五
翌日朝早く門野は荷車を三台雇って、新橋の
それから十一時すぎまで代助は読書していた。がふとダヌンチオという人が、自分の家の部屋を、青色と赤色に分かって装飾しているという話を思い出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、この二色にほかならんという点に存するらしい。だからなんでも興奮を要する部屋、すなわち音楽室とか書斎とかいうものは、なるべく赤く塗りたてる。また寝室とか、休息室とか、すべて精神の安静を要する所は青に近い色で飾りつけをする。というのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足とみえる。
代助はなぜダヌンチオのような刺激を受けやすい人に、
代助は縁側へ出て、庭から先にはびこる一面の青いものを見た。花はいつしか散って、今は新芽若葉の初期である。はなやかな緑がぱっと顔に吹きつけたような心持ちがした。目をさます刺激の底にどこか沈んだ調子のあるのをうれしく思いながら、鳥打ち帽をかむって、
平岡の新宅へ来てみると、門があいて、がらんとしているだけで、荷物の着いた様子もなければ、平岡夫婦の来ている気色も見えない。ただ
「だんなと奥さんといっしょに来たかい」
「ええ、御いっしょです」
「そうしていっしょに帰ったかい」
「ええ御いっしょにお帰りになりました」
「荷物もそのうち着くだろう。御苦労さま」と言って、また通りへ出た。
神田へ来たが、平岡の旅宿へ寄る気はしなかった。けれども、二人のことがなんだか気にかかる。ことに細君のことが気にかかるので、ちょっと顔を出した。夫婦は
平岡は驚いたように代助を見た。その目が血ばしっている。二、三日よく眠らないせいだと言う。三千代はぎょうさんなものの言い方だと言って笑った。代助は気の毒にも思ったが、また安心もした。とめるのを外へ出て、飯を食って、髪を刈って、
翌日、代助が朝食の膳に向かって、例のごとく紅茶をのんでいると、門野が、洗い立ての顔を光らして茶の間へはいって来た。
「
「君、すっかり片づくまでいてくれたんでしょうね」と聞いた。
「ええ、すっかり片づけちまいました。その代わり、どうも骨が折れましたぜ。なにしろ、我々の引っ越しと違って、大きな物がいろいろあるんだから。奥さんが座敷の真ん中へ立って、ぼんやり、こうまわりを見回していた様子ったら、──ずいぶんおかしなもんでした」
「少し身体の具合が悪いんだからね」
「どうもそうらしいですね。色がなんだかよくないと思った。平岡さんとは大違いだ。あの人の体格は好いですね。昨夕いっしょに湯にはいって驚いた」
代助はやがて書斎へ帰って、手紙を二、三本書いた。一本は朝鮮の統監府にいる友人あてで、せんだって送ってくれた
昼すぎ散歩の出がけに、門野の
代助は、何事によらず一度気にかかりだすと、どこまでも気にかかる男であった。しかも自分でその
この困難は約一年ばかりでいつの間にかようやく遠のいた。代助は昨夕の夢とこの困難とを比較してみて、妙に感じた。正気の自己の一部分を切り放して、そのままの姿として、知らぬ間に夢の中へ譲り渡すほうが
それから二、三日は、代助も門野も平岡の消息を聞かずに過ごした。四日目のひるすぎに代助は
もっともその日はたいへんないい天気で、広い
代助も
代助がここへ呼ばれたのは、個人的にここの主人や、この英国人夫婦に関係があるからではない。まったく自分の父と兄との社交的勢力の余波で、招待状が回ってきたのである。だから、まんべんなく方々へ行って、いいかげんに頭を下げて、ぶらぶらしていた。そのうちに兄もいた。
「やあ、来たな」と言ったまま、帽子に手もかけない。
「どうも、好い天気ですね」
「ああ。結構だ」
代助も背の低いほうではないが、兄はいっそう高くできている。そのうえこの五、六年来しだいに肥満してきたので、なかなか立派に見える。
「どうです、あっちへ行って、ちと外国人と話でもしちゃ」
「いや、まっぴらだ」と言って兄は苦笑いをした。そうして大きな腹にぶら下がっている
「どうも外国人は調子がいいですね。少しよすぎるくらいだ。ああほめられると、天気のほうでもぜひよくならなくっちゃならなくなる」
「そんなに天気をほめていたのかい。へえ。少し暑すぎるじゃないか」
「
誠吾と代助は申し合わせたように、白いハンケチを出して額をふいた。
