六
その日
代助は飲むにしたがって、だんだん金を遠ざかってきた。ただ互いが差し向かいであるがために、うまく飲めたという自覚を、互いに持ちうるような話をした。が
「いや、そういう人間は御免こうむる。のみならずこの不景気じゃしようがない」と言って誠吾はさくさく飯をかき込んでいた。
「
「兄を動かすのは、同じ仲間の実業家でなくっちゃだめだ。単に兄弟のよしみだけではどうすることもできない」
こう考えたようなものの、別に兄を不人情と思う気は起こらなかった。むしろそのほうが当然であると悟った。この兄が自分の
代助自身の今の傾向からいうと、とうてい人のために判なぞ押しそうにもない。自分もそう思っている。けれども、兄がそこを見抜いて金を貸さないとすると、ちょっと意外な連帯をして、兄がどんな態度に変わるか、試験してみたくもある。──そこまできて、代助は自分ながら、あんまり
けれども、ただ一つたしかなことがある。平岡は早晩借用証書を携えて、自分の判を取りにくるにちがいない。
こう考えながら、代助は床を出た。門野は茶の間で、あぐらをかいて新聞を読んでいたが、髪をぬらして湯殿から帰って来る代助を見るやいなや、急に
「どうも『
「君読んでるんですか」
「ええ、毎朝読んでます」
「おもしろいですか」
「おもしろいようですな。どうも」
「どんなところが」
「どんなところがって、そうあらたまって聞かれちゃ困りますが。なんじゃありませんか、いったいに、こう、現代的の不安が出ているようじゃありませんか」
「そうして、肉の臭いがしやしないか」
「しますな。大いに」
代助は黙ってしまった。
代助の頭には今具体的な何物をもとどめていなかった。あたかも戸外の天気のように、それが静かにじっと働いていた。が、その底には
代助は近ごろ流行語のように人が使う、現代的とか不安とかいう言葉を、あまり口にしたことがない。それは、自分が現代的であるのは、いわずと知れていると考えたのと、もう一つは、現代的であるがために、必ずしも、不安になる必要がないと、自分だけで信じていたからである。
代助はロシア文学に出て来る不安を、天候の具合と、政治の圧迫で解釈していた。フランス文学に出てくる不安を、
理知的に物を疑うほうの不安は、学校時代に、あったにはあったが、あるところまで進行して、ぴたりととまって、それから逆戻りをしてしまった。ちょうど天へ向かって石をなげたようなものである。代助は今では、なまじい石などをなげなければよかったと思っている。禅坊さんのいわゆる
代助は門野のほめた「煤烟」を読んでいる。今日は紅茶茶碗のそばに新聞を置いたなり、あけて見る気にならない。ダヌンチオの主人公は、みんな金に不自由のない男だから、
代助は椅子の上で、時々身を動かした。そうして、自分ではあくまで落ちついていると思っていた。やがて、紅茶をのんでしまって、いつものとおり読書に取りかかった。約二時間ばかりは故障なく進行したが、あるページの中ごろまできて急にやめて
ひるすぎになってから、代助は自分が落ちついていないということを、ようやく自覚しだした。腹のなかに小さな皺が無数にできて、その皺が絶えず、相互の位地と、かたちとを変えて、一面にうごいているような気持ちがする。代助は時々こういう情調の支配を受けることがある。そうして、この種の経験を、今日まで、単なる生理上の現象としてのみ取り扱っておった。代助は
「もう学校は引けたのかい。早すぎるじゃないか」
「ちっとも早かない」と言って、笑いながら、代助の顔を見ている。代助は手をたたいて婆さんを呼んで、
「誠太郎、チョコレートを飲むかい」と聞いた。
「飲む」
代助はチョコレートを二杯命じておいて誠太郎にからかいだした。
「誠太郎、お前はベースボールばかりやるもんだから、このごろ手がたいへん大きくなったよ。頭より手のほうが大きいよ」
誠太郎はにこにこして、右の手で、まるい頭をぐるぐるなでた。実際大きな手を持っている。
「
「ああ、御馳走になったよ。おかげで
