第2話 外出

「ひょっとして、ニコルは外に行ったことがあるの?」

「あるよ? 10回くらいかな」

 その返答は、僕にはとても信じられないものだった。

「どうやって?」

「どうって、外出許可の申請をすれば普通に行けるけど」

 外出許可。ニコルは当たり前のようにいうけれど、そんなものがあるなんて思いもしなかった。僕の周りで外に出た人なんていなかったから。出ようとした人も。

 詳しく聞けば、申請して3ヶ月くらいで許可は下りるらしい。けれども外に出られるのはたった1時間ほど。そして一度外に出た後は、1年ほどは外出許可は出ず、というより1年の間、隔離される。

 何故ならユフというのは特殊な毒だからだ。


 ユフは当初は単純なウィルス毒で、病気の一種と思われていた。けれども研究の結果、ユフはウィルスというよりは生物であることが判明した。それ自体が急速に自己を改変、進化する性質を持つ。だから今も変異を続けている。

 僕らの国はユフが落下して30年経過して、ようやく完全にユフが入れないほどの高密閉な空間の作出に成功した。以降、この国は都市ごとに、通称金魚鉢と呼ばれるドーム型の壁で覆い、その中を無毒化した。そして国民一人一人に万一の避難所を兼ねて更に密閉されたコンパートメントが与えられ、その中で毒が漏れないように暮らしている。

 けれども国の外の野放しのユフが今どういう状態にあるのかわからない。金魚鉢の中に微量に滞留するユフを解析する人達はいるけれど、外にある大量のユフの解析は全くなされていないに等しい。

 それは生のユフがどのような影響を人に及ぼすかわからないからだ。

 防護服で完全に防護したとしても、ユフは極めて微細だ。万一の安全性を考えて、1年程は特別な区画に隔離され、経過観察される。

 だから、そんな恐ろしい外に出るというニコルの発言は、狂気としか思えなかった。

 けれども外ってどんな所なんだろう。初めてその時、僕をとりまく世界について興味を持った。


「ええとね、何もないけれども何でもある。全ての思い出?」

 ニコルは思い出すようにそうつぶやき、そして困ったように笑った。

「ごめん、何を言っているのか自分でもよくわかんないや。けれども私にとって外の世界っていうのは何物にも代えがたいの。記録VRとは全然違うんだ」

 ニコルの声は、少しだけ寂しそうだった。

 昔の記録VRは人気コンテンツで、僕もよく再生していた。トレド以外にも青々と広がるバルトの峻烈な森林や、その奥に聳えるアルプスの清涼な山並み。世界に飛び立つ小さな鳥や清涼な小川のせせらぎ、その川を下ってどこまでも広がる大海原。見上げれば満点の星の輝く夜空。

 既に失われて久しい光景を自由に探検するのはとても不思議でわくわくする。

 けれども現実はそれとは全く違う?

「どう違うのさ?」

「なんて言ったらいいのか本当にわからない。私の目に直接映るのは真実の世界の姿で、私は全てを殺すこのユフを克服して今生きているっていう実感が、ある?」

 その答えは酷く抽象的だった。

「やっぱりよくわからないや」

「じゃぁ、一緒に外出しない?」


 そんなニコルの問いかけに、ためらわず拒絶した。

「行けるはずない」

「そっか残念。誰も信じてくれないんだよね。仕方ないけど」

 その声には諦めが降り積もっていた。

「えっと、信じないわけじゃないけどさ」

「じゃあ信じてくれるっていうの?」

 けれどもその少し拗ねだような問いかけにも、即答はしかねた。


 そもそも僕は物心ついてこの方、このコンパートメントを出たことがない。金魚鉢の内側なら、簡単な防護服を着れば許可なく誰でも出ることはできる。けれどもそんな気分にはなれなかった。そう考える人は多いと思う。それに実際、他の人に直接会わなくても、VRで事足りる。

 その一つ目の扉も開けられない僕が、さらにその先を進むニコルを否定するのも烏滸おこがましいと思ったんだ。

 だから決して、それは信じたり信じなかったりする問題ではなかった。どちらかというと、信じられなくはあったけれど。


「わからないんだ。僕は金魚鉢にも出たことがないから」

「そう? 私も金魚鉢には出たことがない」

「え? それなのに本当の外に行くの?」

「うん。外なら誰の迷惑もかけずに歩けるから」

 誰の迷惑もかけずに。

 その言葉は僕の頭を共感という作用で綺麗に整理し、そして僕はニコルの外出について、するりと納得した。

「信じるよ」

「本当?」

「僕も金魚鉢に出たくないから」

 ニコルは目をパチパチさせた。

 そして迷うような視線を彷徨わせた後、突然、新しいVRが広がった。これまでの簡素なVRとは違い、瓦礫みたいなものが散見されるザラザラとしたVRだ。全体的に灰色や茶色にくすんでいる。

「これは?」

「とっておきの外の映像!」

「これが?」

 随分と拍子抜けだ。

 言われてみると、その瓦礫は古い建物の残骸のように思われた。僕が夜毎に見る美しいVRとは随分違って、全てがそのまま色褪せている。そしてそのVRはザラザラと荒れていた。

「どうしてこんなにノイズが?」

 ニコルは小さく吹き出す。

「ふふ。ノイズね。これはノイズじゃなくて雨だよ雨。外じゃなきゃ降らないよね」

「雨?」

 VRだから、両手をあげても触れることはできない。けれども言われてみれば雨粒のようにも思える。

 僕にはその雨は妙に汚らしく見えた。見上げた空は全体的に黒っぽく、雨の湿りは土塊や汚れを浮立たせている。その雨はまるで、この世界の汚れを乗せて流れているように見える。

 僕はこれまで美しい雨の記録VRはたくさん見たけれど、このVRはそれらとは随分違って、全体的にくすんで見えた。


「雨って想像していたのと違うんだね」

 みょうにつまらない気分になった。

「本当に信じるの?」

「ああ、うん。なんていうかこういう汚い、いやその」

「大丈夫。まあ綺麗じゃないよね。雨が降ってたのはこの一回だけだったけど、私もがっかりしたから。想像してたのと全然違って、ね」

 想像。

 雨の存在は知っていた。僕の中の雨は、世界を透明な液体で満たす美しいものだった。けれどもそもそも、コンパートメントから出たことのない僕には無縁のものだ。

 他にも色々見せてもらった。遠くに見える茶色の凹凸は山なのだろう。けれどもそれも、灰色く重く曇る空を映して茫洋としている。僕がよく見る記録VRみたいな緑や青の煌めきは全然なくて、やっぱり外には何もない、と思った。少なくとも、僕には危険を冒す程の価値は見いだせなかった。

「外ってあんまり綺麗じゃないんだね」

 僕の率直な感想に、ニコルは困ったように微笑む。

「うーんまぁ、綺麗かどうかというと綺麗ではない、のかな。でも外にしかないものもあるんだ」

「外にしかないもの?」

「うん、でもそれは外に行かないとわからないと思う」

 やっぱり僕にはピンと来ない。でもニコルの表面に浮かび上がった笑顔は、まるですべてを照らす太陽のようだった。僕はその笑顔が気になった。

 だからその後も何回か通信を続けて、こっそりニコルの絵を描いていた。

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