それから
夏目漱石/カクヨム近代文学館
一
ぼんやりして、しばらく、赤ん坊の頭ほどもある大きな花の色を見つめていた彼は、急に思い出したように、寝ながら胸の上に手を当てて、また心臓の鼓動を検しはじめた。寝ながら胸の脈をきいてみるのは彼の近来の癖になっている。
彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中から両手を出して、大きく左右に開くと、左側に男が女を
そこで
約三十分の後彼は食卓についた。熱い紅茶をすすりながら焼パンにバタを付けていると、
「先生、たいへんなことが始まりましたな」とぎょうさんな声で話しかけた。この書生は代助をつらまえては、先生先生と敬語を使う。代助も、はじめ一、二度は苦笑して抗議を申し込んだが、えへへへ、だって先生と、すぐ先生にしてしまうので、やむをえずそのままにしておいたのが、いつか習慣になって、今では、この男に限って、平気に先生として通している。実際書生が代助のような主人を呼ぶには、先生以外にべつだん適当な名称がないということを、書生を置いてみて、代助もはじめて悟ったのである。
「学校騒動のことじゃないか」と代助は落ちついた顔をしてパンを食っていた。
「だって痛快じゃありませんか」
「校長排斥がですか」
「ええ、とうてい辞職もんでしょう」とうれしがっている。
「校長が辞職でもすれば、君はなにかもうかることでもあるんですか」
「
代助はやっぱりパンを食っていた。
「君、あれはほんとうに校長がにくらしくって排斥するのか、ほかに損得問題があって排斥するのか知ってますか」と言いながら
「知りませんな。なんですか、先生は御存じなんですか」
「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、得にならないと思って、あんな騒動をやるもんかね。ありゃ方便だよ、君」
「へえ、そんなもんですかな」と門野はややまじめな顔をした。代助はそれぎり黙ってしまった。門野はこれより以上通じない男である。これより以上、いくら行っても、へえそんなもんですかなで押し通して澄ましている。こちらの言うことがこたえるのだか、こたえないのだか、まるで要領を得ない。代助は、そこが
「先生はいったいなにをする気なんだろうね。
「あのくらいになっていらっしゃれば、なんでもできますよ。心配するがものはない」
「心配はせんがね。なにかしたらよさそうなもんだと思うんだが」
「まあ奥様でもおもらいになってから、ゆっくり、お
「いいつもりだなあ。僕も、あんなふうに
「お前さんが?」
「本は読まんでも好いがね。ああいう
「それはみんな、前世からの約束だからしかたがない」
「そんなものかな」
まずこういう調子である。門野が代助の所へ引き移る二週間前には、この若い独身の主人と、この
「君はどっかの学校へ行ってるんですか」
「もとは行きましたがな。今はやめちまいました」
「もと、どこへ行ったんです」
「どこって方々行きました。しかしどうもあきっぽいもんだから」
「じきいやになるんですか」
「まあ、そうですな」
「で、たいして勉強する考えもないんですか」
「ええ、ちょっとありませんな。それに近ごろ
「家の
「ええ、もと、じき近所にいたもんですから」
「御母さんはやっぱり……」
「やっぱりつまらない内職をしているんですが、どうも近ごろは不景気で、あんまり好くないようです」
「好くないようですって、君、いっしょにいるんじゃないですか」
「いっしょにいることはいますが、つい
「
「兄は郵便局のほうへ出ています」
「家はそれだけですか」
「まだ
「すると
「まあ、そんなもんですな」
「それで、家にいるときは、なにをしているんです」
「まあ、たいてい寝ていますな。でなければ散歩でもしますかな」
「ほかのものが、みんな
「いえ、そうでもありませんな」
「家庭がよっぽど円満なんですか」
「べつだん
「だって、御母さんや兄さんから言ったら、一日も早く君に独立してもらいたいでしょうがね」
「そうかもしれませんな」
「君はよっぽど気楽な性分と見える。それがほんとうのところなんですか」
「ええ、別に
「じゃまったくの
「ええ、まあ吞気屋っていうもんでしょうか」
「兄さんはいくつになるんです」
「こうっと、取って六になりますか」
「すると、もう細君でももらわなくちゃならないでしょう。兄さんの細君ができても、やっぱり今のようにしているつもりですか」
「その時になってみなくっちゃ、自分でも見当がつきませんが、なにしろ、どうかなるだろうと思ってます」
「そのほかに親類はないんですか」
「
「叔母さんが?」
「叔母がやってるわけでもないんでしょうが、まあ、
「そこへでも頼んで使ってもらっちゃ、どうです。運漕業ならだいぶ人がいるでしょう」
「根がなまけもんですからな。おおかた断わるだろうと思ってるんです」
「そう自任していちゃ困る。実は君の御母さんが、家の婆さんに頼んで、君を僕の
「ええ、なんだかそんなことを言ってました」
「君自身は、いったいどういう気なんです」
「ええ、なるべくなまけないようにして……」
「家へ来るほうが
「まあ、そうですな」
「しかし寝て散歩するだけじゃ困る」
「そりゃ大丈夫です。
「風呂は水道があるから汲まないでもいい」
「じゃ、
門野はこういう条件で代助の書生になったのである。
代助はやがて食事を済まして、煙草を吹かしだした。今まで
「先生、
このあいだから代助の癖を知っているので、いくぶんか茶化した調子である。
「
「なんだか
「もう病気ですよ」
門野はただへええと言ったぎり、代助のつやの好い顔色や肉の豊かな肩のあたりを羽織の上からながめている。代助はこんな場合になるといつでもこの青年を気の毒に思う。代助から見ると、この青年の頭は、牛の
「門野さん、郵便は来ていなかったかね」
「郵便ですか。こうっと。来ていました。はがきと封書が。机の上に置きました。持って来ますか」
「いや、僕があっちへ行ってもいい」
歯切れのわるい返事なので、門野はもう立ってしまった。そうしてはがきと郵便を持って来た。はがきは、今日二時東京着、ただちに表面へ投宿、とりあえず御報、
「もう来たのか。
「君、電話をかけてくれませんか。
「はあ、お宅へ。なんてかけます」
「今日は約束があって、待ち合わせる人があるから上がれないって。
「はあ、どなたに」
「親爺が旅行から帰って来て、話があるからちょっと来いっていうんだが、──なに親爺を呼び出さないでもいいから、
「はあ」
門野は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます