第42話 科挙についての話③

 連載中の中華怪異×バディ×謎解きもの、「子不語堂志怪録 星なき夜に影は踊る」(https://kakuyomu.jp/works/16818023214151760479)、第三章は科挙および貢院こういん(試験会場)をメインにしています。

 史実・事実を物語にどう組み込んだか、また、書き始めてから気付いた「これどうなってるんだ……?」についてどう処理したか、執筆上の苦労・工夫について語ってみます。


 なお、過去に科挙について触れた回は下記になります。


・第25話 最近読んで良かった本の話②(https://kakuyomu.jp/works/16817330651319871394/episodes/16817330656028713536

 「明史選挙志」が面白かった!! という話でした。


・第26話 科挙についての話①(https://kakuyomu.jp/works/16817330651319871394/episodes/16817330656729672790

 宮崎市定先生の「科挙 中国の試験地獄」ほか、科挙を扱った有名どころの本の紹介でした。


・第27話 科挙についての話②(https://kakuyomu.jp/works/16817330651319871394/episodes/16817330656891980589

 自作の描写に反映できそうな知見として、役者など賤業とされた人が受験不可だったこと、いっぽうでちょっと意外なことに皇族も受験可能であったことに触れました。


      * * *


 さて、「子不語堂~」の第三章のテーマは貢院こういん冤鬼えんきです。貢院とは郷試以降の科挙の試験会場、冤鬼とはうらみを抱いて死んだ人の幽霊です。


 そういえば以前の回で触れていませんでしたが、科挙の試験は三日×三回かけて行い、その間、受験生は貢院に缶詰めとなります。各自に割り当てられるのは個室──というか「机に向かって答案を広げる」だけの空間。机や椅子も板を渡しただけ、壁は石を積んだだけ、足元は土間。カンニング防止のためか、扉はなく吹きさらしで(カーテンの持ち込みは可)、雨が吹けば身をもって答案を守らなければならなかったとか。

 郷試に辿り着くだけでも相当な狭き門なのに、将来の官僚候補にこの仕打ちはなかなかひどいと思います。泊まり込みなので食糧も持ち込みで、煮炊きをする者もいたということですが、そのスキルや余裕がある受験生の割合はどれほどなのか、気になるところです。


 このように、貢院とは閉ざされた特殊な空間であり、受験生はプレッシャーと緊張にさらされるため、精神状態に異常を来たすことも当然あったようです。そこで出てくるのが因果応報の幽霊の話、となります。

 故郷で捨てた女の幽霊に祟られたり、逆に善行の報いとして「不思議な力」で答案が広げられたり。宮崎先生の「科挙」によると、貢院はいわば治外法権であるがゆえに、この世の論理ではない力が働くと考えられたようです。また、以前紹介した「科挙と女性」によると、科挙合格者の権威の高さゆえに、合格者には高潔さなどの人間性も求められたとのことなので、裏を返せば落第者には道徳的な欠陥があったのだろう、否、あったに違いない! と考える当時の人々の心理もあったのではないかと思います。


 というわけで、合格と落第、人生の明暗、悲喜こもごもが詰まった貢院を舞台に一章書いたら面白そう! という着想だったのですが、いざ書き始めてみると分からないことが多すぎでしたね!

 作中、主人公がこんなことを言っています。


「科挙の時以外の貢院がどうなっているか、そういえば気にしたことがなかったな」


 これは、はっきり言って何も分からないな! という白旗を振りながらの作者わたし自身のコメントです。(現実の話をすると、貢院はかなりの面積を持つ施設なので、貢院がある各省の首府の住人は割と日常的に目にしていたのかもしれません。いっぽうでほとんどの民には無関係の施設でもあり、どういう気持ちで眺めていたのかは気になるところです)


 科挙の試験は、三年に一回のみ。貢院で試験を行うのは、郷試と会試の段階(清代にはこの間に人数調整用のステップ・挙人覆試が入る)。試験日のほかにも前後に試験官が入ることもあるでしょうが、貢院が使用されるのは三年間でせいぜい数か月ではないかと考えられます。


 じゃあ、試験期間以外の貢院はどうなっていたの? というのが疑問その一です。


 再び宮崎先生の「科挙」によると、貢院とは常設の施設であり、三年に一度しか使わないから荒れ放題、とのことです。ならばオリンピック村のように都度建て直したりはしていないのでしょう。江南貢院など、現在も残っている建物もありますしね。

