愛知らず
※なんだか続き物の第一話っぽくなってしまいましたが、短編です。
―――
「そんなにも要らないと言うのなら、私が貰ってもいいでしょう?」
そんな、まるで弁当のおかずでもやりとりしてるみたいなひどく簡単な言葉でわたしは『彼女のモノ』になった。
頭の先からつま先まで。
そしてなによりこの血液の、ただ
だからこの腕を伝い滴るドス黒い血の名残さえ、彼女の赤い、赤い舌が念入りに舐り取っていく。
傷口に沿う舌。
鈍く骨に染みるような痛みがくすぐられ、ムズがるうちに新しい傷は消えていた。
彼女の唾液にはそういう効果がある。
吸血鬼を祖先に持つという彼女の、特別のひとつだった。
「……ごちそうさま」
律儀に言って口元をハンカチで拭う。
純白レースのハンカチがほんの少しだけ赤く染まる。
「もうおしまい?」
「ええ。なにか?」
「べつに。どうでも」
唾液に濡れた手首をスカートで拭おうとしたら手を取られて、新しいハンカチで拭き取られる。
道具のお手入れも持ち主の役割っていうわけだ。
「……」
拭いた後も彼女は手を離さない。
じっと、傷跡を見下ろしている。
細い指先が触れて、じくりと、疼くように痛む。
「これは、いつか消えるのでしょうか」
「さあね」
これ。
彼女のモノになる前から、傷ついてきた私の手首。
がさがさの皮膚に、青白いような、横線。
きっと死んで、焼き尽くされて灰になるまで、消えない。
べつに深い理由なんてなかった。
きっとそのとき縄があったのならこれらは首にあっただろう。そんなものだ。
「ねえ。血っておいしいの?」
彼女の腕に抱かれながらなんとなく聞いてみる。
私は彼女のモノだからされるがままなのだ。
「そう、ですね……どうでしょう。あまり、味を気にしたことはないので」
「じゃあなんでこんなことするの?」
「……あなたが、意味もなく自分を傷つけるから」
「意味があれば、いいんだ」
意味なんてなかった自傷癖。
そこに彼女はおやつという意味を与えた。
勝手にやるのは許さないけれど、このときだけは、と。
私は彼女の腕の中で手首を切って血を捧げる。
牙が退化し、吸血という行為から離れて久しい彼女の、ささやかな吸血衝動を満たす。
そういう約束だ。
「いいなどとは、思っていませんよ……」
彼女の指が、私の肌を切った刃物を、そこに付着する血を、さらう。
「っ」
その拍子に切れた彼女の指から流れ出る赤が、私の赤と混ざった。
そのとたんさらりと溶けて、こぼれ落ちる。
異物同士の混ざり合い。
へぇ、こうなるんだ。
「……あなたこそ、痛くはないのですか。苦しくはないのですか。辛くは……ないのですか?」
「なにが?」
「だって……こんな風に」
「べつに。不幸な身の上もイジメられてたりもないよ。あなたは知らないかもしれないけど」
彼女が転校してきたのは数か月前だった。
このきっと世界に愛されているはずの美しい吸血鬼は、私の隣の席で、よくクラスの一軍女子に囲まれていた。
私はもちろん眼中になんてない。
地味で目立たず、適度に同調する、そんなどこにでもいるただの人。
「じゃあ、どうして……」
「深い理由なんてないよ。なんかしてみたくなっただけ。ほらあるでしょ、思春期だよ、思春期」
嘘じゃない。
きっかけは、そうだった。
そこに縄があれば首を吊った。
深い理由はなかった。
だけど続けるのは、痛みがくれるものを知ったから。
ずっと不鮮明で、ぼやけて、ゆがんで、みにくくて、そのせいでガンガンと頭痛がする、この視界。
メガネなんかじゃ矯正できないゆがみだ。
それが、痛みによって思考が弾けるその瞬間、どこまでも鮮明にさえわたって見えた。
だから続けている。
痛む額を揉む私を抱く力を、彼女は強くする。
「あなたは……自分のことを、大切にできないのですね」
「大切ってそんな、絶滅危惧種でもあるまいし」
どこを見回しても歩いているような、そんなありふれたただの人間だ。
特別なことなんてなにもない。
大切にするほどの価値もない。
私が死んだって朝は来る。
だったらこんな身体、どう扱ったっていいじゃないか。
「そしてきっと……そんなあなたを大切にしてくれる人も、いなかったのですね」
「ああそうだね、みんなに好かれる特別なあなたとはちがって」
なんて。
思ってもみないこと―――ではないけど、ただ傷つけてやろうと思って言っただけだった。
そうしたら彼女は、私の想像よりもずっと痛がって。