兄弟は芝生のはずれの
「兄のようになると、宅にいても、客に来ても同じ心持ちなんだろう。こう世の中に慣れ切ってしまっても、楽しみがなくって、つまらないものだろう」と思いながら代助は誠吾の様子を見ていた。
「今日はお父さんはどうしました」
「お父さんは詩の会だ」
誠吾は相変わらず普通の顔で答えたが、代助のほうは多少おかしかった。
「姉さんは」
「お客の接待がかりだ」
また
代助は、誠吾の始終忙しがっている様子を知っている。またその忙しさの過半は、こういう会合からでき上がっているという事実も心得ている。そうして、別にいやな顔もせず、一口の不平もこぼさず、不規則に酒を飲んだり、物を食ったり、女を相手にしたり、していながら、いつ見ても疲れた
誠吾が待合いへはいったり、料理茶屋へ上がったり、
そこが代助にはありがたい。というのは、誠吾は父とちがって、かつて小むずかしい説法などを代助に向かってやったことがない。主義だとか、主張だとか、人生観だとかいう窮屈なものは、てんで、これっぱかりも口にしないんだから、あるんだか、無いんだか、ほとんど要領を得ない。その代わり、この窮屈な主義だとか、主張だとか、人生観だとかいうものを積極的に打ち壊してかかったためしもない。実に平凡でいい。
だがおもしろくはない。話相手としては、兄よりも嫂のほうが、代助にとってはるかに興味がある。兄にあうときっとどうだいと言う。イタリアに地震があったじゃないかと言う。トルコの天子が廃されたじゃないかと言う。そのほか、
そうかと思うと。時にトルストイという人は、もう死んだのかねなどと妙なことを聞くことがある。今日本の小説家では誰がいちばん偉いのかねと聞くこともある。要するに文芸にはまるで
こういう兄と差し向かいで話をしていると、刺激の乏しい代わりには、
だから木蔭に立って、兄と肩をならべた時、代助はちょうど好い機会だと思った。
「
「暇」と繰り返した誠吾は、なんにも説明せずに笑って見せた。
「
「明日の朝は浜まで行って来なくっちゃならない」
「ひるからは」
「ひるからは、会社のほうにいることはいるが、すこし相談があるから、来てもゆっくり話しちゃいられない」
「じゃ晩ならよかろう」
「晩は帝国ホテルだ。あの西洋人夫婦を明日の晩帝国ホテルへ呼ぶことになってるからだめだ」
代助は口をとんがらかして、兄をじっと見た。そうして二人で笑いだした。
「そんなに急ぐなら、今日じゃ、どうだ。今日ならいい。久しぶりでいっしょに飯でも食おうか」
代助は賛成した。ところが
「シルクハットで鰻屋へ行くのははじめてだな」と代助は
「なにかまうものか」
二人は園遊会を辞して、車に乗って、
そこは
二人は好い心持ちに酒を飲んだ。兄は飲んで、食って、世間話をすればそのほかに用はないという態度であった。代助も、うっかりすると、肝心の事件を忘れそうな勢いであった。が下女が三本目の
実をいうと、代助は今日までまだ誠吾に無心を言ったことがない。もっとも学校を出た時少々芸者買いをしすぎて、その
代助からみると、誠吾は
代助は世間話の
「で、私も気の毒だから、どうにか心配してみようって受け合ったんですがね」と言った。
「へえ。そうかい」
「どうでしょう」
「お
「私ゃ一文もできやしません。借りるんです」
「誰から」
代助は初めからここへ落とすつもりだったんだから、はっきりした調子で、
「あなたから借りておこうと思うんです」と言って、改めて誠吾の顔を見た。兄はやっぱり普通の顔をしていた。そうして、平気に、
「そりゃ、およしよ」と答えた。
誠吾の理由を聞いてみると、義理や人情に関係がないばかりではない、返す返さないという損得にも関係がなかった。ただ、そんな場合には放っておけばおのずからどうかなるもんだという単純な断定であった。
誠吾はこの断定を証明するために、いろいろな例をあげた。誠吾の門内に藤野という男が長屋を借りて住んでいる。その藤野が近ごろ遠縁のものの
「そりゃ、姉さんがかげへ回って恵んでいるにちがいない。ハハハハ。兄さんもよっぽどのんきだなあ」と代助は大きな声を出して笑った。
「なに、そんなことがあるものか」
誠吾はやはり当たり前の顔をしていた。そうして前にある
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