この青空に君よ泣け(後)

 ◆


『ボクは楽団ハルピュイアの団長をしていてね。興味があったら連絡をおくれ。キミの歌声は―――特別だ』


 そう言って名刺を置いて行った彼女。


 楽団ハルピュイア。

 ハーピーたちによる移動音楽団、その団長。

 音楽を愛するハーピーたちによる世界随一の音楽団だ。


 雨宿りできる場所を探して飛んでいた彼女は、エルフィの声を聴いて居ても立ってもいられなかったらしい。


 ―――名刺は棚の奥にしまって、それきりだった。


「~♪」


 彼女は歌う。

 私はピアノを弾く。

 精霊たちも踊っている。

 その間だけは、雨音だってさえぎれない。


 それなのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。


「―――ああそういえば、今日はフレンチトーストにしようと思っているのですが」

「! それってステキです! はちみつは、」

「もちろんたっぷりで」

「えへへ♪」


 彼女は笑う。

 私も笑う。


 そこには、ただ穏やかな時間だけがあった。


 なにものにも邪魔されないそんな時間が。

 世界から隔絶された雨の内側。

 彼女の声は私の傍らにだけある。


 ……それで、いいのだろうか。


「ねえ、エルフィ」

「エリーさん。わたし、お腹が空いちゃいました」

「え? ……ええ、そうね。私も」


 彼女に促されて私は台所に立った。

 名刺のことは、胸の内にしまいこんだままで。


 ◆


 私たちの日々に変わりはなかった。

 歌声はずっと私の傍らにある。

 雨音は遠い。


「~~♪」


 彼女の歌に合わせてピアノを弾くのは楽しい。

 だけど―――ああ。

 どうしようもなく分かるのだ。

 私の耳には分かる。

 分かってしまう。


 私は……劣っている。


 長年音楽から遠ざかっていた私の指は、この子にとても届かない。私の全盛期でさえどうだろうか。

 彼女は特別だ。

 彼女をねたみ憎んだ鳥頭の気持ちも納得できる。


 もちろん理解なんてできやしない。

 こんなにステキな子をどうして憎めるだろう。


 それでも納得できてしまう。


 私の耳が。


 私の音楽が。


 彼女の特別に、納得できて、しまう。


「―――エリー?」


 演奏の手を止めた私を彼女は不思議そうにのぞき込む。

 口を開こうとすると私の頬に羽毛が触れた。


「エリーもしかしてねぶそく?」

「あら、そう見える?」

「うーん。ちょっぴり眠そうかも。今日はいっしょにおひるねしよっか。えへへ、サラマンダーちゃんとシルフちゃんにね、このハネをふわふわにしてもらって」

「エルフィ」

「うん、なにゅむ」


 彼女の口をむりやり閉ざす。

 彼女は歌うことにかけては特別だ。

 ちょっとくらい強引にでもやらないと。


「―――ぅ、えぁ」

「エルフィ。あなた、ハルピュイアに行くつもりはないかしら」

「……え、いま、え、エリー今、あの、わた、えあれ?」


 ……すこし強引過ぎたのかもしれない。


「あ、あのえと、人間ってあの、今のってちゅーっていうかあのそのえとあの」

「エルフィっ」

「あうん」

「ハルピュイア。あなた、本当は行きたいんでしょう」

「うん……あっいやちがっ、たしかにちょっと興味ないわけじゃないけど、でもそんなんじゃ……」


 もじもじと埋もれる彼女に、羽毛をかき分けるようにして顔を寄せる。

 ぽぽ、と頬を染められてしまって私まで熱くなるけれど、今はもっとちゃんと話がしたかった。


「エルフィ、あなたの歌声にはね、もっとちゃんとした舞台があるの。あなたの歌はもっと遠くに……こんなじめじめした場所じゃなくて、晴れ渡る空の果てにまで届くだけの力がある」

