後編 DOOR
「明日、バイト休みになっちゃった」
歌夜が夕食の支度をしながら言った。
就職先が決まっているとは言え給料は実際に働き始めるまで貰えないのだから三月いっぱいはバイトで生活費を稼がなければならない。
卒業前は放課後だけだったが、卒業して登校する必要がなくなったので今は朝から夕方まで働いて夜は家に帰ってきている。
星次は音楽家になると言って父の勧めた就職先を断ったので勘当されたし、どうせ歌夜と結婚するのだからと言うことで彼女のアパートに転がり込んでいた。
星次は楽団の欠員を探したり、いつでもオーディションを受けられるようにバイトは夜勤で昼間は臨時の仕事だけをして稼いでいる。
ただ工事現場など手にケガをするような仕事は出来ない。
そうなるとバイト料の安いところくらいしかない。
「じゃあ、明日は時間あるの?」
星次が訊ねた。
「うん」
「なら明日、届け出しに行かない?」
二人で行こうにも歌夜は毎日昼間働いているからまだ婚姻届けを出していなかった。
歌夜は気にしてないようだが星次としては早く届けを出したい。
無いとは思うが婚姻届を出してないと他の男と結婚出来てしまうのだ。
今更他の男に横取りされるのは嫌だった。
翌日、二人が区役所の待合室にいると、目の前で子供が転んだ。
「大丈夫?」
歌夜が即座に手を差し伸べて立たせると泣き出しそうになっていた子供をあやした。
すぐに親がやってきて歌夜に礼を言いながら子供を連れていった。
「可愛いね」
子供を見ていた星次が言った。
「そうだね」
「子供、早く欲しいね」
「私は……欲しくない」
「え……子供、嫌いなの? 扱いが上手いから好きなのかと思ってた」
星次が驚いて歌夜を見た。
「……私、二度もお父さんに捨てられたんだよ」
「え?」
「実のお父さん、私のこと捨てたの。引き取ってくれた人が離婚したのも私のせいだった」
「歌夜ちゃん、子供は親の離婚を自分のせいだと思いがちだけど……」
「私のことで何度も喧嘩してたの。お
「お義父さんが子供を欲しくなかったんだとしてもそれは……」
「欲しくなかったのは子供じゃなくて私。お義父さんが言ったの。人に聴こえない歌が聴こえる子供なんて気持ち悪いって」
〝聴こえない歌〟
歌夜は自分の話をしていたのか。
「そのとき思い出したの。実のお父さんから歌の話は絶対するなって言われたこと」
「…………」
「小さかったからお父さんのことで覚えてるの、それだけだけど……きっと私が人に聴こえない歌、歌ってたから、お父さん、気持ち悪くなって……」
歌夜が覚えている実の父親は背中だけだ。
誰かに連れられて家を出る時、振り返ると父は歌夜に背中を向けていて最後までこちらを見なかった。
だから顔も覚えてない。
あの時は二度と会えなくなるとは思っていなかったから
養父母の家に連れていかれ「今日からここがお前の
「喧嘩してるの聞いて、それ以来、歌うの
養父母は離婚してしまい、養母は一人で小さな歌夜を育てる事になった。
自分のせいで離婚する羽目になった上に、歌夜を養うために養母は一日中働かなければならなくなった。
本来なら施設に入れられても文句を言えない立場だと思うと申し訳なくてずっと負い目を感じていた。
「子供が可哀想だよ。もし子供が私みたいに〝聴こえる〟子供で、星次さんが気持ち悪いって思って出ていったら……」
「俺は絶対に捨てない! 俺だったら一緒に歌うよ! もしかしたらクラリネット吹くかもしれないけど。言ったじゃん、いつも音楽が聴こえるなんて最高だって」
「…………」
「俺は聴こえるの大歓迎だし、歌夜ちゃんがいらないっていうなら譲って欲しいくらいだよ。それが無理だとしても、そんな理由で歌夜ちゃんと別れる気ないよ。俺、本気で歌夜ちゃんも音楽も大好きだし」
