この青空に君よ泣け(前)

 雨音に混ざったその声は、雲の向こうまで届くほど、それはそれはよく通る泣き声だった。

 あまりにも切に泣きじゃくるから、私は堪らず外に出て、そこで彼女を見つけたのだ。


 ひどく泣き虫な、その翼を。


 ◆


「ぐすん……ありがとうございます、本当に……」


 目元をすっかり泣き腫らした彼女が項垂れるように頭を下げる。若葉色をしたふさふさの翼は目元を拭うには大げさで、いないないばぁでもしているみたい。


 エルフィと名乗った彼女は、ハーピーの少女だった。


 両腕の代わりにおおきな翼を、両足にはいかつい鉤爪を。

 そしてなによりその喉に、鳥たちのような歌声を。

 ハーピーというのはそういう種族だから、あのよく通る泣き声にもうなずける。


 もっとも今はその声も、鼻水のせいでグズグズだ。


 気にしないでと私は言って、柔らかい布を貸してあげる。

 身体を拭くようにというつもりで渡したその布で彼女は「ぢーんっ」と鼻をかんだ。


「あ」


 とか言う間に彼女は羽ばたく、まき散らされた雨粒が玄関をずぶ濡れにする。

 ばっさばっさ、と数度羽ばたけばそれで撥水性の翼はすっかり乾いて、そもそも翼のおかげで身体はほとんど濡れていなかった。


「風邪はひかなさそうね」

「はい? えへへ……あぉ……?」


 そこでようやくずぶ濡れの玄関に気がついて彼女は真っ青になった。

 ぷるぷると震える彼女の目には、またじわりと涙。


 彼女は泣き虫で、どうやら抜けたところがある。


「ごべんなざい゛ぃぃいい!」


 彼女の泣き声で雨音も聞こえない。

 私はつい笑った。


 ◆


「エリーさんはピアニストなんですか?」


 泣き止んだ彼女とともに玄関を片付けていると、その片隅、布のかかっていたソレに気がつかれる。

 器用に翼で持ち上げた布の下、白と黒の鍵盤。


 自然と、頬がゆがむ。


「……いいえ。しばらく弾いてないわ」

「えー、もったいないですね。こんなに立派なのがあるのに。弾いてみてくださいよぉー」


 にこにこと楽しみにする彼女に、ほんの少しだけ苛立ちそうになる。


 彼女は泣き虫で、抜けたところがある上に、空気もあまり読めないようだ。


「そろそろ十分でしょう。お手伝いしていただきありがとうございます、お茶でもごちそうさせてください」

「わぁ! 本当ですか! 嬉しいです!」


 途端にパァと顔を輝かせる彼女はすっかりピアノのことなんて忘れてしまってうきうきだ。


 ……そして単純、と。


 あまり得意なタイプではない。

 けれどこうして拾ってしまった以上は、多少なりとも面倒を見てあげないことには夢見も悪い。


「コーヒーは飲めますか?」

「あはい! ミルクとはちみついっぱいだったら! コーヒーは抜いてもらっても大丈夫です!」

「……それはホットミルクと言いますね」

「ホットミルクはだいすきです!」


 お昼にフレンチトーストでも作ろうと思っていたのだけれど……まあ仕方がない。

 カップいっぱいのホットミルクとブラックのコーヒーを用意して、彼女とテーブルを囲んだ。


 ここに住んで以来、そういえば初めての来客だ。

 目元を緩めてミルクを飲む彼女はまるで女児みたいで、つい気持ちも緩む。


「それで、どうしてハーピーのあなたがあんなところで泣いていたのでしょうか」

「ふぐ……」


 分かりやすく顔をしかめる。

 ハーピーたちの住むところは近くとも山ひとつは向こうだ。

 迷子にしたって大げさすぎた。


「…………家出、です」


 家出をしてきたんです。

 そう涙ながらに語る彼女に、どうやら厄介ごとを拾ってしまったようだと思った。


 泣く泣く話す彼女の言葉をまとめると―――


 彼女はハーピー仲間にいじめられていて、それで住処を飛び出してきたのだとか。


「わたし、人前で歌えないし……それになんでかお友達を怒らせちゃうことが多くて……」


 だから嫌われているのだ―――とのこと。

 正直その理由には納得してしまうところがある。


 けれど……


「それなら、しばらくウチで面倒を見ましょう」

「え!? いいんですか!?」

「ええ。羽を広げるには、狭いところですが」

「そんなぁ! とっても嬉しいです! 住めば都って言いますから!」

「……そうですね」


 ああきっとこれに含みを感じる私が悪いんだろうなと、泣くほど喜ぶ彼女に私はそう思った。


 心地いい同居にならなさそうな気はしたけれど。

 でも、人前で歌えないとそう言う彼女に……なんとなく、そうほんの少しだけ、同情してしまったんだ。


 もう捨てたはずの感傷が、めくられた布の下に、ほんの少しだけ、残っていたから……きっと、それだけ。


 ともかく。

 そうして、泣き虫な彼女は私の家に居候することになった。


