喫煙所のリーシャンテ

詩人(ことり)

本文

 親に高い金を払ってもらってまで大学を卒業したところで知っていることなんて、夏は暑くて冬は寒く、春は暖かいこと。そして、秋はどこか淋しいということぐらいだった。

 僕に煙草を教えてピアスを開けたあいつとの別れも秋だった。長袖になってしばらくしたころ、肺の汚れと耳たぶの穴の責任も取らずに僕の前から消えた。

 そのときの彼女の靴はニューバランスだった。Nの文字だけを鮮明に覚えている。ずっと下を向いていたから、あいつがどんな顔をしていたのかは知らない。

 顔を上げたときには空が暗かったし、周りには既に誰もいなかった。行きでは気にならなかった自転車の錆びたチェーンの音が耳障りだった。

 叫んで立ち漕ぎをしてやろうとも思ったけど、ケーキの箱を持った女性がいたのでやめた。誰かの誕生日か自分へのご褒美か。何であれ僕が台無しにしていいものでは無かったと思う。

「喫煙所できてんな」

 そういう喉の疼きを乗り越えて五年経った今、あいつは突然、僕の前に現れた。

 話しかけられるまで僕はその女性が誰か分からなかったが、向こう側は僕がすぐに分かったみたいだった。

 彼女は僕と別れる少し前に大学を辞めていたから、五年間会うことはなかった。五年ぶりに会った彼女は、少し変わっていた。

「髪伸ばしたんや」

「まあ、うん」

 ちらりと控えめに光る薬指を見ないようにした。僕はアホやと思った。こいつには絶対、短い髪の方が似合うし、白いブラウスとかロングスカートとかは似合わん。ヒールで高くなった視線とかも、全部がアホやと思った。

「似合ってるわ」

 五年も経てば色んなことが変わっていくのは理解している。軟骨のピアス穴が塞がるのも、吸っている煙草の銘柄が変わるのも。それが五年の厚みだった。

「ずっとそれ吸ってるん」

「うん、いや、一瞬変えたけど」

 本当に、本当に一瞬だけだった。こいつのことを忘れようと普段買わない煙草を一本だけ吸って、不味くてやめた。二十分と五百円を支払って自分の愚かさを知る機会を買った。

「四年かあ。早いね」

「なにが」

「別れてから」

「ああ、うん」

「ごめんね。わがままやったな、わたし」

 鳩尾のあたりを思い切りぶっ叩かれたみたいな感覚だった。

 何年前かを間違えられたことじゃなくて、謝られたことが衝撃だった。

 僕は話しかけてきたのがこいつやって分かったとき、ニューバランスを履いてるんやと思ってた。ピアスは何個も付けてると思ってたし、吸ってる煙草も変わってないと思ってた。中途半端にしょうもない罪悪感なんか抱かず、何もかも忘れて笑って話しかけてきてると思ってた。

 ちょっとだけ期待してた。あのときこいつがどんな顔をしてたんか、今になって分かるんちゃうかと思ってた。

 でも、もう全部違うかった。五年も経てば色んなことが変わっていくのは理解してた。理解してたけど、ちょっとも残ってなかった。僕の知ってるこいつは、もう何も残ってなかった。

「わたし行くわ」

「元気でな」

「そっちも」

 もっとゆっくり吸う奴だったのに、僕より後に入ってきて、僕より先に出ていった。気まずかったから、だからいつもより早く吸い終わって、足早に帰っていったに違いない。

 もう灰皿の中に消えてしまった煙草に付いていた口紅の色とか、ヒールで綺麗に歩く後ろ姿とか、喫煙所を出て携帯電話を画面を見た後、小走りで去っていく様子とか。それら全部から目を逸らして、皿に灰を落とす。

 ポケットの中でスマホが揺れた。今の恋人からメッセージが届いている。僕の所在を尋ねる内容だった。

 駅前の喫煙所にいると送信すると、すぐに既読が付いて返信が来た。いつものように僕に禁煙しろと迫ってくる。

「ごめんな」

 僕を愛してくれている彼女と、忘れようと努力した僕と、この先、煙草を吸うたびに自分が嫌いになる僕への言葉は、煙と同じように軽く薄く、空気へ溶けていく。自分が汚れていくことすらも煙草と同じで、僕は少し笑った。

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喫煙所のリーシャンテ 詩人(ことり) @kotori_yy

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