それから

夏目漱石/カクヨム近代文学館

 だれかあわただしく門前をけて行く足音がした時、だいすけの頭の中には、大きなまないたくうから、ぶら下がっていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠のくに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして目がさめた。

 まくらもとを見ると、椿つばきが一輪畳の上に落ちている。代助は昨夕ゆうべ床の中でたしかにこの花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それがゴムまりを天井裏から投げつけたほどに響いた。夜がふけて、あたりが静かなせいかとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、あばらのはずれに正しくあたる血の音を確かめながら眠りについた。

 ぼんやりして、しばらく、赤ん坊の頭ほどもある大きな花の色を見つめていた彼は、急に思い出したように、寝ながら胸の上に手を当てて、また心臓の鼓動を検しはじめた。寝ながら胸の脈をきいてみるのは彼の近来の癖になっている。どうは相変わらず落ちついてたしかに打っていた。彼は胸に手を当てたまま、この鼓動のもとに、あたたかいくれないの血潮のゆるく流れるさまを想像してみた。これが命であると考えた。自分は今流れる命をてのひらでおさえているんだと考えた。それから、この掌にこたえる、時計の針に似た響きは、自分を死にいざなう警鐘のようなものであると考えた。この警鐘を聞くことなしに生きていられたら──血を盛る袋が、時を盛る袋の用をかねなかったなら、いかに自分は気楽だろう。いかに自分は絶対に生を味わいうるだろう。けれども──代助は覚えずぞっとした。彼は血潮によって打たるるねんのない、静かな心臓を想像するに堪えぬほどに、生きたがる男である。彼は時々寝ながら、左の乳の下に手を置いて、もし、ここをかなづちで一つどやされたならと思うことがある。彼は健全に生きていながら、この生きているというだいじような事実を、ほとんど奇跡のごときぎようこうとのみ自覚しだすことさえある。

 彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中から両手を出して、大きく左右に開くと、左側に男が女をっている絵があった。彼はすぐほかのページへ目を移した。そこには、学校騒動が大きな活字で出ている。代助は、しばらく、それを読んでいたが、やがて、だるそうな手から、はたりと新聞を夜具の上に落した。それから煙草たばこを一本吹かしながら、五寸ばかりとんをずり出して、畳の上の椿を取って、ひっくり返して、鼻の先へ持ってきた。口とくちひげと鼻の大部分がまったく隠れた。けむりは椿のはなびらずいにからまって漂うほど濃く出た。それを白い敷布の上に置くと、立ち上がってへ行った。

 そこでていねいに歯をみがいた。彼は歯並びのいいのを常にうれしく思っている。はだを脱いできれいに胸と背を摩擦した。彼の皮膚にはこまやかな一種のつやがある。香油を塗りこんだあとを、よくふき取ったように、肩をうごかしたり、腕を上げたりするたびに、局所の脂肪が薄くみなぎって見える。かれはそれにも満足である。次に黒い髪を分けた。油をつけないでもおもしろいほど自由になる。ひげも髪同様に細くかつういういしく、口の上を品よくおおうている。代助はそのふっくらしたほおを、両手で両三度なでながら、鏡の前にわが顔を映していた。まるで女がお白粉しろいを付ける時の手つきと一般であった。実際彼は必要があれば、お白粉さえ付けかねぬほどに、肉体に誇りを置く人である。彼のもっともきらうのはかんのような骨格とそうごうで、鏡に向かうたんびに、あんな顔に生まれなくって、まあよかったと思うくらいである。その代わり人からおしやと言われても、なんの苦痛も感じえない。それほど彼は旧時代の日本を乗りこえている。

 約三十分の後彼は食卓についた。熱い紅茶をすすりながら焼パンにバタを付けていると、かどという書生が座敷から新聞をたたんで持ってきた。四つ折りにしたのをとんのわきへ置きながら、

 「先生、たいへんなことが始まりましたな」とぎょうさんな声で話しかけた。この書生は代助をつらまえては、先生先生と敬語を使う。代助も、はじめ一、二度は苦笑して抗議を申し込んだが、えへへへ、だって先生と、すぐ先生にしてしまうので、やむをえずそのままにしておいたのが、いつか習慣になって、今では、この男に限って、平気に先生として通している。実際書生が代助のような主人を呼ぶには、先生以外にべつだん適当な名称がないということを、書生を置いてみて、代助もはじめて悟ったのである。

 「学校騒動のことじゃないか」と代助は落ちついた顔をしてパンを食っていた。

 「だって痛快じゃありませんか」

 「校長排斥がですか」

 「ええ、とうてい辞職もんでしょう」とうれしがっている。

 「校長が辞職でもすれば、君はなにかもうかることでもあるんですか」

 「じようだんいっちゃいけません。そう損得ずくで、痛快がられやしません」

 代助はやっぱりパンを食っていた。

 「君、あれはほんとうに校長がにくらしくって排斥するのか、ほかに損得問題があって排斥するのか知ってますか」と言いながらてつびんの湯をこうちやぢやわんの中へさした。

 「知りませんな。なんですか、先生は御存じなんですか」

 「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得にならないと思って、あんな騒動をやるもんかね。ありゃ方便だよ、君」