 ◆


 ざあざあと激しい雨音に目が冴える。

 じくじくと疼く額を抑えながら眺める窓に、ぽつぽつと雨粒がはじけていた。


「……」


 しばらくぼぅ、としていると雨音は気にならなくなる。

 私はソファを降りて、朝の支度を始めた。


「おはよう」


 暖炉の灰から顔を出す火精霊サラマンダーに薪を譲ると、トカゲの炎がそれを餌にして肥大する。

 水がめの水精霊ウィンディーネに花を挿すと、私の姿をまねた水の化身がきれいな水を鍋にくれる。

 開いた窓から飛び込んでくる風精霊シルフの運ぶ空の空気……どうやら今日も、一日ずっと雨らしい。


「―――……うむぉ」


 サラマンダーに借りた炎で朝ごはんを用意しているとベッドの上の羽毛がうごめく。

 ごろん、どてん「ふぎぅ」と落下したエルフィはもぞもぞと起き上がり、泣きじゃくりながらウィンディーネの水がめに翼を突っ込もうとして「ぱひぃ!?」水鉄砲を食らう。


「……水が欲しいのなら挨拶くらいはしなさい」

「ふぇ……ごべんなざいぃ……」


 えぐえぐと顔を拭いつつ、よろよろと暖炉の前に座り込んだ彼女が無遠慮に突き出した顔面を炎があぶって、悲鳴とともにすってんころりん。

 舞い散る羽毛が風に巻かれて、サラマンダーの餌になる。


「おはようございます、エルフィさん」

「おはよぉございますぅ……」


 ぐずぐずえぐえぐ。

 また朝から騒がしいことだ。

 もうあまり感情は湧かない……呆れくらいだ。


 彼女がここに住んで以降、いつもこういう感じだった。

 エルフィは見事に精霊にまで嫌われている。

 ひどいことはしないようにと言い含めてはいるけれど、なにせ素直な精霊たちは、ちょっとイヤなことがあると反撃しないではいられない。


「顔も洗えたようですし、朝食ができるまで座ってお待ちになって」

「はひぃ……」


 よろよろと席に着いた彼女ははふぅと吐息して、のんびりと翼の毛づくろいを始めた。


 能天気なことだとつい苦笑してしまう。

 いじめを苦にして家出をしてきた割には、彼女はずいぶんとのんびり屋だ。


「ッ」


 ―――雨音がする。


 ざぁざぁと。

 耳障りな雨音が。


 手を止めて息をひそめる。

 雨音は止まない、止まない―――


「~♪」


 ふと、声がした。

 キレイな声だった。

 その声は雨音を透き通って私の鼓膜を揺らす。


 ハッとして振り向くと、エルフィが毛づくろいしながら鼻歌を奏でている。

 美しい声だった。


 呆然と聞き入る。

 薪の爆ぜる音も、水の揺れる音も、風の流れる音もしない。精霊たちさえも聞き入るほどに、それはどうしようもなく美しい―――歌、だった。


「~~♪ 、あ、うぅ……」


 途切れる。

 見つめる私に気がついた彼女は翼に隠れてしまう。


「……今の、は」

「ご、ごめんなさい……お耳汚しを……」

「お耳汚しだなんて。どうしてそんな……」

「だって、友達はみんなそう言うんです……わたしの歌なんて聞きたくないって……耳障りだって……」


 ああ、そんなはずがあるものか。


 もしあるのならそれは―――嫉妬だ。


 歌に誇りを持つハーピーたちにだってこんな歌声そうはない。ああきっとたまらなく耳障りだろう、こんな歌声を聞いてしまえば、自分の喉から出る雑音なんて。


 だから排斥した、虐げた。

 人前で歌えなくなるほどにだ―――むごすぎる。


 そんなことを、許していいはずがないのに。


「な、泣いているんですか……?」


 おろおろとする彼女がどうして泣いていないのか分からない。

 それとももう、このための涙は枯れてしまったのだろうか。


 あなたの音を想って流す、涙は。


「ずっと……ここにいなさい。ずっと、ずっと」


 抱きしめる。

 世界からあの美しき音を奪おうとした醜悪な鳥頭どもに、どうしてこの子を返してやるものか。


「え、えぅぅ……」


 ◆


 私が彼女の声を知ってからも、変わることなく日々は続いていた。

 歌えないとそう言う彼女を無理に歌わせようとは思わない。私の元にいれば傷が癒えると図に乗っているわけでもない。


 ただただ帰したくなかった。


 そういう決意だった。


「~♪」


 けれど彼女はさほど気にした様子もなく、追い出されないならまあいいかと、のんきに今日も毛づくろい。

 振り返るとやめてしまうから、それを背後に私は今日も朝食を作っていた。


 人前で歌えない彼女は、だけど気を抜けばつい鼻歌を歌ってしまう、そういう生粋のハーピーらしい。

 自分の住処にさほど興味がないのもそうだ。

 集まって暮らしていた集落が、次の年にはなくなっている。そんなことさえあるらしい。


 この歌声もだから、明日にでもふらりとなくなってしまうかもしれない―――


「……ご飯、できましたよ」

「はぁ~い♪」


 歌の名残で声が弾んでいる。

 うきうきと目を輝かせる彼女は……まだしばらくは、きっとここにいてくれるだろう。


「んふぅ♪ おいひぃーです!」


 彼女と食卓を囲むのにもずいぶんと慣れた。

 粥のように飲めるもの、それとも肉のようについばみやすいもの、そういうものをハーピーは好む。


「―――それにしても、ずぅっと雨ですね」


 彼女は窓の外を見てどこか憂鬱そうに呟く。

 雨音は止まない。


「ここは年中雨季ですから。気流の影響だそうです」

「どうしてこんなとこに住んでるんですか? 雨って濡れちゃうし冷たいしイヤじゃないですか?」

「……雨音は、キライではないので」

「へぇー。変わってますねーエリーさん」


 雨音。

 ざぁざぁと。

 そう、雨音。雨音。これは、雨音。

 ……少しずつ、気にならなくなる。


「……でもたしかにいいかもしれませんね、雨の音」


 彼女は目を閉じて耳を澄ます。

 雨音。

 リズミカルに窓を叩く。楽し気に屋根に弾ける。軒先で風がハミングする。はやしたてるように薪が爆ぜる。

 カエルの声はギロギロと、虫たちの声はそよそよと。


「―――♪」


 そして歌。

 エルフィの歌。

 それがこの自然の音たちを音楽に変える。

 聞いたこともない歌だ。だけどその不確かなリズムが自由な自然と寄り添って聞こえる。

 まるで彼女の歌の方に、世界が合わせているように。


 ここにあるのは全部、全部、美しい音楽だ。


 ―――私はたまらなくなって逃げ出した。


 音から。

 歌から。

 音楽から。


 ああ、ああ、雨音に包まれている。

 雨は激しさを増す。

 つんざくように脳の奥にまで降りしきる。

 歌はもう聞えない、だって家を飛び出して、雨に包まれているから。ここに音楽はない、ない、ないッ!


「エリー、さん……?」

「……」

「か、風邪ひいちゃいますよ」


 若草色に包まれる。

 彼女からは雨の匂いがした。

 雨音は止まない。


「■■■」


 私の声は雨音にさえぎられて、自分にさえも聞こえない。

 雨音。

 私に降りしきる冷たい音。


 ざあざあと。


 止まない。


 ◆


 私はピアノの前に座っていた。頭に布をかぶって。

 彼女は食卓に座っていた。ぼうぜんと目を見開いて。


「みみ、が……」

「ええ……まったく聞こえないわけでは、ないのだけれど」


 あるときから私の耳元で降るようになったそれ。


 それは私から音楽を奪った。

 弦も、管も、喉も、どんな音もたちまちかき消してしまう。自分の声も、私の弾くピアノも、なにもかも。


「いつそうなるのか分からない。だけどかならずそうなる。……それを認めたくないから、私はこんなところに住んでいるの」


 それは雨音によく似ている。

 ここならそれを雨音と呼べる。


 彼女の同情の視線が痛くて背を向けた。

 そんなものは欲しくなかった。

 私を哀れな元ピアニストになんかして欲しくなかった。

 ここは雨音がうるさすぎるから―――だから。だから。


「ぁ」


 包まれる。

 ほんの少し湿った、若草色。


「……どうして、泣いているの?」

「あなたが泣いていないから」


 彼女は歌う。

 鼻づまって、しゃくりあげながら。


 私はそっと、ピアノを包む布の下から鍵盤に触れる。


 聞きなれた白の音、黒を重ねて、指遊ぶ。

 音が並べばそれはもう音楽になる。

 彼女の歌と、私のピアノ。


 雨音は聞こえない。


 不思議と恐怖はなかった。

 この歌をかき消せる雨などきっとこの世にはない。

 そう思った。


 高らかに歌声が響く。


 雨雲の向こうから、光の筋が下りている。


 ◆


 歌が終わって。

 私たちは深い、深い余韻に浸っていた。

 頬に触れる彼女の頬。

 あたたかくて、ほんの少しだけ汗ばんでいる。


「あなたの歌って、ステキよ」

「えへへ……エリーさんのピアノも。とっても」


 胸の奥に熱が宿っている。

 自分の中だけではとても収まらない熱を、分けあえる相手はただひとりだけだった。


 それは彼女も同じようで、意識しないままに、吐息が近づいて。


「いやぁー、とってもいいもの聞かせてもらったよ!」

「ひぇ?!」

「きゃあ!?」


 突然飛び込んできた声に抱き合って振り向くと、タキシードを着た人物が扉にもたれかかっていた。


「じゃましちゃってごめんよう、ボクってやつはきれいな音には耳がないんだ」


 そう言って笑う彼女には―――それはそれは見事な、あかがね色の翼があった。

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