「また神経だ」
「神経じゃないほんとうだよ。まったく兄さんのせいだ」
「だってお父さんはそう言ってましたよ」
「なんて」
「
「へええ、昨日のお礼にかい」
「ええ、今日はおれがおごったから、明日は向こうの番だって」
「それで、わざわざやって来たのかい」
「ええ」
「
「チョコレートなんぞ」
「飲まないかい」
「飲むことは飲むけれども」
誠太郎の注文をよく聞いてみると、
「叔父さんはのらくらしているけれども実際偉いんですってね」と言った。代助もこれにはちょっとあきれた。しかたなしに、
「偉いのは知れ切っているじゃないか」と答えた。
「だって、僕は
誠太郎の言うところによると、昨夕兄が
代助はうん、それから、といって、始終おもしろそうに聞いていたが、占者のところへ来たら、ほんとうにおかしくなった。やがて着物を着換えて、誠太郎を送りながら表へ出て、自分は平岡の家をたずねた。
平岡の家は、この十数年来の物価騰貴につれて、中流社会が次第次第に切り詰められて行くありさまを、住宅のうえによく代表した、もっとも粗悪な見苦しき構えであった。とくに代助にはそう見えた。
門と玄関の間が一間ぐらいしかない。勝手口もそのとおりである。そうして裏にも、横にも同じような窮屈な家が建てられていた。東京市の貧弱なる膨張につけ込んで、最低度の資本家が、なけなしの元手を二割ないし三割の高利に回そうともくろんで、あたじけなくこしらえあげた、生存競争の
今日の東京市、ことに場末の東京市には、至る所にこの種の家が散点している、のみならず、
彼らのあるものは、
代助は
平岡が、失敬だがちょっと待ってくれと言った間に、代助は行季と長襦袢と、時々行季の中へ落ちるほそい手とを見ていた。襖はあけたままたて切る様子もなかった。が三千代の顔は陰になって見えなかった。
やがて、平岡は筆を机の上へなげつけるようにして、座を直した。なんだか込み入ったことを懸命に書いていたと見えて、耳を赤くしていた。目も赤くしていた。
「どうだい。このあいだはいろいろありがとう。その後ちょっと礼に行こうと思って、まだ行かない」
平岡の言葉は言い訳と言わんよりむしろ挑戦の調子を帯びているように聞こえた。シャツも
「まだ落ちつかないだろう」と代助が聞いた。
「落ちつくどころか、この分じゃ生涯落ちつきそうもない」と、いそがしそうに煙草を吹かしだした。
代助は平岡がなぜこんな態度で自分に応接するかよく心得ていた。けっして自分にあたるのじゃない、つまり世間にあたるんである、いなおのれにあたっているんだと思って、かえって気の毒になった。けれども代助のような神経には、この調子がはなはだ不愉快に響いた。ただ腹が立たないだけである。
「
「うん、まあ、悪くってもしかたがない。気に入った
「そうかもしれない。そのかわり、ああいう立派な家が一軒立つと、その陰に、どのくらいたくさんな家がつぶれているかしれやしない」
「だからなお住み好いだろう」
平岡はこう言って大いに笑った。そこへ三千代が出て来た。せんだってはと、軽く代助に
「なんですか、それは」
「
「こら」
「まだ、そんなものをしまっといたのか。早くこわしてぞうきんにでもしてしまえ」
三千代は小供の着物を
「あなたのとおんなじにこしらえたのよ」と言って夫の方を見た。
「これか」
平岡は
「これはもういかん。暑くてだめだ」
代助ははじめて、昔の平岡をまのあたりに見た。
「袷の下にネルを重ねちゃもう暑い。襦袢にするといい」
「うん、面倒だから着ているが」
「
「いや、もう脱ぐ、おれも少々いやになった」
話は死んだ小供のことをとうとう離れてしまった。そうして、来た時よりはいくぶんか空気に「暖か味」ができた。平岡は久しぶりに一杯飲もうと言いだした。三千代も
「君どこか奉公口の見当はついたか」と聞いた。
「うん、まあ、あるようなないようなもんだ。なければ当分遊ぶだけのことだ。ゆっくりさがしているうちにはどうかなるだろう」
言うことは落ちついているが、代助が聞くとかえってあせってさがしているようにしか取れない。代助は、
代助が真鍮をもって甘んずるようになったのは、不意に大きな
代助は同時にこう考えた。自分が三、四年の間に、これまで変化したんだから、同じ三、四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内でだいぶ変化しているだろう。昔の自分なら、なるべく平岡によく思われたい心から、こんな場合には兄と
それで肝心の話は、一、二
平岡は酔うにしたがって、だんだん口が多くなってきた。この男はいくら酔っても、なかなか平生を離れないことがある。かと思うと、たいへんに元気づいて、調子に一種の悦楽を帯びてくる。そうなると、普通の酒家以上に、よく弁ずるうえに、時としては比較的まじめな問題を持ち出して、相手と議論を
ところが今日は妙である。酒に親しめば親しむほど、平岡が昔の調子を出してきた。うまい局所へ酒が回って、刻下の経済や、目前の生活や、またそれに伴う苦痛やら、不平やら、心の底の騒がしさやらを全然
「僕は失敗したさ。けれども失敗しても働いている。またこれからも働くつもりだ。君は僕の失敗したのを見て笑っている。──笑わないたって、要するに笑ってると同じことに帰着するんだからかまわない。いいか、君は笑っている。笑っているが、その君はなにもしないじゃないか。君は世の中を、ありのままで受け取る男だ。言葉を換えて言うと、意志を発展させることのできない男だろう。意志がないというのは噓だ。人間だもの。その証拠には、始終物足りないにちがいない。僕は僕の意志を現実社会に働きかけて、その現実社会が、僕の意志のために、いくぶんでも、僕の思いどおりになったという確証を握らなくっちゃ、生きていられないね。そこに僕というものの存在の価値を認めるんだ。君はただ考えている。考えてるだけだから、頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に
「なに笑ってもかまわない。君が僕を笑う前に、僕はすでに自分を笑っているんだから」
「そりゃ、噓だ。ねえ三千代」
三千代はさっきから黙ってすわっていたが、夫から不意に相談を受けた時、にこりと笑って、代助を見た。
「ほんとうでしょう、三千代さん」と言いながら、代助は
「そりゃ噓だ。おれの細君が、いくら弁護したって、噓だ。もっとも君は人を笑っても、自分を笑っても、両方とも頭の中でやる人だから、噓かほんとうかその辺はしかと分からないが……」
「冗談言っちゃいけない」
「冗談じゃない。まったく本気の
「なんだかさっきから、そばで伺がってると、あなたのほうがよっぽどお得意のようよ」
平岡は大きな声を出してハハハと笑った。三千代は
平岡は
「今日は久しぶりにいい気持ちに酔った。なあ君。──君はあんまりいい心持ちにならないね。どうもけしからん。僕が昔の平岡常次郎になってるのに、君が昔の長井代助にならないのはけしからん。ぜひなりたまえ。そうして、大いにやってくれたまえ。僕もこれからやる。から君もやってくれたまえ」
代助はこの言葉のうちに、今の自己を昔に返そうとする真率なまた無邪気な一種の努力を認めた。そうして、それに動かされた。けれども一方では、
「君は酒をのむと、言葉だけ酔っ払っても、頭はたいてい確かな男だから、僕も言うがね」
「それだ。それでこそ長井君だ」
代助は急に言うのがいやになった。
「君、頭は確かかい」と聞いた。
「確かだとも。君さえ確かならこっちはいつでも確かだ」と言って、ちゃんと代助の顔を見た。実際自分の言うとおりの男である。そこで代助が言った。──
「君はさっきから、働かない働かないと言って、だいぶ僕を攻撃したが、僕は黙っていた。攻撃されるとおり僕は働かないつもりだから黙っていた」
「なぜ働かない」
「なぜ働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、おおげさに言うと、
