実は金の工面を思い立ってから、自分でもこの弱点を
「まったく車屋ですね。だから姉さんに頼むんです」
「しかたがないのね、あなたは。あんまり、偉すぎて。一人でお金をお取んなさいな。ほんとうの車屋なら貸してあげないこともないけれども、貴方にはいやよ。だってあんまりじゃありませんか。月々兄さんやお父さんの
梅子の言うところは実にもっともである。しかし代助はこのもっともを通り越して、気がつかずにいた。振り返って見ると、後ろの方に姉と兄と父がかたまっていた。自分もあともどりをして、世間並みにならなければならないと感じた。
梅子は、この機会を利用して、いろいろの方面から代助を刺激しようとつとめた。ところが代助には梅子の腹がよくわかっていた。わかればわかるほど激する気にならなかった。そのうち話題は金を離れて、再び結婚にもどってきた。代助は最近の候補者について、このあいだから
その
「だって、あなただって、生涯一人でいる気でもないんでしょう。そうわがままを言わないで、いいかげんなところできめてしまったらどうです」と梅子は少しじれったそうに言った。
生涯一人でいるか、あるいは
代助はもとよりこんな
「だが、姉さん、僕はどうしても嫁をもらわなければならないのかね」と聞くことがある。代助はむろんまじめに聞くつもりだけれども、嫂のほうではあきれてしまう。そうして、自分を茶にするのだと取る。梅子はその晩代助に向かって、いつもの手続きを繰り返したあとで、こんなことを言った。
「妙なのね、そんなにいやがるのは。──いやなんじゃないって、口ではおっしゃるけれども、もらわなければ、いやなのとおんなしじゃありませんか。それじゃ誰か好きなのがあるんでしょう。そのかたの名をおっしゃい」
代助は今まで嫁の候補者としては、ただの
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