二
着物でも着換えて、こっちから平岡の宿をたずねようかと思っているところへ、おりよくむこうからやって来た。車をがらがらと門前まで乗りつけて、ここだここだと
「どうした。まあゆっくりするがいい」
「おや、
「なかなか、好い
「それから、以後どうだい」
「どうの、こうのって、──まあいろいろ話すがね」
「もとは、よく手紙が来たから、様子がわかったが、近ごろじゃちっともよこさないもんだから」
「いやどこもかしこも
「僕より君はどうだい」と言いながら、細い
「僕は相変わらずだよ」
「相変わらずがいちばん好いな。あんまり相変わるものだから」
そこで平岡は八の字を寄せて、庭の模様をながめだしたが、不意に語調をかえて、
「やあ、桜がある。今ようやく咲きかけたところだね。よほど気候が違う」と言った。話の具合がなんだかもとのようにしんみりしない。代助も少し気の抜けたふうに、
「向こうはだいぶ
「うん、だいぶ暖かい」と力のはいった返事があった。あたかも自己の存在を急に意識して、はっと思った調子である。代助はまた平岡の顔をながめた。平岡は
「ありゃなんだい」
「婆さんさ。雇ったんだ。飯を食わなくっちゃならないから」
「お世辞が好いね」
代助は赤い
「今までこんなところへ奉公したことがないんだからしかたがない」
「君の
「みんな若いのばかりでね」と代助はまじめに答えた。平岡はこの時はじめて声を出して笑った。
「若けりゃなお結構じゃないか」
「とにかく家のやつはよくないよ」
「あの婆さんのほかに誰かいるのかい」
「書生が一人いる」
門野はいつの間にか帰って、台所の方で婆さんと話をしていた。
「それぎりかい」
「それぎりだ。なぜ」
「細君はまだもらわないのかい」
代助はこころもち赤い顔をしたが、すぐ尋常一般のきわめて平凡な調子になった。
「
代助と平岡とは中学時代からの知り合いで、ことに学校を卒業して後、一年間というものは、ほとんど兄弟のように親しく往来した。その時分は互いにすべてを打ち明けて、互いに力になり合うようなことを言うのが、互いに娯楽の
平岡からはたえず
そのうちにだんだん手紙のやりとりが疎遠になって、月に二へんが、一ぺんになり、一ぺんがまた二月、三月にまたがるように間を置いてくると、今度は手紙を書かないほうが、かえって不安になって、なんの意味もないのに、ただこの感じを駆逐するために封筒の
それでも、ある事情があって、平岡のことはまるで忘れるわけにはゆかなかった。時々思い出す。そうして今ごろはどうして暮らしているだろうと、いろいろに想像してみることがある。しかしただ思い出すだけで、べつだん問い合わせたりするほどに、気をもむ勇気も必要もなく、今日まで過ごしてきたところへ、二週間前に突然平岡からの書信が届いたのである。その手紙には近々当地を引き上げて、
それで、あうやいなやこの変動の一部始終を聞こうと待ち設けていたのだが、不幸にして話がそれて容易にそこへもどってこない。折を見てこっちから持ちかけると、まあゆっくり話すとかなんとか言って、なかなか
「久しぶりだから、そこいらで飯でも食おう」と言いだした。平岡は、それでも、まだ、いずれゆっくりを繰り返したがるのを、無理に引っ張って、近所の西洋料理へ上がった。
「
「好いだろう、僕はまだ見たことがないが。──しかし、そんなまねができる間はまだ気楽なんだよ。世の中へ出ると、なかなかそれどころじゃない」と暗に相手の無経験を上から見たようなことを言った。代助にはその調子よりもその返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験のほうが、人生において有意義なものと考えている。そこでこんな答えをした。
「僕はいわゆる処世上の経験ほど愚なものはないと思っている。苦痛があるだけじゃないか」
平岡は酔った目をこころもち大きくした。
「だいぶ考えが違ってきたようだね。──けれどもその苦痛があとから薬になるんだって、もとは君の持説じゃなかったか」
「そりゃ不見識な青年が、流俗の
「だって、君だって、もうたいてい世の中へ出なくっちゃなるまい。その時それじゃ困るよ」
「世の中へは昔から出ているさ。ことに君とわかれてから、たいへん世の中が広くなったような気がする。ただ君の出ている世の中とは種類が違うだけだ」
「そんなこと言っていばったって、いまに降参するだけだよ」
「むろん食うに困るようになれば、いつでも降参するさ。しかし
平岡の
「僕の知ったものに、まるで音楽のわからないものがある。学校の教師をして、一軒じゃ飯が食えないもんだから、三軒も四軒もかけ持ちをやっているが、そりゃ気の毒なもんで、下読みをするのと、教場へ出て器械的に口を動かしているよりほかにまったく暇がない。たまの日曜などは骨休めとか号して一日ぐうぐう寝ている。だからどこに音楽会があろうと、どんな名人が外国から
平岡は
