オマエの死体で釣りをする
黒い波がはじけて、風に乗って頬を裂く。
寒い、寒々とした夜、波止場を歩いている。
部活で買っただぼだぼなウィンドブレーカーの両脇に、真新しいフィッシングバッグと身の丈に合わないほど大きなクーラーボックスを抱えている。
ずり、と滑り落ちそうになった肩ひもを持ち直して、ひどく重々しいため息をひとつ。
「クッソおもい……」
それは少女だった。
クーラーボックスには大層重たいものが入っているようで、えっちらおっちらやっとこさ、なんとかかんとか歩いているようなありさまである。
『へへっ、釣りする前から大漁じゃんか、ミチカ』
「なに言ってんのカザネ……」
なにも考えていなさそうな適当な言葉に、ツッコミをいれることさえ面倒くさかった。
けれど言葉の軽々しさも当然のことかもしれない。
なにせミチカのかたわらにふよふよ浮いているその軽薄そうな少女には足がないのだ。
わかりやすく霊的なやつである。
「はぁーダルっ……もうこのあたりでいっか」
『ほほん、お目が高い。いい潮が来てんよー』
「知らないくせに」
まあそれは自分もか、とまたため息。
釣りなんてしたこともない素人だ。夜の海に、一番目立たないのが釣り人だとそう思っただけのこと。
「あぁクソ重かった」
ミチカは両脇の重荷を置いて軽くなった肩を回した。
いまだに気は重いが、来てしまったからにはやるほかない。バッグを開いて、ピカピカのルアーを説明書片手に―――
「あ」
『ほっ』
波風にさらわれる説明書、ひとっ飛びにキャッチしようとしたカザネはもちろん幽霊なので触れられない。
ぽちょん、と情けない音を立てて夜に浮かんだ紙の船は、ひとつ大きな波がきて、あっさり飲まれて消えてしまう。
「……サイアク」
『ま伸ばして糸付けたらカンペキいけるしょ』
へらへら笑う彼女にまたひとつ。
仕方ないからYouTubeを参考にして、見よう見まねで組み立てたルアーの先端でウキが揺れるころには、一時間弱も経っていた。
『てかなんで釣り?』
「疑われないかなって」
『はぁー、犯人みてーね』
そりゃまあ。
「だって犯人だし」
なに言ってるんだと見上げる。
軽薄に笑うカザネは、分かっているのかいないのか。
……分かっていないのかもしれない。
まあいいか、と立ち上がる。
クーラーボックスを抱えて、真っ暗闇の海の中に、思い切りその中身をぶちまけ……ようとして、ボックスもろとも投げ込んでしまった。
「あーあ」
『ひゅう、大盤振る舞いじゃん』
広がる。
ぐちゃぐちゃで、血生臭く、液体と物体のどちらもが混ざったもの。
粉々にした肉の破片。
撒き餌。それともあるいは、死体遺棄。
それはカザネの死体だった。
おかげでミキサーがぶち壊れた。
『釣れるかねー』
「魚も喰わないよ。こんな腐ったカスみたいなのじゃ」
『あひゃははひっでぇー』
吐き捨てたのにゲラゲラ笑う。
自分のことも、きっと他人のことだってどうでもいい。
軽薄で白々しく、全部を全部笑うだけ。
そういうクズなのだ、カザネは。
どうしてこんなヤツに……
それを思えばため息はとめどない。
かつての自分にはからっぽの白熱球が太陽に見えた。
バカバカしい話だ。
『あ、そだ。ため息ってシアワセ逃げるらしーじゃん』
「だれのせいだよ」
『んぁー、え、ウチ?』
「……」
へらへら笑って自分を指す彼女を無視してルアーを振る。
飛んでいったウキと、なぜかカザネまで一緒に血の海に沈んだ。
「なにしてんの」
『え、おもろいかなって』
「死ねよ」
『あひゃははは!』
ああダメだ、死んでもウザい。
ミチカは舌を打った。
むしろ肉体を捨て去った分軽薄さも増していそうだ。
なにせ自分を殺した相手の傍にいるのだから。
それとも幽霊というのはそういうものなのだろうか。
もしそうなのだとしたら……うっかり彼女を殺したことを、さて後悔すべきなのか―――
「……」
波とたわむれるかのようにふらふらと浮くカザネとウキを、ミチカは静かに睨みつける。
まるでカザネを釣ろうとしているような気分だった。
カザネなら餌と勘違いして針を喰ったってさほど驚かない。なにも考えていないから、ほいほいと食いつくに違いないのだ。
ああそうとも、ただ何も考えていなかっただけ。
分かってはいたんだ。
だけど許せなかった。
だって、先に食いついたのは私の針だったはずなのに。
―――ぽちゃん。
「!」
『お』
ウキが沈む。
まさかかかるとは思っていなかったミチカは、半分パニックになりながらとっさにルアーを思い切り引っ張って。
「あ」
そこで初めてミチカは、糸が勝手に伸びていかないことに気がついた。だからあまりにも重い手ごたえに、こらえきれずにつんのめる。
少女の身体は簡単に夜に投げ出されて。
ゆっくりと迫る暗闇。
波立つ黒。
ぷくぷくと赤い泡。
細切れの。
目を見開いたマヌケ面が水面にある。
引き延ばされた声。
聞き取れない。
どうせ笑い声だろう。
透明の釣り糸が伸びている。
鏡のような海に映るルアー。
水面の向こうから釣り糸を垂らしているみたいで。
ああ。
どっちが釣られているんだか。
『ミチカッ!』
◆
『あひゃはは! おはろー』
たぶん世界一聞きたくないモーニングコールにミチカは顔をしかめる。
まだいるのかよ、コイツ。
それとも自分が死んだのか?
そう思って自分の足を動かしてみると、毛布が重くて億劫だった。どうやら死んではいないらしい。
『なんかぐーぜん釣りしてたオッサンがいたんだってさー。ラッキーじゃんね』
「そぉだね」
へらへら笑うカザネへと適当に頷いて、ミチカはけだるい身体を布団に沈めた。
ぼんやりと、水に落ちていくときのことを思い出す。
水面から伸びる釣り糸。
魚を釣ろうとして逆に釣られるような滑稽。
あのときのカザネの表情―――どうしてだろう、思い出せない。どうせ笑っていたはずなのに。
「……ねえ」
『どした?』
「逃した魚は、大きかったと思う?」
『んおー。そりゃあもぉヤバいって。ありゃジョーズだったってほとんど。いやよく食われなかったよなぁージッサイ』
「そ。……残念だったね」
『まったくだなァ、あんだけありゃフカヒレ取り放題だったってのに』
「ぷふっ」
ミチカはうっかり噴き出した。
もちろんカザネはいつも通り笑っている。
まあ、釣られなかったのなら仕方がない。
そんなことよりも―――
「さて、どう言い訳しようかな」
自分を見つけてくれたというその第一発見者のオッサンのせいで、きっと自分は少女惨殺事件の容疑者になっていることだろう。
「オマエの死体で釣りしてたなんて、言い訳にもなってないよなぁ……」
『あひゃははは! そーじゃんやべーじゃん!』
カザネは笑う。
軽々しく、軽薄に、白々しくも、笑うだけ。
言い訳になんてなるはずもない。
そんなカスで釣れるような愚かでどうしようもない魚なんて、きっとこの世界には一匹いたらいい方だろう。
ああまったく。
そんなこと、試すまでもなく分かったのに。
またひとつ、ミチカは特大のため息を吐いた。
それはたぶんずっと、自分のせいだった。
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