三
代助の父は
誠吾のほかに姉がまだ一人あるが、これはある外交官に
代助の一家はこれだけの人数からできあがっている。そのうちで外へ出ているものは、西洋に行った姉と、近ごろ一戸を構えた代助ばかりだから、本家には大小合わせて五人残るわけになる。
代助は月に一度は必ず本家へ金をもらいに行く。代助は親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きている。月に一度のほかにも、退屈になれば出かけて行く。そうして子供にからかったり、書生と五目並べをしたり、
代助はこの嫂を好いている。この嫂は、
誠太郎という子は近ごろベースボールに熱中している。代助が行って時々
縫という娘は、なにか言うと、よくってよ、知らないわと答える。そうして日になんべんとなくリボンをかけかえる。近ごろはバイオリンの
兄はたいてい不在がちである。ことに忙がしい時になると、家で食うのは朝食ぐらいなもので、あとはどうして暮らしているのか、二人の子供にはまったくわからない。同程度において代助にもわからない。これはわからないほうが好ましいので、必要のないかぎりは、兄の
代助は二人の子供にたいへん人望がある。嫂にもかなりある。兄には、あるんだか、ないんだかわからない。たまに兄と
代助のもっともこたえるのは
実際をいうと親爺のいわゆる薫育は、この父子の間に
親爺は戦争に出たのをすこぶる自慢にする。ややもすると、お前などはまだ戦争をしたことがないから、度胸がすわらなくっていかんと一概にけなしてしまう。あたかも度胸が人間至上な能力であるかのごとき言い草である。代助はこれを聞かせられるたんびにいやな心持ちがする。胆力は命のやり取りのはげしい、親爺の若いころのような野蛮時代にあってこそ、生存に必要な資格かもしれないが、文明の今日からいえば、古風な弓術撃剣の
こういう代助はむろん
こんなことをまじめに口にした、また今でも口にしかねまじき親爺は気の毒なものだと、代助は考える。彼は地震がきらいである。瞬間の動揺でも胸に波が打つ。あるときは書斎でじっとすわっていて、なにかの拍子に、ああ地震が遠くから寄せて来るなと感ずることがある。すると、
代助は今この親爺と対座している。
親爺は
老人は今こんなことを言っている。──
「そう人間は自分だけを考えるべきではない。世の中もある。国家もある。少しは人のためになにかしなくっては心持ちのわるいものだ。お前だって、そう、ぶらぶらしていて心持ちのいいはずはなかろう。そりゃ、下等社会の無教育なものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、けっして遊んでいておもしろい理由がない。学んだものは、実地に応用してはじめて趣味が出るものだからな」
「そうです」と代助は答えている。親爺から説法されるたんびに、代助は返答に窮するからいいかげんなことを言う習慣になっている。代助に言わせると、親爺の考えは、万事
「それは実業がいやならいやでいい。なにも金をもうけるだけが日本のためになるともかぎるまいから。金は取らんでもかまわない。金のためにとやかく言うとなると、お前も心持ちがわるかろう。金は今までどおりおれが補助してやる。おれも、もういつ死ぬかわからないし、死にゃ金を持って行くわけにもいかないし。月々お前の
「そうです」
「三十になって遊民として、のらくらしているのは、いかにも不体裁だな」
代助はけっしてのらくらしているとは思わない。ただ職業のためにけがされない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えているだけである。親爺がこんなことを言うたびに、実は気の毒になる。親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつつある結果が、自己の思想情操のうえに、結晶して吹き出しているのが、まったく映らないのである。しかたがないから、まじめな顔をして、
「ええ、困ります」と答えた。老人は頭から代助を小僧視しているうえに、その返事がいつでも
「
「二、三年このかた
「頭も悪いほうじゃないだろう。学校の成績もかなりだったんじゃないか」