「ヤダよ」

「そう……え、ヤ、え?」

「ヤダよ。そんなの」


 今まで見たこともないほどに硬い表情で彼女は言う。

 どんな言葉ももう受け入れてやるもんか、という頑なさが表情にこれでもかと現れていた。


「わたしはエリーと離れない。わたしはここに居ろってエリーが言ってくれたんだよ……?」

「でもあなたは本当は」

「わたしのほんとをエリーが決めつけないでよ!」


 羽ばたきが羽毛を散らす。

 彼女のいらだちを風圧で感じる。


「わたしはエリーと歌いたい! うそなんかじゃない! ほんとなんだよ……!」

「そんな風に思っているわけじゃないわ。だけどあなたはもっと大きなところで、広い場所で……ひとの前で、歌いたいんじゃないかしら」

「……なんでそんなことが分かるの」

「あなたが特別だからよ」


 彼女の歌。

 私の雨音をさえ通り抜けて、聞く人すべての心に届く歌。

 だからどうしようもなく伝わる。

 伝わってしまう。


 彼女は楽しんでいる。

 歌うことを。

 そしてそれを誰かに届けることを、どうしようもなく、楽しんでいる。


 だからこんなにも苦しいんだ。

 彼女の歌声を私ひとりじゃ受け止めきれないから。

 彼女の歌声を、この雨雲の向こうには、私じゃどうしたって届けられないから。


 私は特別なんかじゃないから。

 どうかこの思いを、伝えようと。

 懸命に言葉を探して。


「ちがうよ……」


 若草色の翼に覆われる。

 額が重なる。

 私の反論を、彼女は、ふさぐ。


「―――……違うんだよ。わたしが楽しいのは、歌うのが、楽しくなったのは……エリーのおかげなんだよ」


 ぽつりぽつりと。

 雨が降る。

 静かな雨が。


「キミのうしろ姿が……わたしは好き。わたしの歌を聞いて楽しそうに揺れるうしろ姿が……振り向く時の、ほっぺたが蕩けちゃいそうなくらい甘い視線が好き……わたしの歌を真似して口ずさむその音が好き……ぜんぶエリーなんだよ……エリーが歌を聞いてくれるから、だからわたしは歌うのが好きになれた」


 特別な歌なんてなくたってどうしようもなく伝わる。

 言葉なんて、もう、探す必要はなかった。


「好きだよエリー……わたしにとって特別なのはエリーなんだよ……エリーと離れたくない……」

「わ、私も。私も好き……好きよ……あなたの歌が好き、歌うあなたが好き、あなたが好き……!」

「なら歌わせてよ、キミに、キミのために、キミだけに!」


 懇願の雨が降り注ぐ。

 激しい雨が、私をしとどに濡らしていく。

 だけどこの雨に傘は必要なかった。


 あのときと同じように私は、泣き虫な彼女を受け入れた。


 ―――雨上がりに、彼女は言った。


「わたし行くね。ハルピュイアに」


 ◆


 彼女の旅立ちを澄み渡る青空が祝っていた。


「さあ行こうか、歌姫よ」


 おそろいのタキシードドレスを着たハーピーたちの出迎えは壮観で、私もエルフィも圧倒されるばかりだ。


「行きなさい、エルフィ」


 だけどエルフィはここに並べる。

 この空で一番美しい音色の中に彩られた、この空で一番の歌声が、この空の果てまでもを震わせる。


 そんな夢みたいな想像は、きっと明日にも現実だ。


「う゛ん゛んん……」

「なによ、あいかわらずあなたは泣き虫ね」

「うぅぅ……やっぱりもう一日……」

「あはははは―――いやね、そう言ってもう二日経ったしそろそろボクらマジやばいんだ。ごめんよぅ」

「団長さんを困らせてはいけないわ、エルフィ」


 私が背を押すと彼女は泣きじゃくりながら前に出る。

 気のいい仲間たちに囲まれて、おどおどしていた彼女はすぐにほんの少しだけ笑みを浮かべた。

 彼女は素直だからきっとすぐに打ち解けて、みんなに愛される歌姫になることだろう。


 名残惜しみながらなんども振り返る彼女。

 だけど私は背を向けて家に戻った。


 羽ばたきたちが聞こえる。


 ああまったく、彼女は最後まで泣き虫で。


「ほんとうに、仕方のない子ね」


 私はピアノを前にする。


 コンサートのときよりずっと緊張していた。


 視界がぼやけるのだってきっとそのせいだ。


 それでも。


 この大きな空に飛び出して行った泣き虫に、負けてなんかはいられない。


 だから。


またね・・・、エルフィ!」


 この青空に君よ泣け。


 降り注ぐ雨の中でさえ、その歌声が聞こえるように。

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ゆりばたけ くしやき @skewers

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