プルーストかく語りき

押田桧凪

第1話

「来た時よりも美しく」を体現するような人だった。理人りひとは匂いに人一倍敏感で、食べたスナック菓子の残りカスが一片でも洋服に付いていると、目ざとくそれを見つけては保護者のように俺に注意するところがあった。陰では「麻薬探知犬」と呼ばれていた。たぶん、良い意味で。


 だから、あだ名はトイレじゃなかった。もし「先生、トイレ」と言われでもしたら「先生はトイレじゃありません」と諭すのではなく「それは洋式? それとも和式かな?」と穏やかに答えるような人だった。


 理人はやさしくついばむように俺の指を口に含んで、時間をかけて湿らせる。ポッキーゲームとは名ばかりでそれは前戯にすぎない、と言ったのは誰だろうか。チョコのついた俺の指先を口で掃除するまでが一セットで、マウスウォシュレットと言うとトイレ……いや、理人に失礼だろうか。お菓子はじゃがりこで代用する時もあった。


 枝垂れ柳を思わせる視界を遮るようにかかった黒髪は、カラスのそれに近い色のようで、けれど濡羽色と呼ぶには幼かった。というのも、生ごみに首を埋めてつつくような「潔癖」とかけ離れた言葉で理人を形容することは当然間違いで、彼には体臭というものが存在しないからだった。


「シャンプーのにおいが消えないうちに、俺を覚えて帰ってね」


 自ら身に纏った香りさえも打ち消してしまう理人の体質は、まさにトイレに置いてある消臭ビーズの生まれ変わりかと思うくらい一緒にいても、個を感じる瞬間がえてして少ない生き物だった。


 だから、お風呂上がりにつむじの匂いを嗅いで、生乾きの長い髪をくしゃくしゃにして、キスしてしまいそうなくらいの距離まで顔を近づけて、やっとのことで理人を覚える。毛量の多い、そのサラサラした髪の間に指を通して毛先を伸ばす。石鹸と金木犀が混じったような匂いだった。


 理人はこれまで付き合ってきた彼女が香水をプレゼントする意味を知っていて、けれどどの匂いにも属さない理人だけが特別だった。縄張り意識が強い人たちだった、と理人は笑った。


「リードを付けるように携帯で位置情報を把握したり、自分好みの香水で犬みたいにマーキングしたりしないと気が済まなかったんだろうね。俺からすればそんなの全部、偽物なんだけど」


 人間も元をただせば、他の哺乳類と同様に匂いで個体を識別する種だった訳で。体臭を嫌うようになってからは、すっかり視覚優位になっちゃったからさ。匂いなんて所詮まやかしで、俺だけを見て好きになってくれる人が欲しかった、と付け加える。


「だって本当に俺が犬だったら、そこに肉があってもラップで包んで匂いを遮断すれば、食欲は湧かないだろうし。でもそんなことはなくて、」


 理人が一瞬、言い淀んだタイミングで言葉を継ぐように俺は口を開く。


「それを一目惚れって言うのかな。俺が理人を好きになったのは、勿論、その黒い髪と、目と、鼻と、全部だったから」


 俺も、と理人が口の動きだけで示したのが見えた。目を瞑って「う」を発声する唇の形で「お」と言ったのはキスして欲しかったからだと、俺は遅れて気づく。


 マドレーヌを紅茶に浸して食べた時に幼い頃の記憶をふと思い出すように、理人は懐かしく目を細めて、頬を赤らめた。

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