第2話 薔薇に問う


 今日は驚くほど天気が良いよ。

 空気が硝子みたいに澄んでいる。だからかな、空中でいくつも反射した太陽の光が、いつもよりも明るく感じられる。そんな光の中を川から爽やかな風が渡って僕の葉を揺らすんだ。まるで、天使が遊んでるみたいな気持ちの良い日。

 きっと彼も気にいるはずだ。

 小さな僕に話しかけてくれる唯一のひと。

 

 

 やがて、彼は白黒の服のお供を連れてやってきた。僕の予想通りがちゃがちゃと荷物を抱えて。彼が庭に来るのは何回目だろう。初めて来たときは酷く憔悴して見えた。でも最近はここの住人の中でいっとうまともに見える。庭に出てこられるのなんて、彼くらいのものだから、実際具合がいいんだと思う。


「そこから日向です。気をつけて、慎重に」

「分かっている」

 

 日影から出る直前、お供の修道士が静かな声で言った。でも彼の瞳は日向との境界でなく、僕のずっと向こうにある大きな松を捉えていたんだ。日向を意識するのはこれからだから、注意されたことに少しムッとしているようだった。

 神経質そうな頬は相変わらずこけていたけれど、血の気がある。


 彼はやがて僕の元に辿り着き、荷物を降ろす。小さなカンバスを設置し、絵の具をパレットに絞り出した。薫風に油の匂いが混じる。途端にこの庭が彼のアトリエとなる。

 彼はパレットを一度鞄の上に置くと手を組んで目を閉じた。大きく息を吐いて上向いて、集中力を高めている。まるで大空に向かって祈るようだなって思う。

 


 お供の男性は少し離れた場所からじっと彼の様子を眺めていた。彼は発作を起こした時に、絵の具を食べようとしたらしいんだ。他にも灯り用の灯油やテレピンなんかも口に入れたことがあるんだって。だから誰かが見張っていなければならない。

 以前、拗ねたような表情で、独り言みたいに僕に白状したから知っている。赤味がかった顎髭を生やしている大人のクセに、そんな事をしたなんてまるで子供だよね。


 彼の胸にはうろがあるんだって。そこに、ありとあらゆる感情や考えが吸い込まれてぐちゃぐちゃになってしまうんだと聞いた。そのぐちゃぐちゃの結果が絵の具を食べることに繋がるらしいけど、僕にはよく分からない。


「君を描くと落ち着くんだ」

『そう、それは良かった』

「失恋したことも忘れられそうだよ」

『忘れられないと思うけどな。だから君はここにいるんでしょう』


 彼は暫し手を止めた。

 彼の瞳には捻れた僕の姿が映りこんでいた。


「今日は、懺悔するのに良い日だと思わない?」

『そうだね。きっと君の言葉はあぶくとなって、天まで届くよ。それを僕は見届けよう』

「君は優しいね」


 捻じれがなりを潜める。彼は一瞬、狂気から解放されたように見えた。



「別に、最初はあの人とどうこうしようなんて思ってなかったんだ。あの人は弟の紹介でやってきた画家だった。丁度、使途に捧げるひまわりを四つ描いたところで来てくれた人だ。僕とは対照的な人でね。共通点なんて、絵を描いていることくらいだったんじゃないかな」


 彼はポケットからパイプを取り出した。

 お付きの白黒修道士は顔を顰めたけれど、彼の弟からの差し入れだし、止める事はしなかった。やがて白い煙をぷかぷかさせて遠くを見つめた。 


「あの人の、絵に対して情熱的なところに強烈に惹かれた。纏う空気はまるで南国のもの。南仏じゃないよ、南国だ。行ったことも見たことも無いけれどね──。僕は惹かれた分だけ僕を認めて欲しかった。だって惹かれたってつまり、僕の心の一部をあの人が奪ってしまったってことだもの。あの人の一部も欲しかった。渇望した。僕の絵が、あの人の心の一部となることを望んだ」


 結果は知っている。何度も聴いたさ。

 穏やかに語る彼は、結局、黄色い部屋のある家に十二使徒の為のひまわりを完成させることが出来ないまま、発作を起こした。彼は空を満たせずついに心の均衡を崩し、ついに耳を切り取ってしまった。

 

 そしてたった二ヶ月の交流の末に彼にとって大切だった友人は出ていった。


 「テオ。ああ、優しい弟。僕はどこでボタンを掛け違えてしまったんだろう。僕は君のことを………。だから少しでも離れようと思った。一人で生きる糧を得ようとした。君だって、僕の為にあの人をよこしたんじゃないか? この人ならば、この人の絵に対する熱情パッショネートならと──」


 彼の瞳に映った景色が再び歪みだす。

 彼はパイプを置くと、再び、今度は無言でカンバスに向かい合った。


 テオと呼ばれた彼の弟は、献身的だ。それは、ただの花である僕が聞いても呆れる程に。

 妻と彼についての処遇でぶつかることはあったそうだけれど、彼の絵をきちんと売り続けた。段々評価されていると、報告も逐一送ってきた。彼は、僕とそんな話をしながら絵を描き続けた。

 

 高い絵の具も彼の弟からのものだった。


 彼の弟は、ちょっと異常だ。

 ここは、サン・レミの療養院。心を病んだ人がやって来る。彼は、他の人よりはいくらかマシだけど、療養院の患者。

 そんな彼に絵の具を、カンバスを、手紙を送り続けるなんて、兄の才能を信じてか、あるいは……。

 

「     」

『フィンセント、今の言葉は聞き取れないや』


 彼、つまりフィンセントは、僕を通して弟テオに話しかけていたんじゃないかと思う。

 


 絵が完成間近になった時、彼は僕に問うた。


「ねえ君。僕は狂っているのだろうか。狂った僕の絵は、やっぱり狂って見えるのだろうか? 狂った絵に魂は宿らない? そんなことはないって君なら分かってくれると思う」


 見せてくれたカンバスに描かれた僕の姿は、歪み捻じれてはいたけれど、確かに美しかったんだ。叩きつけられたような絵の具が、風にそよぐ葉を生きたまま写しとって、否、更に生き物としての別の段階へと押し上げていた。渦巻く生命力が静かな画面から泉のように溢れ出して、ただ美しいと思った。


 そう、美しいと思ってしまったから、きっと、僕はその絵に吸い込まれた。



 +++++



 昔の夢を見ていた。

 サン・レミの療養院、ずいぶん昔の夢。

 

 明日は特別展だとかで、沢山の人が僕らを観にやってきている。僕は何時もの場所から移動されて、他の絵達と共に目立つ場所に展示された。

 そこで別の部屋に飾られる為に運ばれている仲間に、釘付けになった。


 ひまわり、だった。


 フィンセントのものではない。南の島の女の人が寝そべる絵。花瓶に活けたひまわりが揺れている。


 ああ、フィンセント。

 きっとあなたの友人の中にもあなたは生きていた。


 淡い明かりの下、僕は再び眠りについた。










××××××



ゴッホ「ばら」

松方コレクション。西洋美術館常設展で展示中です。

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絵画・ファンタジア @nekoken222

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