「うん、いつまでもそういう世界に住んでいられれば結構さ」と言った。その重い言葉の足が、富に対する一種の
「少し歩かないか」と代助が誘った。平岡も口ほど忙がしくはないとみえて、
平岡の言うところによると、赴任の当時彼は事務見習いのため、地方の経済状況取り調べのため、だいぶ忙がしく働いてみた。できうるならば、学理的に実地の応用を研究しようと思ったくらいであったが、地位がそれほど高くないので、やむをえず、自分の計画は計画として未来の試験用に頭の中に入れておいた。もっとも初めのうちはいろいろ支店長に建策したこともあるが、支店長は冷然として、いつも取り合わなかった。むずかしい理屈などを持ち出すとはなはだ
けれども、時日を経過するにしたがって、
「むやみにお世辞を使ったり、
支店長は平岡の未来のことについて、いろいろ心配してくれた。近いうちに本店に帰る番にあたっているから、その時はいっしょに来たまえなどと冗談半分に約束までした。そのころは事務にも慣れるし、信用も厚くなるし、交際もふえるし、勉強をする暇が自然となくなって、また勉強がかえって実務の妨げをするように感ぜられてきた。
支店長が、自分に万事を打ち明けるごとく、自分は自分の部下の
平岡の語るところは、ざっとこうであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決をうながされたようにも聞こえた。それは平岡の話の末に「会社員なんてものは、上になればなるほどうまいことができるものでね。実は関なんて、あれっぱかりの金を使い込んで、すぐ免職になるのは気の毒なくらいなものさ」という句があったのから推したのである。
「じゃ支店長はいちばんうまいことをしているわけだね」と代助が聞いた。
「あるいはそんなものかもしれない」と平岡は言葉を濁してしまった。
「それでその男の使い込んだ金はどうした」
「千に足らない金だったから、僕が出しておいた」
「よくあったね。君もだいぶうまいことをしたと見える」
平岡は苦い顔をして、じろりと代助を見た。
「うまいことをしたと仮定しても、みんな使ってしまっている。
「そうか」と代助は落ちつき払って受けた。代助はどんな時でも平生の調子を失わない男である。そうしてその調子には低く明らかなうちに一種の丸味が出ている。
「支店長から借りて埋めておいた」
「なぜ支店長がじかにその関とかなんとかいう男に貸してやらないのかな」
平岡はなんとも答えなかった。代助も押しては聞かなかった。二人は無言のまましばらくのあいだ並んで歩いて行った。
代助は平岡が語ったよりほかに、まだなにかあるにちがいないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んであくまでその真相を研究するほどの権利をもっていないことを自覚している。またそんな好奇心を引き起こすには、実際あまり都会化しすぎていた。二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのにすでに
代助は平岡のそれとはほとんど縁故のない自家特有の世界の中で、もうこれほどに進化──進化の裏面を見ると、いつでも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象だが──していたのである。それを平岡はまったく知らない。代助をもって、依然として旧態を改めざる三年
「それで、これからさきどうするつもりかね」
「さあ」
「やっぱり今までの経験もあるんだから、同じ職業がいいかもしれないね」
「さあ。事情次第だが。実はゆっくり君に相談してみようと思っていたんだが。どうだろう、君の兄さんの会社のほうに口はあるまいか」
「うん、頼んでみよう、二、三日内に家へ行く用があるから。しかしどうかな」
「もし、実業のほうがだめなら、どっか新聞へでもはいろうかと思う」
「それもいいだろう」
両人はまた電車の通る通りへ出た。平岡は向こうから来た電車の軒を見ていたが、突然これに乗って帰ると言いだした。代助はそうかと答えたまま、留めもしない、といってすぐわかれもしなかった。赤い棒の立っている停留所まで歩いて来た。そこで、
「
「ありがとう、まあ相変わらずだ。君によろしく言っていた。実は今日連れて
電車が二人の前で留まった。平岡は二、三歩早足に行きかけたが、代助から注意されてやめた。彼の乗るべき車はまだ着かなかったのである。
「子供は惜しいことをしたね」
「うん。
「その後はどうだい。まだ後はできないか」
「うん、まだにもなんにも、もうだめだろう。
「こんなに動く時は子供のないほうがかえって便利でいいかもしれない」
「それもそうさ。いっそ君のように
「一人身になるさ」
「冗談言ってら──それよりか、
ところへ電車が来た。
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