仕合せに触れる

大隅 スミヲ

仕合せ、それは運命の出会い

 考え方は人それぞれだ。

 なにが幸せで、なにが楽しいのか、それは人それぞれ。

 だから、その楽しみを邪魔してはいけないし、否定してもいけない。

 食べることで幸せを得られる人もいれば、歌うことで幸せを得られる人もいる。

 幸せは、人それぞれだ。


 それは運命的な出会いだった。

 大げさな話ではなく、私はそう感じたのだ。


 いつも行く小さなバーだった。

 仕事帰りにちょっと寄って、ビールとつまみを楽しむ。

 それが私にとっての幸せだと思っていた。


 あの日、彼女に出会うまでは。


 その日はイベントデーだった。

 このバーでは月に一度、マスターの知り合いを呼んでイベントを実施する。

 イベントがあることは貼り紙を見て知っていたが、その日がイベントの日だということはすっかり忘れていた。

 いつものように、一杯ひっかけて帰るか。そんな軽い気持ちでバーのとびらを開けた。

 私の耳に飛び込んできたのは、歌声だった。

 美しい声。

 思わず店の入口で立ち止まってしまったほどだ。


 バーの中央に置かれたスタンドマイク。そこに立つ、ひとりの若い女性。

 何語であるかはわからないが、海外の曲を歌っていた。


「いらっしゃい。好きなところに座ってよ」

 マスターが入口に立ち尽くしている私に声を掛けてくる。

 その言葉で我に返った私は、カウンタースツールに腰をおろしてビールを注文した。


 シャンソンだった。

 何も知らない私にマスターが教えてくれたのだ。

 彼女は大学生で、趣味でシャンソンを歌っているのだという。

 趣味だという話だったが、私にはプロの歌声のように聞こえた。


 歌い終えた彼女に私は一杯おごった。

 彼女はグラスワインを頼み、笑顔でお礼を言ってくれた。

 美しい笑顔だった。

 その笑顔で、私は彼女の虜となった。


 めぐり合わせや運命的な出会いのことを『仕合しあわせ』というらしい。

 私は彼女との出会いを仕合せだと思っていた。

 40歳という年齢になるまで、私は仕合せに触れることはなかった。

 仕合せに触れることが出来るのは、人それぞれタイミングが違うらしい。

 私はそれがたまたま40歳だったというだけだ。


 その後、彼女とは何度かバーで顔を合わせることが出来た。

 彼女の横顔を見ているだけで幸せだった。

 彼女の笑顔、彼女の声、彼女の……。

 私は彼女のすべてを受け入れた。

 少し酔った時の彼女は、本当に可愛かった。

 美しい中にある可愛さ。

 彼女のことを誰にも渡したくはなかった。


 マスターは既婚者であるから、彼女と話していても問題はなかった。

 問題は、バーで彼女に話しかけてくる若い男たちだった。

 彼女は美しくて魅力的だ。

 だから、男たちが寄ってくるのもわからなくはなかった。

 だが、彼女には私がいる。

 私がいるのだ。


 私は彼女に寄ってくる男たちを排除することにした。

 ある男は、バーから出てきたところをビール瓶で殴ってやった。

 ある男は、裏サイトと呼ばれるSNSで雇った男たちに襲わせた。

 ある男は、探偵を雇い、浮気の証拠を見つけて家庭崩壊をさせてやった。

 