「まあそうです」
「それで遊んでいるのはもったいない。あのなんとか言ったね、そらお前のところへよく話に来た男があるだろう。おれも一、二度あったことがある」
「平岡ですか」
「そう平岡。あの人なぞは、あまりできのいいほうじゃなかったそうだが、卒業すると、すぐどこかへ行ったじゃないか」
「その代わり
老人は苦笑を禁じえなかった。
「どうして」と聞いた。
「つまり食うために働くからでしょう」
老人にはこの意味がよくわからなかった。
「なにかおもしろくないことでもやったのかな」と聞き返した。
「その場合場合で当然のことをやるんでしょうけれども、その当然がやっぱり
「はああ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子をかえて、説き出した。
「若い人がよく
「誠実と熱心があるために、かえってやり
「いや、まずないな」
親爺の頭の上に、
そのむかし藩の財政が疲弊して、始末がつかなくなった時、整理の任に当った長井は、藩侯に縁故のある町人を二、三人呼び集めて、刀を脱いでその前に頭を下げて、彼らに一時の融通を頼んだことがある。もとより返せるか、返せないか、わからなかったんだから、わからないとまっすぐに自白して、それがためにその時成功した。その因縁でこの額を藩主に書いてもらったんである。
今から十五、六年前に、旧藩主の家で、月々の支出がかさんできて、せっかく持ち直した経済がまたくずれだした時にも、長井は前年の手腕によって、再度の整理を委託された。その時長井は自分で
こういう過去の歴史を持っていて、この過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考えることをあえてしない長井は、なんによらず、誠実と熱心へ持って行きたがる。
「お前は、どういうものか、誠実と熱心が欠けているようだ。それじゃいかん。だからなんにもできないんだ」
「誠実も熱心もあるんですが、ただ人事上に応用できないんです」
「どういうわけで」
代助はまた返答に窮した。代助の考えによると、誠実だろうが、熱心だろうが、自分が出来合いのやつを胸に蓄えているんじゃなくって、石と鉄と触れて火花の出るように、相手次第で摩擦の具合がうまくゆけば、当事者二人の間に起こるべき現象である。自分の有する性質というよりはむしろ精神の交換作用である。だから相手が悪くっては起こりようがない。
「お父さんは論語だの、
「金の延金とは」
代助はしばらく黙っていたが、ようやく、
「延金のまま出て来るんです」と言った。長井は、書物癖のある、偏屈な、世慣れしない若輩のいいたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにもかかわらず、取り合うことをあえてしなかった。
それから約四十分ほどして、老人は着物を着換えて、
「おや、ここにいらっしゃるの」と言ったが、「ちょいとそこいらに私の
「相変わらずぼんやりしてるじゃありませんか」とからかった。
「お父さんからお談義を聞かされちまった」
「また? よくしかられるのね。お帰りそうそう、ずいぶん気がきかないわね。しかし
「お父さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目におとなしくしているんです」
「だからなお始末が悪いのよ。なにか言うと、へいへいって、そうして、ちっとも言うことを聞かないんだもの」
代助は苦笑して黙ってしまった。
「まあ、おかけなさい。少し話し相手になってあげるから」
代助はやっぱり立ったまま、嫂の姿を見守っていた。
「今日は妙な
「これ?」
梅子は
「こないだ買ったの」
「好い色だ」
「まあ、そんなことは、どうでもいいから、そこへおかけなさいよ」
代助は嫂の真正面へ腰をおろした。
「へえかけました」
「いったい今日はなにをしかられたんです」
「なにをしかられたんだか、あんまり要領を得ない。しかしお父さんの国家社会のために尽くすには驚いた。なんでも十八の年から今日までのべつに尽くしてるんだってね」
「それだから、あのくらいにお成りになったんじゃありませんか」
