第3話 世界の姿

 VRで会うようになって2ヶ月ほど経過した時だ。

 僕とニコルは交代でそれぞれVRで背景を展開していて、ちょうどその時は僕の好きなトレドの雨の風景だった。綺麗な緑の中で、しとしとと透明な水が天空から落ちてくる。

 VRだから僕らの服が濡れたりはしないけど。

「そういえば一週間位会えなくなるんだ」

「どうして?」

「外出許可が出たの」

 少しうつむき加減のニコルに、僕は何と返していいかわからなかった。ニコルの言う外出とは、真実の外だから、だ。

「健康状態を検査して、そっから外に出て、戻ってまた検査するから。それが大抵一週間位。それが終わればまた連絡するよ。隔離されても通信とかは自由だし」

「……安全なの?」

「大丈夫だよ! っていいたいけれど……今までは安全でも、まあ安全とは言い切れないよね。外は何があるかわからないし」

「それなのに行くの?」

 思わず強くなった僕の語気に、ニコルのアバターは照れたように笑った。

「心配してくれた人は初めてだよ。信じてくれた人も多分。でも私は自分の足で散歩したいからさ。そう考えると後7年しかない。そうするともう6回くらいしか外行けないからね」

「自分の足」

「そう。30になったら自分の足で歩けなくなるから」

 そこでようやく僕は思い至った。僕は手を残すことに躊躇しなかったし、周りに足を残す人がほとんどいなかったから、気づかなかった。自分で歩くには足が2本必要だ。

 僕は絵を描いて過ごしているから、手が一本になってもそこまで困らない。義手を付ければ感覚は少し違うらしいけど、描けなくはないんだろう。けれど、自分の足で歩くこと自体を目的とするなら、足がなくなってしまっては駄目なんだ。

 朗らかに笑うニコルを止めることなんてできなかった。僕にとっては絵を描くことが人生で、それはきっと僕にとって、絵を描くなと言われるのと同じことなんだから。


 そしてそこから10日間、ニコルからの通信が途切れた。

 心配で、気が気じゃなかった。ニコルがユフに殺されてしまったんじゃないかって。予定の一週間を過ぎても連絡はなく、ひょっとして本当に死んでしまったんじゃという不安が頭の中を駆け巡った。思えば僕はその時既にニコルが好きになっていて、ニコルは僕の中で分かち難い存在になっていた。

 ニコルがいなくなるかもしれないと考えると、いてもたってもいられなかった。


 だから10日目にニコルからの通信があった時、僕は二度と外に行かないで欲しいとニコルに言いかけた。けれどもやっぱり、言えなかった。

 僕にはどうしようもないことなんだ。他人の僕にはニコルの人生に文句を言う筋合いなんて全然ない。それはわかっている。けれども僕にとってニコルは初めて、VRの中でもキラキラと輝いて見える人だった。誰かが言っていた恋というものなのかもしれない。そう思った。

 他にも連絡を取る人間は何人もいたけれど、ニコルは僕にとって特別だった。

「次の1年後は僕も一緒に行く」

 思わずそう言った一瞬、時間が止まったように感じた。

 ニコルは一瞬混乱したような表情をして、それからやっぱり混乱したように呟く。

「嬉しい。でも本当? そんなこと言ってくれる人は初めてだから」

「うん、まあそうかもね」

 自分の口から出た言葉なのに、自分でも信じられない。

「でも、なんていうか、ごめん、本当になんて言っていいかわからないけど、ニコルがいない間、心配で心臓が止まりそうだった。ニコルがいなくなるなんて考えるのが耐えられない。その、ニコルと一緒に、いたいんだ」

 驚いた顔のニコルの温かい手を取る。現実には既に存在しない手を。

 僕らがVRで会うときは仮装のアバターを使う。だいたいの人は自分の欠損を補充したアバターを使用している。直接会うことなんてないんだから、それで何も問題はない。

「真実の世界の姿」

「セルジュ?」

「僕はニコルがいない間にそれを考えていた。ニコルがいない僕の将来。それが僕には耐え難い。だから次の外出は僕も一緒に行く」

「ありがとう。嬉しい」

 ぽかんと口を空けた後のニコルの笑顔は、高層タワーのVRで見る雲間から差す一条の光のように美しかった。

 それから1年と3ヶ月の間。ニコルとは前より頻繁に交信した。というより僕らはVRでお互いの部屋をつなげて、僕の部屋にはニコルのアバターが常駐して、ニコルの部屋には僕のアバターが常駐していた。お互いの食事時を除いて。


 食事。

 それは僕らにとって特別な意味がある。

 僕らの先祖はユフ毒のワクチンを摂取し、最初期のユフの抗体を取得した。けれども不活性化したはずのユフは僕らの体に混ざるうち、僕らの体や遺伝子情報を改変させながら僕らをユフに汚染した。

 時間の経過とともにその改変は増大し、自らを汚染したユフ以外のユフが再び毒となるほどにその性質を乖離させ、かつてのワクチンもほとんど効かなくなっていた。抗原原罪というものらしい。

 この世界の全ては既にユフ毒に汚染されている。改変の結果、汚染された僕らは自らが接種できるものは、自らと同じユフ毒に汚染されたものだけになっていた。

 昔いたフグという魚が自分の毒で死なないように、僕らは自らのユフでは死なない。つまり僕ら自身が摂取可能なものはただ一つ、自分の体だけになっていた。しかもそれも恒久的ではなかった。


 今の人間の寿命は50年だ。

 自分以外が毒である以上、食べることができるのは自分だけだった。

 最初の10年は生まれる前に摂取していたもの、つまり母親の体の一部を培養したものを食べて育つ。けれども次の10年は自分の四肢のどこかを選び、切り取って培養して食べるしかなかった。細胞を生かしたまま安定して培養するには、四肢一本分程度の素材が必要だ、けれど10年経てばユフの自己改変が進み、10年前の自分ですら毒になる。10年ごとに一本ずつ新しい四肢を消費し、50になった時、培養できる新しい体がなくなって死ぬ。

 僕らの食事は死と直結しすぎて、食事時の同席は家族でない限り禁忌になっていた。


 ユフ後20年ほどはまだユフ毒の個体差は小さくて、人と人が直接顔を合わせられたらしい。けれども人のユフ差はどんどん広がり、今は生身で同席すれば、自分が呼気とともに排出するユフ毒が相手を死に至らしめる。

 それが僕らが他人と直接会わなくなった理由。

 金魚鉢の中で会うにしても簡単な防護服を着る必要がある。その現実を直視するのを忌避して、最近ではコンパートメントの中から出ずに人が多い。会うだけならVRで事足りるから。

 けれども僕はニコルに会いたかった。ニコルはわざわざ死ぬかもしれない外に行く。そんなニコルが生きているように感じたから。世界に直接触れたいニコル自身にとって、VRの僕は現実には含まれないんだろうから。

 僕はどうしても、ニコルと同じ世界に生きていたかった。


 外出の許可申請はニコルのいうように降りた。そして僕らは一緒に外に出ることにした。

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