18 神官と魔王

 地獄のようだった。いや、まさしく地上が地獄と化していた。


 太陽のエナジーが無限だとはいっても、魔王の体力もまた無限に近いように感じられた。俺の体格の三倍以上はある魔王が不吉な翼を広げて滞空するのを見上げている今も、治癒魔法を自分に流し続けなければならない。これをやめれば、全身が焼けてしまうだろう。戦いが長引いている。辺りは焼け野原だ。日没までに決着をつけなくては、完全に負ける。


 この惑星には、いくつかの文明が存在した。太陽のエナジーを都市運営や生活はもとより、文化的かつ学究的な面にも活用するエリオースもその一つだ。しかし、三十年ほど前、北方の都市で賢者と呼ばれていた研究者の一団が時空の扉(ゲート)を開くという愚行を犯し、文明のいくつかは崩壊した。ゲートから出現する魔物は徐々に強力なものとなり、今や魔王リリウとその眷属によってエリオースは瀕死の状態に陥っていた。


 ここにおいて、神殿は魔王との対決を避け、神官の神聖結界による防衛線を張る決定を下した。強力な結界に身を投じる間、もはや人としての営みは望めない。ただの導管となる。


 俺はこの決定に反対だった。俺の家は神官の家系で、母を除き、父も妹も神官だ。自分が犠牲になることについて文句はないが、一か八かの引き篭もり作戦のために妹を犠牲にすることなど承服できなかった。俺はかつて存在しなかった攻撃魔法や召喚魔法の数々を考案した。


〈太陽の槍〉


〈蒼き太陽の槍〉


〈灼熱の炎球〉


〈炎の守護壁〉


〈陽炎の嵐〉


〈灼熱の嵐〉


〈完全なる焼却〉


〈真髄からの爆発〉


〈プロミネンス召喚〉


 全ての神官が戦う神官となる。そして、俺自身が聖別された器となり、リリウを封印する。結界で時間稼ぎをしている間に他都市との連携を図る神殿の案より、よほど勝算があると考えたのだが、神殿はもとより、家族の賛同すら得られなかった。


 こうして俺は、たった独りで都市の外に打って出ている。こちらは魔法を行使しなければ体格差を埋めることさえできないが、魔王は労せずして素早く移動することも、飛行することも、危険を察知することもできる。腕の一振り、足の一蹴りでもまともに食らえば、いくら治癒魔法で防御していても命が危うい。一瞬で消し飛べば、あるいは集中が途切れれば、そこで終いだからだ。


 魔王リリウ。人がましさのない、黄金色の瞳と革の翼を持つ、異次元の魔物だ。赤みがかった身体に着衣はない。だからといって、知性がないわけではない。むしろ、狡猾だ。これと会話をすることは避けねばならない。このため、畳みかけるように攻撃を続けてきたが、俺の方の限界が近い。長老が俺に忠告していた。太陽のエナジーが無限であっても、肉体がそれに耐えられるとは思えないと。


 内側から身体を焼かれるかのような激痛の後、両眼が乾き、次の瞬間、血の涙が溢れ出た。本当に時間がない。躊躇している暇はない。もはや決行するのみ。


 リリウという存在を取り込むために、一度、俺の肉体を空にしなければならない。それから、また戻って来なければならない。神殿が反対したのは、このためだ。まず、肉体を空にした時点で俺自身が死ぬかも知れない。うまくリリウを封印したとしても、その時点で器たる肉体を乗っ取られるかも知れない。乗っ取られる前に戻って来られたとしても、器の支配に失敗するかも知れない。全ての段階で失敗する確率が高すぎて、到底、容認できる封印魔法ではないと。


 失敗などするものか。


 俺は無理やり口角を上げて笑みを作った。見物人がいないのが残念だが、お披露目と行こう。俺は回路を全開にした。脳天から炎の槍で貫かれるような衝撃の後、意識が飛んだ。事前に準備しておいたいくつかの守護印など一秒も持たずに消し飛んだ。


 不思議な感覚だった。自分という存在がこの惑星にいるのに、太陽にも存在した。光そのもの、エナジーそのものがあった。もちろん、肉体を有する人とは違う存在だが、それでも確かに存在があった。太陽の表面で、それら…彼ら…我らは、円形を形作った。見覚えのある形と順番だ。神殿の、日の出の儀式の際に神官が並ぶ立ち位置と同じだ。その輪のなかに、俺はいるのであった。



 地上に降りてエリオースを築こう。



 そのような意思決定があった。肉体を持たぬ存在なので、会話が交わされたわけではない。しかし、意思は共有され、合意が持たれたのであった。


 神殿? 日の出の儀式? エリオース?


 すっかり太陽に馴染んでいた俺は、違和感を覚えた。


 今、ここは、……どこなのだ?