 これだけ彼女を守ってやっているというのに、彼女は一向に私の方へと振り返ろうとはしなかった。

 なぜだ。なぜなんだ。


 きょうもまた、彼女に寄ってきた男がいる。

 長身の男だった。

 スーツを着た30歳ぐらい。

 どことなく精悍な顔立ちをしている。

 だが、彼女には似合わない男だった。

 スーツは安物だし、肩幅が広すぎる。ビールの入ったグラスを持つ手はごつごつとしているし、よく見ると目つきが鋭く、どこか近寄りがたい雰囲気があるように感じる。


 やるしかないな。

 私は決意した。

 トイレに立つ振りをして、カバンの中からナイフを取り出す。

 何かあった時のために、普段からカバンの中に入れているサバイバルナイフだ。


 男に近づこうとしたとき、背後に気配があった。

 振り返ると、そこにはスーツ姿の女がいた。

 そこそこ顔はいいが、彼女には敵わない。この女もどことなく目つきが鋭いように見えた。


「動くな、警察だ。刃物を捨てろ」

 女が叫ぶようにいった。


 私は構わずナイフを構えて男に向かって突進していった。

 腕に鈍痛を覚えた。手に力が入らなくなり、ナイフを落としてしまう。

 続いて足が掬われる。

 地面から離れた足は宙を蹴っていた。


 顔から床に落ちる。目の前で火花が散る。口の中に鉄に似た味が広がっていく。

 あ、歯が折れた。


 体に圧力が掛かる。上に乗っかられているようだ。

 顔を上げる。

 そこには、あの長身の男が覆いかぶさるようにして乗っかっていた。


 私は男のことを押しのけようと力を入れる。

 しかし、男の体はびくともしなかった。


「確保っ!」

 男が叫んだ。

 なにがどうなっているのかわからなかった。


「傷害および殺人未遂の容疑で逮捕する」

 腕が後ろにまわされて、冷たい金属がはめられる。



※ ※ ※ ※



 捜査中の連続暴行傷害事件で浮かび上がったのは、ある一軒のバーだった。

 被害者たちの共通点、それがそのバーの客ということだった。


 警視庁新宿中央署刑事課強行犯捜査係は、バーで張り込みを開始し、犯人が姿を現すのを待っていた。

 きょうで3日目だった。


 午後6時。いつものように強行犯捜査係の富永巡査部長と高橋佐智子巡査部長はふたりでバーを訪れた。ふたりの正体を知っているのは、バーのマスターだけである。

 ふたりは別々の離れた位置に座ると、他の客たちに紛れ込みながら目を光らせていた。


 その日、富永はノンアルコールビールを飲みながら、隣に座った女子大生と話をしていた。

 女子大生は趣味がシャンソンを歌うことであり、たまにこのバーで歌っていると富永に教えてくれた。


 佐智子はワインに似せたぶどうジュースの入ったグラスに口をつけると、隣に座っているサラリーマン風の中年男を観察していた。

 中年の男は、先ほどから富永の方をチラチラと見ていた。いや、正確には富永の隣に座っている若い女性の方を見ているのだ。


 刑事の勘というやつだった。どこかこの中年男性の行動が佐智子の琴線に触れるのだ。

 しばらく観察をしていると、不意に男が席を立ちあがった。


 最初は手洗いにでも行くのかと思ったが、持っていたカバンからナイフを取り出したことで事態は急変した。

「動くな、警察だ。刃物を捨てろ」

 佐智子はそう叫ぶと同時に、近くにあった棒状のものに手を伸ばした。

 咄嗟に手にしたのは、シャッターを閉めるために使う鉄の棒だった。


 男が富永に突進していく。

 佐智子は手にした鉄の棒を男のナイフを持つ手に対して振り下ろした。

 そのまま、振り下ろした力を使って、足も刈る。

 この動きは、薙刀の形にある動きだった。

 佐智子は学生時代に薙刀部に所属しており、現在は師範の腕前を持つほどである。


 足を駆られた男はナイフを落として、地面に叩きつけられた。

 そこに富永が覆いかぶさるように乗っかって、柔道の袈裟固めを極める。

「確保っ!」

 富永は叫んだあと、男の腕を捻りあげて手錠をはめた。


「傷害および殺人未遂の容疑で逮捕する」

 佐智子と富永は男のことを立たせると、応援に駆け付けた他の強行犯捜査係員たちと一緒に男の身柄を新宿中央署まで運んだ。


 男の一方的な愛だった。

 男は仕合せに触れることが出来たのだと思っていたようだが、その思いは彼女には伝わってはいなかった。

 3人の男性への暴行と殺人未遂、富永に対する殺人未遂、彼女に対するストーカー行為の迷惑防止条例違反など、男には様々な罪状が言い渡された。


「仕合せって、何だろうな」

「わたしはこの仕事が仕合せだと思っていますよ」

 佐智子の言葉に、富永がちらりと顔を見る。

「仕合せに触れる。まさに、この仕事はわたしの天職だと思っています」

 佐智子は夜空にぽつりと浮かび上がる月を見ながら、呟くようにいった。




【仕合せ(しあわせ)】

[名・形動]《動詞「しあ(為合)わす」の連用形から》

1. 運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運。

2 .その人にとって望ましいこと。不満がないこと。また、そのさま。幸福。幸い。

3. めぐり合わせ。運命。

4 .運がよくなること。うまい具合にいくこと。

5 .物事のやり方。また、事の次第。

(webサイトより)

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