第4話 未来
「複数の人間が同時に外に出るなんて30年ぶりですね。外出可能時間は1時間です。10分前にアラートがなりますから、必ず戻ってきてください。それを超すと、帰還は受け入れられません」
そんなAIの音声に従い、何十もの隔離壁をくぐり抜けて僕は初めて外に出た。最後のハッチを開く時、何かの圧力を感じた。それが風だと気がついたのは、しばらく後だった。
VRではいつも擬似的に体験したことはあるけれど、僕のまとう分厚い防護服をゆらすそれは、僕が知っている風とくらべてあまりに暴力的だった。
同時に汚染された砂礫がハッチ内に入らないよう、都市の内側から強く吹き出される空気の塊に押し出されるように外に出る。カツカツと小さな砂礫がの各部にあたり、音を立てる。
恐る恐る進めば、しばらく先で分厚い防護服を来たニコルらしき人が手を上げた。自分も同じだろうけれど防護服が分厚すぎて、かろうじてそのおおよその人の形がわかる程度だ。それでもありありとわかる欠損。
ニコルは既に両腕がなく、だから妙にほっそりと縦に長い。僕は既に両足がなく、だから下半身には移動のための車輪がついていて、脚立を伸ばさない限り僕は小さく四角い。これまでニコルとの身長差なんて考えたこともなかった。これが僕とニコルの間の違い。
急いで脚立の高さをニコルの身長に合わせる間にも、強い風は吹き荒れ、世界は灰色にざらついていた。
「すごい……」
「でしょう? 来てよかった?」
「何ていっていいのかわからない」
世界にはべちょべちょと雨が降っていた。
その雨は決して、綺麗ではなかった。VRで見たような透明感も煌めきもなにもなく、おそらく地上に舞う埃を混ぜ込んだ、灰色の雨。けれどもそれが、僕らの防護服の上に直接音をたてて落ちてくる。何かの存在が、僕の周辺を、そして僕を音を立てて振動させる。そんなことは初めてだった。
そうして改めて眺めた僕の目の前には、有り体にいえば、廃墟が広がっていた。
人の大凡が外出しなくなって既に40年近く経っていた。その間に、かつては繁栄を築いた巨大なビル群や通りは色あせ灰色に朽ちて崩れながらも、未だ巨大な土塊として僕らの前にそそり立っていた。
そしてその壊れたコンクリートにも雨はべちょべちょと振りそぼり、その内側と外側の色を変えていた。
真実。
これが今の世界の真実?
ちっとも綺麗なんかじゃない。けれども美しい。
たくさんの記録VRは存在する。
けれどもそれはあくまで記録だ。不都合なものは現れない。
けれども今、僕の少し外で風がびゅうびゅう吹いている。
そういえばこの時期、北半球は強い季節風というものが吹くんだ。この風は遠い海から煙る黒く重い雲を運び雨をもたらし、遠くの山にぶつかって雨を降らせる。あの山の向こうでは乾いた風が不ているはずだ。空を見上げた、圧倒的に灰色の雲。けれどもそれが山の方にもわもわと大きく形を変えながら移動していく。あれが来た方角に、海がある。
このビルはコンクリートという素材でできていて、今はその内側の鉄筋に雨水が染み込み、その寒暖差によって膨張収縮を繰り返し、その作用によって直す者がないまま破損し雨ざらしになってている。
学校で学んだ勉強。今どき地理や物理なんて何の役に立つんだろうと思っていたけれど、それが世界の
石を拾っては投げ、何かがあればまた拾う。
草は一本も生えていない。けれどもひび割れた土に雨がたまり、泥々とかたまり、そして水たまりが作られる。
様々なものの手に触れる感触。ざらりとしていたり、つるつるしていたりするもの。それはVRと違って確かに目の前にあり、実際に僕はそれに触れている。
頭の中と世界が次々と繋がっていく不思議な感覚がした。
これは映像ではなく、ここにあるものだ。
そのもたらす圧倒的な存在感が、僕にじわりと浸透した。この世界にユフが落ちてくるまで人間がたくさんこの地上に生きて、そして金魚鉢以外の世界はユフによって現在滅びに向かっている。けれども僕らが刈に死に絶えたとしても、どこまでも世界が広がり存続し続けていくだろうと感じられるこの世界に心が震えた。
僕は思わず隣りにいたニコルの手をとろうとした。けれどもニコルに手はなかった。だから僕はニコルを抱きしめた。
ニコルは今、ここにいる。この世界と同じく、アバターではなく真実のニコルが。そして僕らを包み込むように、汚れた雨が降り落ちる。つまり、この世界が。
「セルジュ?」
「僕はここにいて、ニコルもここにいる」
「そうね」
「ニコルが言っていたことがわかったよ。僕は真実を感じてる、んだと思う」
僕の手の中にはニコルの存在が感じられた。アバターと違って温度も柔らかさも防護服で遮られている。けれども今、ニコルは実際にここにいる。僕を抱き返すことはなかったけれど、確かにここに真実のニコルが。
けれどもその時間はあっという間に過ぎ去って、時間経過を予告するアラートが鳴る。僕らが真実一緒にいられた時間も範囲も、あまりにも短い。
僕らは隣り合った部屋で隔離された。
目の前にはアバターのニコルがいるけれど、この壁の向こうには現実のニコルがいる。この距離感がもどかしい。一度手に入れた真実がもどかしい。壁一枚でも、防護服一枚でも、僕らにとてその距離は絶対的だ。決して触れ合うことはできない。真実に触れた僕にとって、VRはかえって味気なさと寂しさを倍加させた。隣にいるニコルに会いたい。
アバターを自分の姿に合わせた。世界を見た僕らにとって、互いの不完全さはすでに配慮すべき事実ではなかった。僕の視界から僕の両足が消え去った。ニコルからも両腕が消え去った。そして動きをアバターにリンクさせた。そうすると、その動きは現実の壁に隔たれてお互いのVRを行き合うことはできなくなったけれど、隣のコンパートメントで生活するニコルのそのままを感じることができた。
「僕の左腕をニコルに捧げたい」
思わず呟いたのは、未だユフの改変が少なく、人が互いの毒で死ぬ確率が低かったころに流行ったプロポーズの言葉。
「私の右足をセルジュに捧げる」
そう呟くニコルには、僕が言いたいことは全部伝わっていた。
しばらくして、結婚の申請が十数年ぶりにAIに許可された。
結婚をすれば同じ部屋に暮らすことができる。僕らは互いの友人に結婚の報告をして、明日VRで結婚式を挙げる。
普通はそこで、儀式的にお仕舞にする。けれどもその後、真実のニコルが僕の部屋に来る。
多分おそらく、その瞬間、僕らは互いの毒で死んでしまうだろう。
けれどもこの世界で真実に出会うにはそれしかなかったから。せめて君の唇に触れる時間があるといいのだけれど。
Eternal Half ~ユフの方舟 Tempp @ぷかぷか @Tempp
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