勝手に人を哀れんでいるくせに。
どれだけわがままなんだろう、こいつは。
恵まれた者の傲慢だ。
きっとバラ色の世界を見ているに違いない。
この世界には美しく、やさしいものしかなかったんだろう。だから私みたいな、みにくくて、傷ついて見えるような生き物が目障りなんだ。
だけどあなたの口づけじゃどうにもならないことはいくらだってある。
そんなことを、高校生にもなって説教してやろうとはとても思わなかった。
勝手に手を伸ばしたんだ、かってに傷ついていればいい。
「悲しい人……」
呟きが首筋に触れる。
ぞわぞわと産毛が逆立つような困惑。
人の吐息が、こんなにも近いのは初めてだった。
「ねえ。もしも……もしもあなたが私だったら、こんなことはもう、しませんか?」
「は?」
「あなたの言う特別を、もしあなたが持っていたのなら。……そうしたらあなたは、あなたを大切にできますか?」
「さあね。まあ人生はイージーモードになるんじゃない」
吸血鬼。
その血も今や薄く、こうして太陽の光が差し込む部屋の中でも当たり前のように生活できる。
違うのは、入院しててもおかしくないほど蒼白の肢体とは裏腹に、病気やケガとは縁遠い肉体を持っていること。
血液というものに飢えを感じるのも、ちょっとしおっからいもの食べたいな、とか、その程度の薄い欲求らしい。
もちろん、招かれなくとも家にだって入れる。
吸血鬼のいいとこどり、まったく都合がいい。
特別で、恵まれている、バラ色の人生。
ああ、でも。
傍におまえがいるんなら、きっと。
けっきょく私は、特別でもなんでもないんだろうけど。
と。
自嘲なのか、それとも皮肉なのか、自分でもよく分からないことを考えていると。
ふいに。
きらりと。
あれ。
コイツの牙って、こんなに長かったっけ―――
「っ、あ」
痛みが首筋に突き刺さる。
視界が明滅する、世界が鮮やかにきらめく。
噛まれている。
噛まれている―――吸血鬼に。
「っめろよッ」
振り払おうともがくことさえできない。
がっちりと抱きしめられた身体は微動だにできない。
視界の端にバラ色が触れる。
燃えている。
彼女が。
日の光にさえ、妬かれて。
「お、まえ、」
なんで、とか、なにを、とか。
疑問の言葉を探す舌がただ凍り付いた空気を泳ぐ。
寒い、痛い、冷たい、熱い―――ああ、死ぬのか。
は?
し、ぬ……?
「ひっ、いやだっ、やめろっ、やめろよぉお……!」
いやだいやだいやだいやだいやだ!
死にたくない、死にたくない!
なんでこんな、おまえなんかに、どうして、だって、そんなはずない、そんなはずない!
違うこんなの間違いで、だって、だってまだ、こんな、
「ゆっ、ゆるして、も、ヤなこと言わないからっ、なんでもする、なんでもするからっ、やだっ、やだぁああああああああああ!」
ああ、ああ、ああ!
痛い、辛い、苦しい、さむい、さむいさむいさむい!
死んでしまう、死んでしまう、死んでしまう―――どうして。私がなにか悪いことをしたのか。私はただ生きていただけじゃないか。なんなんだよ、なんなんだよ、なんなんだよ。
ああ、くそう、死ぬのか、私は。
ああ、ああ、ああ。
「……はは」
だとしたら。
まあ。
私の人生なんて―――よく考えたら、そんなもんか。
「……え」
牙が、離れる。
彼女は笑う。
どこまでも鮮やかに。
そして彼女の形をした灰があっけなく崩れ落ちた。
ぼうぜんとする間もなく―――灼熱。
「ぎゃあああああ!?」
身体が燃えている、轟々と音を立てて、あまりにも熱い、日の光によって。
たまらずベッドに逃げ込めば炎はあっさりと消える。
安堵と、そして未だに肌を刺す苦痛によって、私は意識を失った。
―――そして、目が覚める。
灰の山が部屋にある。
ずきずきと痛む肩。
痛みによって冴える視界に、だけど今までのような彩度はない。
夜。
明かりもついていない部屋の中で、それなのに視界は良好だった。
「、ん、で」
ぼうぜんと、言葉になりそこなう呟き。
舌に鋭利が触れる。
歯列の間に、異様に目立つ、牙。
異様。
異常。
異質。
いや―――特別、か。
ワケが分からなかった。
なにも分からなかった。
ただ、彼女は死に、私に朝はもう来ない、それだけは理解できた。
この牙がそれを教えてくれる。
彼女をなにも知らない、この牙が。
牙が。
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