四
代助は今読み切ったばかりの薄い洋書を机の上にあけたまま、
海から日が上がった。
代助はアンドレーフの「七
彼の父は十七のとき、家中の一人を
父ばかりではない。祖父についても、こんな話がある。祖父が若い時分、撃剣の同門のなんとかという男が、あまり技芸に達していたところから、ひとのねたみを受けて、ある夜
伯父が京都で殺された時は、
代助はこんな話を聞くたびに、勇ましいという気持ちよりも、まずこわいほうが先に立つ。度胸を買ってやる前に、
もし死が可能であるならば、それは発作の絶高頂に達した一瞬にあるだろうとは、代助のかねて期待するところであった。ところが、彼はけっして発作性の男でない。手もふるえる、足もふるえる。声のふるえることや、心臓の飛び上がることは始終ある。けれども、激することは近来ほとんどない。激するという心的状態は、死に近づきうる自然の階段で、激するたびに死にやすくなるのは目に見えているから、時には好奇心で、せめて、その近所まで押し寄せてみたいと思うこともあるが、まったくだめである。代助はこのごろの自己を解剖するたびに、五、六年
代助は机の上の書物を伏せると立ち上がった。縁側のガラス戸を細目にあけた間から暖かい陽気な風が吹き込んできた。そうして
「
「もう行って来たの」
「ええ、行って来ました。なんだそうです。明日お引き移りになるそうです。今日これから上がろうと思ってたところだとおっしゃいました」
「誰が? 平岡が?」
「ええ、──どうもなんですな。だいぶお忙しいようですな。先生たよっぽど違ってますね。──蟻なら種油をおつぎなさい。そうして苦しがって、穴から出て来るところをいちいち殺すんです。なんなら殺しましょうか」
「蟻じゃない。こうして、天気のいい時に、花粉を取って、雌蕊へ塗りつけておくと、今に実がなるんです。暇だから植木屋から聞いたとおり、やってるところだ」
「なあるほど。どうも重宝な世の中になりましたね。──しかし盆栽は好いもんだ。きれいで、楽しみになって」
代助は
「いたずらもいいかげんによすかな」と言いながら立ち上がって、縁側へすえつけの、
「平岡が今日来ると言ったって」
「ええ、来るようなお話でした」
「じゃ待っていよう」
代助は外出を見合わせた。実は平岡のことがこのあいだからだいぶ気にかかっている。
平岡はこの前、代助を訪問した当時、すでに落ちついていられない身分であった。彼自身の代助に語ったところによると、地位の心当たりが二、三か所あるから、さしあたりその方面へ運動してみるつもりなんだそうだが、その二、三か所が今どうなっているか、代助はほとんど知らない。代助のほうから
その時平岡は、早く家を探して落ちつきたいが、あんまり忙しいんで、どうすることもできない、たまに宿のものが教えてくれるかと思うと、まだ人が立ちのかなかったり、あるいは今壁を塗ってる最中だったりする。などと、電車へ乗ってわかれるまで諸事苦情ずくめであった。代助も気の毒になって、そんなら家は、
それから約束どおり門野を探しに出した。出すやいなや、門野はすぐかっこうなのを見つけて来た。門野に案内をさせて平岡夫婦に見せると、たいていよかろうということでわかれたそうだが、
「君、家主のほうへは借りるって、断って来たんだろうね」
「ええ、帰りに寄って、明日引っ越すからって、言って来ました」
代助は椅子に腰をかけたまま、新しく二度の
「あんなに、あせって」と、電車へ乗って飛んで行く平岡の姿を見送った代助は、口の内でつぶやいた。そうして旅宿に残されている細君のことを考えた。
代助はこの細君を
「あの時は、どうかしていたんだ」と代助は椅子によりながら、比較的冷やかな自己で、自己の影を批判した。
「なにか御用ですか」と門野がまた出て来た。
「おや、お呼びになったんじゃないのですか。おや、おや」と言って引っ込んで行った。代助はべつだんおかしいとも思わなかった。
「
その時、待ち設けているお客が来た。取り次ぎに出た門野は意外な顔をしてはいって来た。そうして、その顔を代助のそばまで持って来て、先生、奥さんですとささやくように言った。代助は黙って椅子を離れて座敷へはいった。
平岡の細君は、色の白いわりに髪の黒い、