星次がそういうと歌夜は黙り込んでしまった。
「盛大な結婚式、
婚姻届を出した帰り道、星次が言った。
歌夜は美人だからきっと白いウェディングドレスが似合うはずだしお色直しで色々なドレスを着ている姿を見たかった。
ドレスは女の子の憧れだから歌夜も着たかっただろう。
特にウェディングドレスは一生に一度きりだ。
しかし歌夜は、
「結婚式は、いらない」
ぽつりと答えた。
「え?」
「お父さんとの入場とか両親への花束
歌夜が寂しそうに言った。
離婚だから養父は生きているはずだが気持ち悪いなどと思っている養女の結婚式には来ないだろう。
「親戚とかもいないの? 実のお父さんは無理でも……」
「誰なのか分からないから……」
「え?」
「戸籍に載ってるの、全然関係ない人だった。だから誰だか分からないの。名前とか住んでた場所とか何も覚えてないし」
「…………」
星次は両親がいるものの音楽家になると言って
家族が来ないとなれば当然親戚縁者も来ないだろう。
出席者が友人だけでは家族同士の顔合わせの意味合いが強い結婚披露宴は必要ない。
プロポーズもあんなところで勢いに任せて言ってしまったし、指輪すらまだ買ってない。
歌夜のために何か一つくらいは喜ばせることをしてやりたいのだが……。
その時、携帯電話の着信音が鳴った。
星次はポケットから携帯電話を取り出した。
メールが届いている。
友人からだった。
「今日の夜空いてるかだって。予定ある?」
「無いよ」
「俺も」
星次がメールを返信すると、すぐに返事が来た。
「今夜来てくれって」
星次が飲食店の名前を言った。
「行ける?」
星次の問いに、
「うん」
歌夜は頷いた。
星次はメールを返した。
その晩、二人のために星次の友人達がささやかなパーティを開いてくれた。
「盛大な結婚式よりこっちの方がずっといい」
歌夜がそう言うと、星次は、
「俺も」
と嬉しそうに
職場で歌夜が帰り支度をしていると星次からメールが届いた。
駅前の広場で待っていると書いてある。
星次は今日、今度の日曜に出演する演奏会の練習に行っている。
一緒に帰ろうという誘いだろう。
わざわざ待ち合わせなんかしなくても家に帰れば嫌でも顔を合わせるのに。
そう思いながらも
星次は駅前で歌夜を見付けると近くの公園に連れていった。
「どこに行くの?」
「ここに座ってて」
星次はベンチを指した。
歌夜が座ると星次はクラリネットのケースを持って植え込みの前に立った。
クラリネットを取り出すと『愛の挨拶』を吹き始めた。
道行く人達が足を止める。
『エリーゼのために』や『ムーンライト・セレナーデ』など数曲吹いてから歌夜のところに来た。
「これなら恥ずかしくないよね」
星次が名案だろうとばかりに得意気な表情で言った。
「バカ」
歌夜は苦笑いした。
数ヶ月後、狭いアパートの一室で星次がクラリネットで『愛の夢』を吹いていた。
歌夜が困ったような笑みを浮かべながら、
「また近所の人から苦情が来るよ」
と言った。
「今日は、お隣も下の階も留守だから大丈夫だよ」
吹き終えた星次が答えた。
「そうやって恋人に演奏するの、なんて言ったっけ」
「セレナーデ。日本語で
星次の言葉に、
「小夜曲……じゃあ、もし女の子なら『
歌夜が言った。
「え、もしかして……」
驚いた表情の星次に歌夜が照れたような笑みを浮かべた。
「前に『愛の挨拶』を吹いてくれたでしょ。多分、あの日の……」
「やった! じゃあ、次は小夜のためにシューベルトの『子守唄』を……」
「まだ女の子かどうか分からないのに」
「子守唄なんだからどっちでも……」
星次の言葉は大きなノックの音で
「部屋で楽器の演奏しないでって何度言ったら分かるんですか!」
外から大家さんの怒鳴り声がして二人は首を
星次は大家さんに謝るために玄関に向かった。
