生きる匂い
風と空
第1話 生きる匂いを探して
「…… 朝か…… 」
ベッドから届くカーテンに手をかけて、シャっという音と共に入ってくる光を浴びる。
雨が窓ガラスを打ちつける音に湿った匂いが、寝ぼけている俺をまた布団の中へと戻していく。
雨の音は良い…… 俺をこの場に留める理由をくれる。
今日の予定なんてここ半年無い様なものだ。あるとすれば、飯を食うかトイレに行くか携帯でネットサーフィンかゲームで遊ぶかだ。
この時期のTVはなんか見る気がしない。
しかも久しぶりにライトノベルにはまってしまった。異世界転生か転移を良く読む。
純粋に楽しんだ十代とは違う。…… もう三十代だからな。
出来る事ならやり直したい、そう考えているんだろうか。
ひとしきり読み漁り、そしてまた無気力に溺れ受け身になる。
心が麻痺して疲れてしまっているんだ。
こうなったきっかけはなんだったか……
そう、半年前まで俺は会社勤めをしていたんだ。
営業職だった。
会社に行けば月の売り上げランキングが張り出され、
上司からいつも発破をかけられる。
後輩は俺の成績をどんどん追い越して行く。
営業で一件取れて褒められても、クレームやクレーム処理で毎日グッタリして帰ってくる。
心が削られていく毎日だった。
そして壊れる日がやって来た。
朝起きて会社に行こうとすると、動悸息切れが凄い。
身体が震え出す。足が動かない。
起きて顔を洗うのも精一杯だ。
当然会社にまで行きつかない。
毎日休みの申請を電話でするのもやっと。
もう無理だと思った。
家族に連絡するのも、病院に行こうとするのも何もかもが嫌になった。
この時助けてくれる人が居なかったら、俺はどうなっていただろうな。味も匂いも感じなくなっていた時期だったからなぁ。
だから、辛抱強く助けてくれた同僚の柴田には、今でも頭が上がらない。柴田のおかげで会社とも整理が付き、家族にも連絡が取れたんだから。
地元に戻ってからは疎遠になったが、今でも両親は柴田に感謝の気持ちを毎月欠かさず送っているらしい。マメな柴田はいつも返礼品を贈って寄越してくる。…… 良い奴だよなぁ。
そんなこんなで、俺は今実家で静養中という肩書きを利用させて貰っているが、実際の所は冒頭のルーティンを繰り返す毎日だ。
両親は健在でこんな俺を見守ってくれている。
この歳になっても世話になっている俺を受け入れてくれているのは感謝でしか無い。
「やりなさい」「こうしなさい」「だからそうなのよ」
…… 考えてみたら、帰ってきてからこうした事言われた事ねぇな。
両親も葛藤しながらみてくれているんだろう。
済まねえ、こんな息子で。
俺は戻れるのか?
…… 考えると苦しくなる。
でも踏み出す為の一歩が出ないんだ。
布団の中で何気なく読んでいるWebサイト。
一つの紹介文に目が止まる。
『初めて投稿します。読んで下さると嬉しいです!』
投稿か……
これなら部屋にいながらでも出来るんじゃね。
サイトの登録はポチポチ簡単に出来る。
思わず布団から起き上がって操作していた。
で?どうすんだ?
チュートリアル?うわ、 面倒臭え……
ま、時間はたっぷりあるからな。読んでみるか。
するといつの間にか俺は起きてパソコンを開いていた。
携帯見辛いからな。
…… 良し、大体わかった。
どれ、傾向と対策が必要だな。
仕事をしているかの様にパソコンに向かい、随分時間が経った。すると身体が食事を要求してくる。
お、腹鳴った。久しぶりだな、この感覚。
一旦作業を中断して、台所に向かう。
冷蔵庫を開けると、食べてなかった俺の分の朝食がラップされてトレーの上にセットされていた。いつもの様に母さんのメモがある。
『あったかくして食べた方が、消化に良いわよ。じゃ、仕事に行ってくるわね』
母さん今日パートの日だったか。
メモでさえ『しなさい』って言わない有り難さ。
実際この方が動けるんだ。
おかずをレンジで温め、飯を盛り、味噌汁はそのままよそう。一人で食べるのが気楽で良いが、母さんの言葉を実感する。
冷たい味噌汁は今日は何か足りないな。
食べ終わり、食器を水に浸して歯を磨き顔を洗う。
なんかサッパリして気合いが入った。二階の自分の部屋に向かい、またパソコンと向かいあう。
気がつくと一階の方からガタゴトと物音がする。
母さん帰ってきたのか。
時間を見ると15:17と表示されている。
すげえ集中してたな、と思いながら両手上げて身体を伸ばす。
だがおかげで傾向がわかった。
俺が好きな異世界ものでも結構大丈夫そうだな。
とすれば、思いついている物があるから書いてみるか。
俺はそれからまた意識を画面に向けた。
次に意識が周りに向いたのは、部屋のノック音が聞こえた時だ。
「和也。ご飯出来たわよ。どうする?」
母さんか。時間は…… 18時34分!?いつの間に?
「あ、ああ。わかった。一階で食べるよ」
「っそう!じゃ、用意しておくわね」
少し上擦った声の母さんが階段を降りて行く音を聞いて、俺も身体をほぐす。
行く前に三話は出来上がった話をどうするか考える。
題名も入れたし、小説情報も入れた。
試しにアップしてみるか。
「公開」を選択して俺の部屋を後にする。
台所では既に父さん母さんが食べ始めていた。
TVをつけて、母さんが今日あった事を話したり、父さんに味を確かめたりして、あえて俺に注目していない雰囲気が心地良い。
味噌のいい匂いだな。うん、美味い。
…… 美味い?って思ったか?
昼間は物足りなかった味噌汁をもう一度口に含む。
なんだこれ?
「母さん。この味噌汁って…… 」
「ああ、ごめんね。あっためただけなのよ。ちょっと手抜きしちゃった。でもトンカツ作ったから許して」
母さんは苦笑いしながら、また今日の話を父さんにしている。
昼間と同じ味噌汁なのに、なんでこんなに味噌のいい香りがするんだろう。もう一口飲んだ後、自然と「美味い」という言葉を出していたみたいだ。
「そうか。良かったな」
呟いた言葉を父さんが聞いていたらしい。母さんは嬉しそうに俺を見ている。
なんだろう。急に目に涙が溜まった様な気がする。
俺はただ頷くしか出来なかったが、この日の味噌汁が味を思い出させてくれた。
なんとなく気恥ずかしくて、食べ終わった後はすぐに部屋に戻る。続きをと思いパソコンを操作すると、アップした作品に数字がついていた。
「ははっ!やべえ!誰か読んでくれてる!やべぇ!すげぇ!」
感情が一挙に溢れ出す。
嬉しいのに涙が流れ身体に震えがきた。
やべえ、止まらねぇ
その日ーー
俺は明日の予定を半年振りに立てる事にした。
生きる匂い 風と空 @ron115
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