「国家社会のために尽くして、金がお父さんぐらいもうかるなら、僕も尽くしても好い」
「だから遊んでないで、お尽くしなさいな。あなたは寝ていてお金を取ろうとするから
「お金を取ろうとしたことは、まだありません」
「取ろうとしなくっても、使うからおんなじじゃありませんか」
「兄さんがなんとか言ってましたか」
「兄さんはあきれてるから、なんとも言やしません」
「ずいぶん猛烈だな。しかしお父さんより兄さんのほうが偉いですね」
「どうして。──あらにくらしい、またあんなお世辞を使って。あなたはそれが悪いのよ。まじめな顔をしてひとを茶化すから」
「そんなもんでしょうか」
「そんなもんでしょうかって、ひとのことじゃあるまいし。少しゃ考えて御覧なさいな」
「どうもここへ来ると、まるで門野とおんなじようになっちまうから困る」
「門野ってなんです」
「なにうちにいる書生ですがね。人になにか言われると、きっとそんなもんでしょうか、とか、そうでしょうか、とか答えるんです」
「あの人が? よっぽど妙なのね」
代助はちょっと話をやめて、梅子の肩越しに、窓掛けの間から、きれいな空を透かすように見ていた。遠くに大きな
「いい気候になりましたね。どこかお花見にでも行きましょうか」
「行きましょう。行くからおっしゃい」
「なにを」
「お父さまから言われたことを」
「言われたことはいろいろあるんですが、秩序立ててくり返すのは困るですよ。頭が悪いんだから」
「まだそらっとぼけていらっしゃる。ちゃんと知ってますよ」
「じゃ、伺いましょうか」
梅子は少しつんとした。
「貴方は近ごろよっぽど減らず口が達者におなりね」
「なに、
「子供は学校です」
十六、七の小間使いが戸をあけて顔を出した。あの、
「あなたは、そこにいらっしゃい。少し話があるから」
代助には嫂のこういう命令的の言葉がいつでもおもしろく感ぜられる。御ゆっくりと見送ったまま、また腰をかけて、ふたたび例の
梅子の用事というのを改まって聞いてみると、また例の縁談のことであった。代助は学校を卒業するまえから、梅子のおかげで写真実物いろいろな細君の候補者に接した。けれども、いずれも不合格者ばかりであった。初めのうちは体裁のいい逃げ
そこへ親爺がはなはだ因縁の深いある候補者を見つけて、旅行先から帰った。梅子は代助の来る二、三日前に、その話を親爺から聞かされたので、今日の会談は必ずそれだろうと
この候補者に対して代助は一種特殊な関係をもっていた。候補者の姓は知っている。けれども名は知らない。年齢、
代助の父には一人の兄があった。
直記と誠之進とは外貌のよく似ていたごとく、
ちょうど直記の十八の秋であった。ある時二人は城下はずれの
そのころの習慣として、侍が侍を殺せば、殺したほうが切腹をしなければならない。兄弟はその覚悟で家へ帰って来た。父も二人を並べておいて順々に自分で
母の客に行っていたところは、その遠縁にあたる高木という勢力家であったので、たいへん都合がよかった。というのは、そのころは世の中の動きかけた当時で、侍の
高木はそれから奔走を始めた。そして第一に家老を説きつけた。それから家老を通して藩主を説きつけた。殺された某の親はまた、存外訳のわかった人で、平生からせがれの行跡の良くないのを苦に病んでいたのみならず、斬りつけた当時も、こっちから
三年の後兄は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となった。また五、六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。そうして妻を迎えて、
「たいへん込み入っているのね。私驚いちまった」と嫂が代助に言った。
「お父さんから何べんも聞いてるじゃありませんか」
「だって、いつもはお嫁の話が出ないから、いいかげんに聞いてるのよ」
「
「おもらいなさいよ」
「賛成なんですか」
「賛成ですとも。因縁つきじゃありませんか」
「先祖のこしらえた因縁よりも、まだ自分のこしらえた因縁でもらうほうがもらいいいようだな」
「おや、そんなものがあるの」
代助は苦笑して答えなかった。
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