絵画・ファンタジア
常
第1話 9区のシュゾン
細かな粒が立ち上り弾ける。
何時もよりも上等な酒は口に入れると舌先で踊り、香りが鼻から抜けていく。
アリシアはそっとグラスをカウンターに戻した。
彼女の仕事は殺し屋で、今し方仕事を終えてきたばかりだ。
ここは、仕事終わりに寄るのに丁度良いバー。
ミュージックホール内に在り、自分と似たような有象無象が集まっては安酒を呷っている。アリシアが通い始めてそろそろ3ヶ月。経営者であるフォリーと、何人かのホールスタッフと、彼女は懇意となっていた。
普段通りであれば、アリシアも安酒を注文していたところなのだが、今日は特別だった。大きな仕事が片付いたところなので、シャンパンは祝杯だ。
有象無象と同じくアリシア自身も草臥れてはいたけれど、そうとは見えないようにきっちりとコルセットを絞め、今様の細いウエストのドレスを隙無く身に着けていた。見渡せばひと昔前のバッスル姿の女性も数多くいた。
うわ、と歓声が上がる。
フォリーのバーは流行に敏感。今日の出し物は綱渡りとバレエ。他はなんだっけ? 所謂ヴォードヴィルショーと言うやつだ。今夜も魅惑のダンサー達が、日銭を稼ぐために舞台に上がっていることだろう。
どっと沸く有象無象を見て、アリシアは詰まらなそうに鼻を鳴らした。
この間、ダンサー達はよりによってカンガルーにその日銭を奪われていた。流行なんてものは労働者階級を土台にして成り立つどうしようもないもの。
ドラムロールとご婦人方の歓声が響く。
アリシアはバッグから安い煙草を取り出して燐寸で火を点けた。
そう言えば、入り口のところに見かけぬ筆致のポスターが貼ってあった。あれは誰がデザインしたものなのか。アカデミー・ジュリアン出の画家が近頃良いポスターを描くと聞いたことがあるから、ひょっとしたら彼の手のものかもしれない。
きっとルーブルに飾られてもいいくらいの出来だ。
勿論アリシアはルーブルにどんな作品があるかなんて知らなかったけれど、飾られていたポスターはいたく気に入った。
今後のショーは、彼に依頼を頼むのが良いとさえ思った。
「ボン・ソワール、アリシア。楽しんでいるかしら」
「あらシュゾン。ぼちぼちってところ……あちらの紳士のお相手は終わったの?」
「綱渡り見るんだってサ」
カウンター内のバーメイド、シュゾンは皿からオレンジを取ってアリシアに寄こした。アリシアは煙草を床に放り投げてオレンジを口に運んだ。途端に口に広がった果汁によってシャンパンと煙草の匂いが掻き消える。
「で、お嬢様。仕事の方は?」
「万事上々、きっと名探偵でも解決できないはずよ」
綺麗に切りそろえた前髪とたわわな胸を揺らし、バーメイドはおかしそうに笑った。黒い衣装は胸元を強調するように作られており、白いレースで縁取られたブラウスが眩しい。デコルテの上で、チョーカーから下げられたメダルが煌めいていた。
「御冗談をおっしゃいな。こんな娼婦でも分かるような仕事をするようじゃぁまだまだよ、子猫ちゃん。ま、感謝はしてる。最近景気が悪くて仕方が無かったからね」
「……」
フォリーのバーでは娼婦を雇っている。
そんな噂は確かに聞いたことがあったけれど、シュゾンが言うと皮肉にしか聞こえない。というか、皮肉を言われたことに気が付いて、アリシアは顔を赤くする。灰色の瞳でじろりとバーメイドを睨むと、おお怖いと言って銀盆で顔を隠された。
「じゃあ、どんな仕事をしてきたか当ててみて、娼婦様」
「あらあら」
フルートグラスを傾けて唇を湿し、アリシアはにやりと笑った。
シュゾンの後ろの壁は鏡になっていて、彼女の後ろ姿と、ホールで出し物に興じる沢山の人を写していた。人々の上には大きなシャンデリアが輝き、まるで別世界だ。