「これが小夜か」
星次は白黒の超音波検査の写真を見ながら嬉しそうに言った。
二人で病院に行って帰ってきたところだった。
「星次さん、それ上下逆だよ。それにまだ女の子かどうか……」
「先生が女の子じゃないかって言ってたじゃん」
「多分、だよ。男の子だったときの名前も考えておかないと」
歌夜はそう答えながら、帰りに買ってきた写真立ての包装を
星次は超音波検査の写真を写真立てに入れている。
「それ、飾るの!?」
「だって小夜の初めての写真だし」
星次はそう言って写真立てを棚の上に飾った。
歌夜は病院のベッドの上で溜息を
つわりが
十二月になるとどこも第九の演奏会をする。
演奏会の数が多いため、楽団に所属していない演奏家も臨時で呼ばれる機会が増える。
ただ第九の演奏会は数が多すぎるので有名な楽団でも空席が出る事があるくらいだ。
まして普段でもチケットが売り切れないような楽団では小さなホールでもチケットを
その為、楽団によっては出演者にチケットの
ノルマが捌けなければ
それでも演奏会に出れば関係者に顔つなぎが出来るので本来なら生活を切り詰めてでも引き受けるところなのだが今は歌夜の入院費で余裕がないのでノルマがあるところは全て断った。
歌夜の入院代は
星次は今日、唯一ノルマが無かった演奏会に出演している。
「
歌夜が
窓辺に立って外を見ると星次が病院の門の前でクリスマス・ソングを吹いている。
時計を見ると、もう演奏会は終わっている時間だ。
病院の建物と門の間は広いロータリーになっているし、門の前は大通りだから苦情は来ない。
「この寒いのに。バカ……」
歌夜は
星次は門の前でクリスマス・ソングを吹き続けた。
「やっぱり女の子だった」
病室で星次が得意気に言った。
「名前、小夜でいいよね?」
星次が確認するように訊ねた。
元々歌夜が言い出したのだが気が変わったかもしれないと思って確かめたのだ。
「いいよ」
歌夜が小夜をあやしながら言った。
星次は携帯で小夜の写真を撮りまくった。
「どれがいいかな」
「え?」
「携帯の待ち受け」
星次がそう言って歌夜に写真を見せる。
「小夜を携帯の待ち受けにするの?」
「そうだよ」
「親バカ」
「いいじゃん、別に」
嬉しそうに写真を選んでいる星次を歌夜は苦笑いして見ていた。
歌夜は手紙を見て溜息を
保育園に入れないという通知だ。
これで何度目になるか分からない。
今は星次のバイト代だけで暮らしているからただでさえ家計が苦しいのだ。
妊娠中の長期入院で仕事を
働いていないとなると専業主婦と
しかし子供を預けられないと仕事も探せないという悪循環に
シングルマザーは優先的に入れるからペーパー離婚をしている夫婦もいる。
歌夜がペーパー離婚の話を持ち出したとき星次は断固として拒否した。
普段、歌夜の頼みなら何でも聞いてくれる星次がそれだけは強硬に反対した。
それくらいなら音楽家を諦めて就職するとまで言われてしまうと歌夜もそれ以上は主張出来なかった。
歌夜としても書類上だけとは言え離婚などしたくない。
人に言ったことはないものの本当は何よりも欲しかったのは家族だ。
書類だけだとしても手放すのは嫌だ。
とはいえ星次のバイト代だけでは食べていけない。
この状態が続いたら家賃も払えなくなって親子三人で路頭に迷うことになる。
待機児童が少なく子育て支援の手厚いところに引っ越そうにも、もうその金すら無い。
完全な手詰まり状態だった。
「こんな生活になっちゃってホントごめん。歌夜ちゃんのこと幸せにしてあげたかったのに……」
星次が車を運転しながら言った。
「星次さんは今、幸せじゃないの?」
「俺は幸せだよ! 歌夜ちゃんがいて、小夜がいて、それだけで十分だから! けど歌夜ちゃんには楽な暮らしをさせてあげたくて……」