 疑問を抱いた瞬間、俺は地上に引き戻された。肉体の内と外を裏返しにされるような凄まじさだったが、刹那、俺はリリウの存在を掴み取ることを忘れなかった。神官のエクシオンと、魔王のリリウは渾然一体となったが、すぐにそれは、地上に降りる前の太陽人と、ゲートを潜る前の魔界人との記憶の戦いと化した。肉体など脆い。許容の限界を超える情報量に精神が崩壊する寸前のところで、魂につながれたある名前が浮かび上がった。



イーリヨス



 言語も、記憶も、何もかも剥がれ落ちても、名前だけは残った。溺れる者のようにその名前に取りすがり、死に物狂いで、俺は浮上した。忘れたことなど、かつて一度もない。それは、かけがえのない妹の名前だった。



「リー・リー!」


 名前を呼ぶ声で、俺は飛び起きた。薄く寝汗をかいている。無意識にエナジーを発散したのか、室温は高かった。サロンの脇にある休憩室を使ってよいとアデュレイに言われたので、入浴後に少し横になっていたのだった。いつの間にか眠り込んで、昔の夢まで見ていたとは。


「リー・リー! 今すぐに来ないと、僕はもう食べ始めてしまうよ。」


 ぼんやりと扉越しの声を聞きながら、そういえば、リー・リーという発音は、かつて妹を呼ぶときに使っていたイーリーという愛称に似ていると思いついた。


 結局、リリウを封じた後、都市に戻ればすでに壊滅しており、俺は絶望の底に突き落とされたのだった。怒りに任せて魔物の残党を殺し尽くした。それでも腹は癒えなかった。俺は妹を救うことができなかった。だというのに、妹は俺の魂を救ったのだ。


 今になって、その妹を想起させる愛称をこうも度々耳にするのは、どうなのだろう。痛みなのだろうか、癒しなのだろうか。


 俺はエリオースを封印し、その後、三百年近く引き篭もった。俺はエリオースの墓守となった。来る日も来る日も、神官の正装に着替えて日の出の儀式を行い、都市の跡地を歩いて死者を弔い、瓦礫を片付けた。死ぬことも、老いることも、病むこともなかった。あまりもの空虚さに言葉を忘れそうになるため、たまに神殿のサンストーンを用いた鏡台を覗き込んで、さまざまな国の人々の生活を映し出し、会話に耳を傾けることはあったが、それが外界に出ていくきっかけとなることはついぞなかった。


 なのに、あのときは、召喚に応じてしまったのだ。忌々しい魔界魔法の召喚なぞ、無視して結界の内側に引き篭もり続けることもできたのに。何だか、自分に助けを求める声が聞こえたような気がして、つい、大戦以来見向きもしなかった外の世界に出てきてしまった。


 出て来ない方が、よかったんじゃないか。


 寝椅子に腰かけた格好で、俺は俯いた。今からでも、墓守に戻った方が…、


「リー・リー!」


 ノックもなく扉が開いた。俺は驚いて、顔を上げた。


「気絶しているんじゃないだろうな。ああ、起きてはいるのだね。大丈夫かい?」


 アデュレイは室内に入ってすぐ魔法具の燭台に触れ、明かりを灯した。寝椅子に腰かける俺の前に立つと、少し腰を屈めるようにして顔を覗き込んだ。


「君に限って、体力が尽きたということはないだろうね。でも、短い間に色々なことが起きたから、もう少し休みたいかな? その場合、君の分のスペアリブも僕がいただいてしまうけれど、構わないだろうね?」


 俺は呆れ果てた。この男は、本気で俺の心配をすると同時に、温かなスペアリブの行く末も心配しているのだ。開け放したドアの向こうから、耐えがたくいい匂いが漂ってくる。オレンジソースを添えたスペアリブのほかにも、魅力的なメニューが控えているようだ。甘い玉ねぎのみじん切りが入ったコンスメスープ。チーズとトリュフをトッピングした、何かの練り物。


「行きますよ。」


 俺は立ち上がった。


「旦那が自分の涎で溺死する前に、給仕をしてさしあげないと。」


「目に見えない給仕がいるから、それは気にしなくていいんだよ。」


 アデュレイは俺の肩に手を回した。


「君には、僕といっしょに食事をしながら、会話の相手をするという重要な職務があるんだ。」


 とんでもない職務を押し付けられてしまった。


 ――しかし、まあ、やってできない仕事じゃあない。


 俺は休憩室の明かりを消して、アデュレイとともに室外に踏み出した。そして、ゆっくりとドアを閉じた。


 =完=

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魔法使い探偵アデュレイ ―ジェーン・ドウの証言― 藤原 百家 @Hyakka_Fujiwara

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