そう、これは鏡の中でなくとも虚構の世界。
フォリーは無い金を使いすぎた。
「そうねえ、あなたはここのショーが嫌いよねぇ。なのに、私のバーにこうして足繫く通ってくれた」
カウンターに頬杖をついて考えるような仕草をするシュゾン。
アリシアは脚を組んで挑発的に見遣る。スカートが持ち上げられて露わになった靴下に、男性の視線が集まる。スペインの血の濃い彼女は情熱的だ。男達に一瞥くれてやると、改めてバーメイドに向かい合う。
「それで?」
「仕事だというのに、似つかわしくない恰好ね。そのコルセットじゃ逃げるという事は考えていないんでしょう。息をするのも辛いわよねぇ。でも着てきたのは殿方にアピールする為。違うかしら?」
アリシアのドレスは、深い海のようなブルーのドレスだった。ウエストはコルセットできつく絞られていて、バッスルよりもスマートな外見だが自由が利かない。
「狙いは男性。ある程度小綺麗な格好をしていないと近づけない人で……ひょっとしたらこの店の近くか中にいたのかもしれないわね。得物は何かしら……返り血の付くような刃物じゃない、とすると……お得意の毒? 香水に仕込んだ、とか」
「ワオ、そこまで分かってるならもう黙って?」
アリシアは、未だに頬杖をつく彼女の唇に人差し指を当てた。
バーメイドはその指にキスを一つ落とし、背を伸ばす。綱渡りの演目は終わり、バレエダンサーが舞台に上がっているようだ。この店の主人フォリーの好きなダンサーがプリマドンナとして出る予定となっていた。ショーの終わりに連れ帰る姿が度々目撃されている。
「ショー・タイムね」
シュゾンもアリシアも舞台の方を向く。
暗い照明の中、まだ幼いダンサー達が華奢な身体に薄い衣をまとって躍り出た。さながら妖精のように軽やかに舞う。
と、数分もしないうちにざわめきが起こる。
舞台の袖から、シルクハットを被った紳士が一人よろめき出た。
踊り子達は驚いて動きを止める。紳士は壊れた人形のような動きをして舞台の中心へ向かっていく。楽隊は暫く曲を奏でていたけれど、ダンサー達の異変に気が付き、競馬の馬がゴールした時のように、ばらばらの足並みで曲を止めた。
男性は、皆の視線を集めながらとうとう中央に躍り出た。
そして万歳をするような格好で、口から血と泡を吹いて、ばたりと倒れてしまった。
阿鼻叫喚の騒ぎを後目に、シュゾンは煙草に火を点けた。
ふわりと紫煙を天井に向かって吐き出して言う。
「で、アリシア。ここの店名は変わるのかい?」
「まさか。殆ど自分で食い潰しちまったとしても、ここまで店を大きくしたんだ。名前は残るさ。ベルジェール通り沿いのフォリーのバーは、首がすげ変わっただけ」
残りのシャンパンをぐいっと干してアリシアは肩を竦めた。
「あのさ、シュゾン、口止め料は幾ら?」
「そうさね。私の夜、3日分くらい頂こうかしら」
「高い。感謝してるって言わなかったかい?」
「ああん? 1フランだってまからないよ」
フォリー・ベルジェールのバーは1886年、経営者を変えた。
アリシアの雇主であった男は出し物をレヴュー・スタイルへと変えて、〝Place aux Jeunes〟のヒット以降、舞台のタイトルを同じ13文字で固定。店を更に反映させたのだが、これはまた別のお話。
アリシアとシュゾンのバーでの交流は、経営者が変わっても続いたと言う。
×××××
エドゥアール・マネ
「フォリー・ベルジェールのバー」より。
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