 「へえ、そんなもんですかな」と門野はややまじめな顔をした。代助はそれぎり黙ってしまった。門野はこれより以上通じない男である。これより以上、いくら行っても、へえそんなもんですかなで押し通して澄ましている。こちらの言うことがこたえるのだか、こたえないのだか、まるで要領を得ない。代助は、そこがばくぜんとして、刺激がいらなくって好いと思って書生に使っているのである。その代わり、学校へも行かず、勉強もせず、一日ごろごろしている。君、ちっと、外国語でも研究しちゃどうだなどと言うことがある。すると門野はいつでも、そうでしょうか、とか、そんなもんでしょうか、とか答えるだけである。けっしてしましょうということは口にしない。またこう、なまけものでは、そうはっきりした答えができないのである。代助のほうでも、門野を教育しに生まれてきたわけでもないから、いいかげんにしてほうっておく。幸い頭と違って、身体からだのほうはよく動くので、代助はそこを大いに重宝がっている。代助ばかりではない、従来からいるばあさんも門野のおかげでこのごろはたいへん助かるようになった。その原因で婆さんと門野とはすこぶる仲が好い。主人のなどには、よくふたで話をする。

 「先生はいったいなにをする気なんだろうね。さん」

 「あのくらいになっていらっしゃれば、なんでもできますよ。心配するがものはない」

 「心配はせんがね。なにかしたらよさそうなもんだと思うんだが」

 「まあ奥様でもおもらいになってから、ゆっくり、おやくでもお探しなさるおつもりなんでしょうよ」

 「いいつもりだなあ。僕も、あんなふうにいちん本を読んだり、音楽を聞きに行ったりして暮らしていたいな」

 「お前さんが?」

 「本は読まんでも好いがね。ああいうあいに遊んでいたいね」

 「それはみんな、前世からの約束だからしかたがない」

 「そんなものかな」

 まずこういう調子である。門野が代助の所へ引き移る二週間前には、この若い独身の主人と、このいそうろうとの間にしものような会話があった。

 「君はどっかの学校へ行ってるんですか」

 「もとは行きましたがな。今はやめちまいました」

 「もと、どこへ行ったんです」

 「どこって方々行きました。しかしどうもあきっぽいもんだから」

 「じきいやになるんですか」

 「まあ、そうですな」

 「で、たいして勉強する考えもないんですか」

 「ええ、ちょっとありませんな。それに近ごろうちの都合が、あんまり好くないもんですから」

 「家のばあさんは、あなたの御母おつかさんを知ってるんだってね」

 「ええ、もと、じき近所にいたもんですから」

 「御母さんはやっぱり……」

 「やっぱりつまらない内職をしているんですが、どうも近ごろは不景気で、あんまり好くないようです」

 「好くないようですって、君、いっしょにいるんじゃないですか」

 「いっしょにいることはいますが、ついめんどうだから聞いたこともありません。なんでもよくこぼしてるようです」

 「にいさんは」

 「兄は郵便局のほうへ出ています」

 「家はそれだけですか」

 「まだおととがいます。これは銀行の──まあ小使に少し毛のはえたぐらいなところなんでしょう」

 「するとあすんでるのは、君ばかりじゃないか」

 「まあ、そんなもんですな」

 「それで、家にいるときは、なにをしているんです」

 「まあ、たいてい寝ていますな。でなければ散歩でもしますかな」

 「ほかのものが、みんなかせいでるのに、君ばかり寝ているのは苦痛じゃないですか」

 「いえ、そうでもありませんな」

 「家庭がよっぽど円満なんですか」

 「べつだんけんもしませんがな。妙なもんで」

 「だって、御母さんや兄さんから言ったら、一日も早く君に独立してもらいたいでしょうがね」

 「そうかもしれませんな」

 「君はよっぽど気楽な性分と見える。それがほんとうのところなんですか」

 「ええ、別にうそをつくりようけんもありませんな」

 「じゃまったくののんなんだね」

 「ええ、まあ吞気屋っていうもんでしょうか」

 「兄さんはいくつになるんです」

 「こうっと、取って六になりますか」

 「すると、もう細君でももらわなくちゃならないでしょう。兄さんの細君ができても、やっぱり今のようにしているつもりですか」

 「その時になってみなくっちゃ、自分でも見当がつきませんが、なにしろ、どうかなるだろうと思ってます」

 「そのほかに親類はないんですか」

 「ひとありますがな。こいつは今、浜でうんそうぎようをやってます」

 「叔母さんが?」

 「叔母がやってるわけでもないんでしょうが、まあ、ですな」

 「そこへでも頼んで使ってもらっちゃ、どうです。運漕業ならだいぶ人がいるでしょう」

 「根がなまけもんですからな。おおかた断わるだろうと思ってるんです」

 「そう自任していちゃ困る。実は君の御母さんが、家の婆さんに頼んで、君を僕のうちへ置いてくれまいかという相談があるんですよ」