三人は今、車で演奏会場に向かっていた。
他県で行われるのだが金がないのでホテルに泊まることすら出来ず、車の中で寝なければならない。
だから電車ではなく車で向かっているのだ。
「……映画みたいだね」
歌夜が言った。
「え?」
「前にTVで観た映画。車の中で暮らしながら全国で興行して回る家族の話。ああいうのも悪くないんじゃない?」
「歌夜ちゃん……」
歌夜の言葉に何度励まされたか分からない。
歌夜と結婚して子供まで授かることが出来ただけでお釣りが来るくらい幸せだった。
このまま音楽家になれなかったとしても十分すぎるくらい……。
そうだ……。
望んだのは名声でも肩書きでも賞賛でもない。
あの時、あの人の事は何一つ知らなかった。名前すら。
感動したのは演奏だ。
だから自分もクラリネットを始めたのだ。
子供の頃は吹いてるだけで満足だった。
歌夜は自分の演奏を聴いて音楽に興味を持ったと言っていた。
あの人と同じ事が出来たのだ。
それもこの世で一番大切な人で。
もうとっくに夢は叶っていた。
今の望みは歌夜と小夜に安定した生活をさせてやることだ。
この演奏会が終わったら仕事を探して就職しよう。
クラリネットは趣味で続ければいいのだ。
人に聴いてほしいなら公園で吹けばいい。
通りすがりの人だって立派な聴衆だ。
歌夜は歌が聴こえてきたのに気付いた。
いつもと感じが違う歌……。
何かすごく嫌な感じがする歌だ。
そう思うのと小夜が泣き出すのは同時だった。
やっぱり小夜にも聴こえてるの……?
小夜の泣き声を聞いて車を止めようとした瞬間、星次の目の前が暗くなった。
突然車が急加速し、歌夜はシートに押し付けられた。
歌夜が驚いて運転席を見ると星次は目を閉じて頭を垂れていた。
意識を失ったためアクセルペダルに乗せていた足が思い切り踏み込まれているのだ。
急な下り坂という事もあって車はどんどん加速していく。
スピードが上がるにつれて車の揺れが激しくなる。
「星次さん!? 星次さん!」
歌夜が星次の体を揺するが目を覚まさない。
前方を見ると遠くにあったはずの壁がすごい勢いで近付いてくる。
これでは壁に衝突してしまう。
しかし車の運転が出来ない歌夜には止める方法が分からない。
このままじゃ小夜も……。
なんとか小夜だけでも助けたい。
歌夜は後部座席を振り返った。
その時、白い森が見えた。
お願い、小夜を助けて!
助かった。
誰が、とか、どうして、とかは分からない。
ただ小夜の無事を本能的に理解した。
白い森はまだ見えている。
歌夜も助けてくれようとしているらしい。
小夜だけでいいよ。
歌夜は星次に抱き付いた。
星次のいない世界で生きていくのは嫌だ。
ずっと星次と一緒にいたい。
歌夜の想いを悟ったらしい。
白い森が消えた。
「星次さん、私、すごく幸せだったよ。ありがとう」
歌夜は意識のない星次にそう囁いた。
一人にしてごめんね、小夜。
どうか、あなたも私と同じくらい幸せに……。
小夜のために祈った瞬間、車が壁に激突した。
暗闇の中に光が見える。
どうやら星次が行くべき方向はそっちらしい。
そう思って足を踏み出そうとした時、歌が聴こえてきた。
これは前に歌夜が歌っていた歌だ。
あの時は聴き取れなかったのに何故かそれが分かった。
歌声の聴こえる方にも光が見える。
歌夜がいるのは歌が聴こえてくる方だ。
向こうに歌夜がいる。
星次は迷わず歌が聴こえてくる方向に進み始めた。
燃えさかる車の数メートル後方に小夜の乗せられたチャイルドシートが現れた。
遠くからサイレンの音が近付いてきた。
Door 月夜野すみれ @tsukiyonosumire
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