 では、広大な貢院は、科挙が終わると二年数か月に渡って放置されていたのでしょうか。現代感覚だともったいない気もするし、受験生向けの「独房」はカプセルホテルみたいな使い方もできなくはなさそうなのですが──まあ、閉鎖されていたんじゃないかなあ、というのが私の考えです。

 神聖かつ重要な科挙を行う施設に、浮浪者や野盗が入り込む事態は望ましくないでしょうし……一度入られたら追い出すのが大変そうですし。あと、事前に忍び込んで壁や床などにカンニング用の何かしらを仕込む──なんてことができてしまう余地はあってはいけないのでしょうし。


 というわけで、作品の中では「試験も終わって静寂に包まれているはずの貢院に人が集まる気配がするのは、どんな事件が起きている……!?」という流れにしてみました。




 続けて疑問その二。作中で「持病がある学生は薬の持ち込みも可」との情報を出していますが、話の都合上そのように記述したというだけで、これまで紹介した文献等で裏付けがあるわけではありません。これもまた、書きながら「どうだったのかな……」と首を捻った点です。


 とりあえず事実として文献等で確認できるのは、「貢院に入場する際の身体検査は非常に厳しい」ということです。特にカンニングに使われ得る文字が記されたものが見逃されることがないよう、饅頭を割って中を調べることさえされたとか。それを踏まえると、また、現代の受験でも机の上には不要のものは出せなかったりする感覚を併せると、「薬」は許容されるのかちょっと心配になったりします。


 とはいえ、上述のように泊まり込みでの試験で食材を持ち込んだり、場内で調理をしたりすることもあるのだから、薬が取り上げられることはなかったんじゃないかな……と結論して描写しました。スポーツならドーピングは不正になるでしょうが、ペーパーテストでドーピングによって知識や記憶の底上げはできないと思うので……せいぜいが眠気覚ましや集中アップの効果くらいでしょうか……(お気に入りのお茶を持ち込む人はいそう?)(広大な領土を持つ諸王朝のこと、各地方の地元の調味料等、馴染んだ味で乗り切るぞ! もありそう)。ちょっとした風邪や腹痛等に対処しなければならない場面もあったかもですし。というか、そういうことにしないと話が成立しないので、拙作中の王朝ではそういうことにしました。




 と、このように文献を読んでもよく分からない実際のところ、を一生懸命想像で埋めながら執筆しています、という話でした。

 東洋文庫「明史選挙志」の井上進先生の解説を再度引用すると、「それ(「明史選挙志」)によって知られるのは制度の表面的概要、いわば科挙という家の外観や間取りだけであって、その住人、そこで営まれる暮らしのことは何も分からない」とのことですが、本当にその通りですね。同時代の人々の視線・価値観・体験等を踏まえた日記小説等でもう少し踏み込めないこともないのですが、調べればもっとあるのかもしれないのですが、小説のネタにしたいな~という時にサッと参照できる範囲ではなかなか難しい。精いっぱいもっともらしく、かつ面白くなるように頑張りたいものです。



 最後に、一点、作中での嘘を開示しておきます。「子不語堂~」の作中にて「本人確認のため、受験生は数千字におよぶ(提出済の)答案の写しを記憶頼りで書き出させられる」と書いたくだりです。

 これは宮崎先生の「科挙」に「三日×三回の郷試の二回目の回答時に、一回目の答案の書き出し数句、あるいは自己の詩作(一回目の出題は詩もある)を書かせる」とあったのを誇張したものです。現代的に言うなら、試験で書いた小論文を完璧に丸暗記しなければならない、ということではないようです。それでも、試験の答案なんて提出した瞬間に忘れたい類のものですから、厄介な制度であることには変わらないですが。

 また、「明史選挙志」に、「本人が書き出した答案と、取り寄せた(採点用の)硃巻を比べたところ一致していた。この内容で不合格になるのはおかしい」という主張がされたことがある、という話があったと思うので、自分の答案を完全に記憶できるのは受験生としては標準スキルだったのかもしれません。やっぱり化物じみた才が競い合う場所ですね、怖い。

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