 「ええ、なんだかそんなことを言ってました」

 「君自身は、いったいどういう気なんです」

 「ええ、なるべくなまけないようにして……」

 「家へ来るほうがいんですか」

 「まあ、そうですな」

 「しかし寝て散歩するだけじゃ困る」

 「そりゃ大丈夫です。身体からだのほうは達者ですから。でもなんでもみます」

 「風呂は水道があるから汲まないでもいい」

 「じゃ、そうでもしましょう」

 門野はこういう条件で代助の書生になったのである。

 代助はやがて食事を済まして、煙草を吹かしだした。今までちやだんの陰に、ぽつねんとひざをかかえて柱によりかかっていた門野は、もう好い時分だと思って、また主人に質問を掛けた。

 「先生、は心臓の具合はどうですか」

 このあいだから代助の癖を知っているので、いくぶんか茶化した調子である。

 「今日きようはまだ大丈夫だ」

 「なんだか明日あしたにもあやしくなりそうですな。どうも先生みたように身体を気にしちゃ──しまいにはほんとうの病気にとっつかれるかもしれませんよ」

 「もう病気ですよ」

 門野はただへええと言ったぎり、代助のつやの好い顔色や肉の豊かな肩のあたりを羽織の上からながめている。代助はこんな場合になるといつでもこの青年を気の毒に思う。代助から見ると、この青年の頭は、牛ののうでいっぱい詰まっているとしか考えられないのである。話をすると、平民の通る大通りを半町ぐらいしかついて来ない。たまに横町へでも曲がると、すぐまいになってしまう。論理の地盤をたてに切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。彼の神経系に至ってはなおさら粗末である。あたかもあらなわで組み立てられたるかの感が起こる。代助はこの青年の生活状態を観察して、彼はひつきようなんのために呼吸をあえてして存在するかを怪しむことさえある。それでいて彼は平気にのらくらしている。しかもこののらくらをもって、暗に自分の態度と同一型に属するものと心得て、なかなか得意にふるまいたがる。そのうえがんきよう一点張りの肉体をかさに着て、かえって主人の神経的な局所へ肉薄してくる。自分の神経は、自分に特有なるさいな思索力と、鋭敏な感応性に対して払う租税である。こうしような教育の彼岸に起こる反響の苦痛である。てんしやくてきに貴族となった報いに受ける不文の刑罰である。これらの犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分になれた。いな、ある時はこれらの犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さえある。門野にはそんなことはまるでわからない。

 「門野さん、郵便は来ていなかったかね」

 「郵便ですか。こうっと。来ていました。はがきと封書が。机の上に置きました。持って来ますか」

 「いや、僕があっちへ行ってもいい」

 歯切れのわるい返事なので、門野はもう立ってしまった。そうしてはがきと郵便を持って来た。はがきは、今日二時東京着、ただちに表面へ投宿、とりあえず御報、午前会いたし、と薄墨の走り書きの簡単きわまるもので、表にうらじんぼうちようの宿屋の名とひらおかつねろうという差し出し人の姓名が、裏と同じ乱暴さかげんで書いてある。

 「もう来たのか。昨日きのう着いたんだな」とひとりごとのように言いながら、封書のほうを取り上げると、これはおや手蹟である。二、三日前帰って来た。急ぐ用事でもないが、いろいろ話があるから、この手紙が着いたら来てくれろと書いて、あとには京都の花がまだ早かったの、急行列車がいっぱいで窮屈だったなどというかんもんが数行つらねてある。代助は封書を巻きながら、妙な顔をして、両方見くらべていた。

 「君、電話をかけてくれませんか。うちへ」

 「はあ、お宅へ。なんてかけます」

 「今日は約束があって、待ち合わせる人があるから上がれないって。明日あした明後日あさつてきっと伺いますからって」

 「はあ、どなたに」

 「親爺が旅行から帰って来て、話があるからちょっと来いっていうんだが、──なに親爺を呼び出さないでもいいから、だれにでもそう言ってくれたまえ」

 「はあ」

 門野はぞうに出て行った。代助は茶の間から、座敷を通って書斎へ帰った。見ると、きれいに掃除ができている。おち椿つばきもどこかへき出されてしまった。代助はへいの右手にある組み重ねのしよだなの前へ行って、上に載せた重いしやしんちようを取り上げて、立ちながら、きんとめがねをはずして、一枚二枚と繰り始めたが、中ごろまで来てぴたりと手をとめた。そこにはぐらいの女の半身がある。代助は目をふせてじっと女の顔を見つめていた。

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