運ぶ人

結騎 了

#365日ショートショート 363

 声に、せっつかれていた。

 男はたまらず新幹線に飛び乗った。東海道・山陽新幹線、のぞみ。一刻も早く広島まで行かなければならないらしい。

「早く着かないのか。早く。もっと早く」

 声が催促をする。ああ、うるさい。ちょうど耳の横で囁くように鳴りやがる。思わず耳に手を当て、眉間に皺を寄せる。

「黙っていてくれ。いきなり俺にとり憑いたらしいお前のせいで、貴重な有給を使い、おまけに高い新幹線代を払ったんだ。付き合ってあげるだけ感謝しろ」

「でも、もっと早く。もっと」

 無視を決め込む。

 どうしてこうなったのだろう。

 ある朝起きると、男の耳元で声がした。「連れて行け、連れて行け」。振り向いても誰もいない。天井にも、ベッドの下にも誰もいなかった。なんだこれは、幽霊の類か。疲れのせいか、あるいは昨晩の深酒の影響か。無視を決め込んだ男だったが、声の催促は止まらなかった。なにやら、自分を広島まで連れて行けというのだ。馬鹿を言うな、東京から広島なんてそう簡単に行けるはずがないだろう。第一、自分には連日の仕事が……

 しかし、男の我慢は早期に限界を迎えた。声があまりにうるさく、仕事にならなかったのである。

 横浜を通り過ぎ、新幹線は静岡に向かっていた。

「しかし、なんで広島なんだ。お前が誰だか知らないが、広島まで連れて行くことに何の意味があるんだ」

「いや、広島に意味はない」。声が答えた。なんだこいつ、催促じゃない台詞も吐けたのか。「誰かを移動させることが目的だ。広島じゃなくてもよかった。今回はたまたま広島だったのだ」

「どういう意味だ。さっぱり分からん」

「我々は発生する移動エネルギーを食べている。だから移動してもらっている」

 やはり分からない。しかし、つまるところ広島まで行けばノルマは果たせるようではないか。

 男は開き直り、たまの一人旅だと思うことにした。なんだ、それなら窮屈じゃあない。車内販売でビールを買い、弁当を開けながら、京都駅を過ぎた。

「もう着いたのか。もう」

 声に起こされた。微量のアルコールのせいでうとうとしていた。やっ、もうすぐ広島駅だ。

 ホームのアナウンスに背中を押されるように、男は新幹線を降りた。大気が肺に流れ込んでくる。この瞬間が長時間の旅行の醍醐味だ。

「あ、あ、あ」

 声は途切れながら悲鳴を上げていた。なんだ、もう消えるのか。これから広島のどこぞを回らされると思っていたのに。拍子抜けだ。

「じゃあな。よく分からんが、成仏しろよ」

「あ、あ……」

 聞こえなくなった。……多分。いや、これは本当に聞こえなくなったぞ。

 にんまりと微笑み、男は広島駅を後にした。せっかくだ、ここで一泊していこう。旅館にでも泊まって、現地の上手いものでも食べようじゃあないか。

 翌日。昨晩のお好み焼きがまだ胃に残っていたが、男は再びホームにいた。東京行きの新幹線は混んでいたが、座れないほどでもない。窓側には初老の女性がいたが、会釈しながら隣に腰をおろす。さて、またビールでも買って一眠りするとするか。

「もう、黙っててよ、分かったから」

 男はなかなか眠りにつけなかった。隣から話し声が聞こえるからである。

「なんなのよ、これ」

 女性は耳に手を当て、眉間に皺を寄せていた。

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