代助はちょっと息を継いだ。そうして、ちょっと窮屈そうに控えている三千代のほうを見て、お世辞をつかった。
「三千代さん。どうです私の考えは。ずいぶん
「なんだか
「へええ。どこんところを」
「どこんところって、ねえあなた」と三千代は夫を見た。平岡は
代助は盃へ唇をつけながら、これから先はもう言う必要がないと感じた。元来が平岡を自分のように考え直させるための弁論でもなし、また平岡から意見されに来た訪問でもない。二人はいつまでたっても、二人として離れていなければならない運命をもっているんだと、初めから心づいているから、議論はいいかげんに引き上げて、三千代の仲間入りのできるような、普通の社交上の題目に談話を持ってきようと試みた。
けれども、平岡は酔うとしつこくなる男であった。胸毛の奥まで赤くなった胸を突き出して、こう言った。
「そいつはおもしろい。大いにおもしろい。僕みたように局部に当たって、現実と悪闘しているものは、そんなことを考える余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働いているうちは、忘れているからね。世の中が墜落したって、世の中の堕落に気がつかないで、そのうちに活動するんだからね。君のような暇人から見れば日本の貧乏や、僕らの堕落が気になるかもしれないが、それはこの社会に用のない傍観者にしてはじめて口にすべきことだ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、そうなるんだ。忙しい時は、自分の顔のことなんか、誰だって忘れているじゃないか」
平岡はしゃべってるうち、自然とこの
「君は金に不自由しないからいけない。生活に困らないから、働く気にならないんだ。要するに坊ちゃんだから、品のいいようなことばっかり言っていて、──」
代助は少々平岡が小憎らしくなったので、突然中途で相手をさえぎった。
「働くのもいいが、働くなら、生活以上の働きでなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんなパンを離れている」
平岡は不思議に不愉快な目をして、代助の顔をうかがった。そうして、
「なぜ」と聞いた。
「なぜって、生活のための労力は、労力のための労力でないもの」
「そんな論理学の命題みたようなものはわからないな。もう少し実際的の人間に通じるような言葉で言ってくれ」
「つまり食うための職業は、誠実にゃできにくいという意味さ」
「僕の考えとはまるで反対だね。食うためだから、猛烈に働く気になるんだろう」
「猛烈には働けるかもしれないが誠実には働きにくいよ。食うための働きというと、つまり食うのと、働くのとどっちが目的だと思う」
「むろん食うほうさ」
「それみたまえ。食うほうが目的で働くほうが方便なら、食いやすいように、働き方を合わせて行くのが当然だろう。そうすりゃ、なにを働いたって、またどう働いたって、かまわない、ただパンが得られれば好いということに帰着してしまうじゃないか。労力の内容も方向も、ないし順序もことごとく他から
「まだ理論的だね、どうも。それでいっこうさしつかえないじゃないか」
「ではごく上品な例で説明してやろう。古くさい話だが、ある本でこんなことを読んだ覚えがある。
「だってそうしなければ解雇されるんだからしかたがあるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、いわば、ものずきにやる働きでなくっちゃ、まじめな仕事はできるものじゃないんだよ」
「そうすると、君のような身分のものでなくっちゃ、神聖の労力はできないわけだ。じゃますますやる義務がある。なあ三千代」
「ほんとうですわ」
「なんだか話が、元へ戻っちまった。これだから議論はいけないよ」と言って、代助は頭をかいた。議論はそれで、とうとうおしまいになった。
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