三千代は東京を出て一年目に産をした。生まれた子供はじき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、とかく具合がわるい。初めのうちは、ただ、ぶらぶらしていたが、どうしても、はかばかしくなおらないので、しまいに医者に見てもらったら、よくはわからないが、ことによるとなんとかいうむずかしい名の心臓病かもしれないと言った。もしそうだとすれば、心臓から動脈へ出る血が、少しずつ、あともどりをする難症だから、根治はおぼつかないと宣告されたので、平岡も驚いて、できるだけ養生に手を尽くしたせいか、一年ばかりするうちに、いいあんばいに、元気がめっきりよくなった。色つやもほとんど元のようにさえざえして見える日が多いので、当人もよろこんでいると、帰る一か月ばかり前から、また血色が悪くなりだした。しかし医者の話によると、今度のは心臓のためではない。心臓は、それほど丈夫にもならないが、けっして前よりは悪くなっていない。弁の作用に故障があるものとは、今はけっして認められないという診断であった。──これは三千代がじかに代助に話したところである。代助はその時三千代の顔を見て、やっぱりなにか心配のためじゃないかしらと思った。
三千代は美しい線をきれいに重ねたあざやかな
廊下伝いに座敷へ案内された三千代は今代助の前に腰をかけた。そうしてきれいな手を
三千代は顔を上げた。代助は、突然例の目を認めて、思わずまたたきを一つした。
汽車で着いた
「だって、たいへん忙しそうだったから」
「ええ、忙しいことは忙しいんですけれども──好いじゃありませんか。いらしったって。あんまり他人行儀ですわ」
代助は、あの時、夫婦の間になにがあったか聞いてみようと思ったけれども、まずやめにした。いつもならからかい半分に、あなたはなにかしかられて、顔を赤くしていましたね、どんな悪いことをしたんですかぐらい言いかねない間柄なのであるが、代助には三千代の
代助は煙草へ火をつけて、吸い口をくわえたまま、椅子の背に頭をもたせて、くつろいだように、
「久しぶりだから、なにか
「今日はたくさん。そうゆっくりしちゃいられないの」と言って、昔の金歯をちょっと見せた。
「まあ、いいでしょう」
代助は両手を頭の後ろへ持っていって、指と指を組み合わせて三千代を見た。三千代はこごんで帯の間から小さな時計を出した。代助が真珠の指輪をこの女に贈りものにする時、平岡はこの時計を妻に買ってやったのである。代助は、一つ店で別々の品物を買ったあと、平岡と連れ立ってそこの敷居をまたぎながら互いに顔を見合わせて笑ったことを記憶している。
「おや、もう三時過ぎね。まだ二時ぐらいかと思ってたら。──少し寄り道をしていたものだから」とひとりごとのように説明を加えた。
「そんなに急ぐんですか」
「ええ、なりたけ早く帰りたいの」
代助は頭から手を放して、煙草の灰をはたき落とした。
「三年のうちにだいぶ世帯じみちまった。しかたがない」
代助は笑ってこう言った。けれどもその調子にはどこかに苦いところがあった。
「あら、だって、
三千代の声は、この時急に生き生きと聞こえた。代助は引っ越しのことをまるで忘れていたが、相手の快さそうな調子につり込まれて、こっちからもたあいなく追窮した。
「じゃ引っ越してからゆっくり来ればいいのに」
「でも」と言った三千代は少し
「実は私少しお願いがあってあがったの」
「なんですか、遠慮なくおっしゃい」
「少しお金の
三千代の言葉はまるで子供のように無邪気であるけれども、両方の頰はやっぱり赤くなっている。代助は、この女にこんな気恥ずかしい思いをさせる、平岡の今の境遇を、はなはだ気の毒に思った。
だんだん聞いてみると、明日引っ越しをする費用や、新しく世帯を持つための金が入り用なのではなかった。支店のほうを引き上げる時、向こうへ置き去りにしてきた借金が三口とかあるうちで、その一口をぜひ片づけなくてはならないのだそうである。東京へ着いたら一週間うちに、どうでもするという堅い約束をして来た上に、少しわけがあって、ほかのように放っておけない
「支店長から借りたというやつですか」
「いいえ。そのほうはいつまで延ばしておいてもかまわないんですが、こっちのほうをどうかしないと困るのよ。東京で運動するほうに響いてくるんだから」
代助はなるほどそんなことがあるのかと思った。金高を聞くと五百円と少しばかりである。代助はなんだそのくらいと腹の中で考えたが、実際自分は一文もない。代助は、自分が金に不自由しないようでいて、その実大いに不自由している男だと気がついた。
「なんでまた、そんなに借金をしたんですか」
「だから、私考えるといやになるのよ。私も病気をしたので、悪いには悪いけれども」
「病気の時の費用なんですか」
「じゃないのよ。薬代なんかしれたもんですわ」
三千代はそれ以上を語らなかった。代助もそれ以上を聞く勇気がなかった。ただ
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