透明から彩色への道しるべ

伽噺家A

透明から彩色への道しるべ(1話完結)

 平々凡々な暮らしとはいえ彩に富んでいる。

そんなことを思えるようになるまでの物語。


 朝起きて仕事に行き、帰ってきて寝る。こんな繰り返しの日常に何があるというのだろうか。

幼いころは自分は特別になれると思っていた。テレビで見るような人や、何かの一流として活躍している人になると妄信していた。子どもなんかそんなもんだし、みんなそうだと思う。その後、ほとんどの人は、成長する過程で現実を知り、ダメな自分を認め、それでもいいところを探し、等身大の恋愛をし、人並みの家庭を持ち、家族と親しい友人に囲まれて小さいながらも幸福を感じて生きていくだろう。

 でも私の現実はもっともっと下の位置にいた。人気者にいじられることもない小学校生活をおくり、可もなく不可もない中学校生活、志望校から一つランクを下げた高校で青春を見ている側として過ごし、家と学校の往復の大学生活、何十社と受けた会社の中で一社だけ寒くなるころに必要としてくれ、そんな会社でも誰でもできる仕事をこなすだけで一日となる。そんな私は、特別な人が遥かてっぺんにいるピラミッドの一番下の一番人が多いところ、そこでこの国の人口と税収を支えるだけの、よくあるどこにでもいる一個人となった。

 みんなこんなもんだ、私より年収が下の人もいる、と慰め、それに慣れ、繰り返しの日常をおくる。人生の成功も、正解も、答えも、努力の方向もなかった。


 本が好きだった。小学校の時からどんな時でも本を読んだ。余命宣告された彼女の幸せを願う彼氏、邪悪な魔導士から世界を救う魔法使い、難解な殺人事件を推理力と行動力で鮮やかに解決する探偵、幕末の乱世を鮮やかに生き抜いた志士、むつかしいクラスをまとめ尊敬される教師、愛と幸せを教えてくれる猫、難解な手術を世界で一人だけできる医師、起死回生のホームランを打つ野球選手、挙げればきりがないが、読むだけで特別な体験をする主人公と自分を重ねる幸福な時間だった。色とりどりの鉱物が載る図鑑や、未だ見ぬ世界を平面に表現する地図なんかも見ていてうっとりしてしまう。

 いつだって作家は私の特別だった。


 ある寒い日。

 街も、人も寒色に染まり、私は枯葉の絨毯の上を歩いていた。出張先で一仕事終えて歩いていると、寂しそうなカラフルな絨毯が私を招き入れてきた。誰もいない公園を歩いていると気が安らいだ。入り口から並木になっている公園だった。葉の落ちた木と木の間を一人歩きながら何も考えなかった。

 並木を抜けると目の前は開け、鮮やかで煌びやかな金色で黄色のイエローをまとった大きなイチョウの木が現れた。


 目を奪われた。


 無色透明の自分に、イチョウは眩しく荘厳だった。何分佇んだだろう。美しさに目を奪われ、動くことができなかった。近くを散歩する人が通り、我に返るまで。ここは私とイチョウだけの世界ではないと。

 私のようなものが近くにいると迷惑だと思わないでほしいと願いながら、イチョウの傍らのベンチに腰を下ろした。抜群。他を圧倒的に寄せ付けず輝かしいまでの色彩を放っている。素敵なんて言葉では表現できなかった。世界の中で唯一色がついているものがこのイチョウだけであるかのように。


 その帰り、少し高級なペンと真っ白のノートを買い、ホテルで私も誰かの特別になれたらいいなと思い、文字で文章を編んだ。ずっと、ずっと書き続けた。うまくなかったが、一生懸命に書いた。初めて書いたのは稚拙で単純な物語。決して美しくなかったが薄っすら仄かに光輝いて見えた。ふと外を見ると空が白んでいた。雲一つない空に大きくない鳥が羽ばたいていた。


 それからは自宅に帰ってから、時間があるときにはノートに向かい合った。別にほかにやることがないのだから、ひとしきり呆けたらノートを開いた。私は私のリズムでノートを開き、ノートはいろいろの物語でいっぱいになった。こんなことは人生で初めてだった。勉強も、部活動も、仕事も、友情も、人並み以下の自分には相応だという努力だけを重ねたものだから、こんなに主体的に活動をした自分の変化に嬉しくなった。


 私は誰の特別でない。これから先、一生なれないかもしれないし、小さい私を見つけるような人が特別にしてくれるかもしれない。もしかしたら何かの拍子にノートを開くことがなくなるかもしれない。でも、今はこのノートが私を頑張らせてくれる。


 この頑張る時間こそが彩であり、誰かの特別になりたいと思うことが、私自身の特別なのだろう。

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