第3話『賭け』
それが夢だと、何故かはっきりとシェキルには分かった。
延々と続く草原を、啜り泣きのような声を上げて風が渡って行く薄暗い世界だった。
地平線の彼方にはどことも知れぬ山が連なって見えていた。星もなく太陽もなく。夜なのか曇っているだけなのか解らない暗さの中、シェキルはただそこに立っていた。
立っているだけで、見ているだけで、聞いているだけで、シェキルは自然と涙を流していた。
胸が締め付けられるようだった。
堪らなく寂しい場所だった。嗚咽が込み上げて来そうなほどに寂しい場所だった。
皆々、死んでしまった。誰も助かりはしなかった。
置いて行かれてしまった。助けることが出来なかった。
脳裏には、無邪気に笑顔を向けて来てくれる子供たちの顔がまざまざと浮かんで消えた。
胸元を握り締めて、その場に崩れ落ちる。
涙が止まらず、嗚咽が漏れる。
すまない、すまないと謝罪ばかりが口を出る。
そんなとき、ふと鼻先を甘い香りが通り過ぎた。
何が起きたのかと、シェキルは目を瞬かせて辺りを見回した。
酷く懐かしい香りだった。
シェキルは匂いの元を辿って歩き始めた。
一歩一歩。初めは倒れ込むのを遮るように足を出し。次第に急き立てられるように小走りになり、最終的には夢中で走っていた。
途中、様々な世界を駆け抜けた。寂しい草原を抜け、明るい花畑を抜け、極寒の冷たい白いものに覆われた世界を抜け、照り付ける日差しの熱い、大海原の広がる岸辺を抜け、小麦の草原が広がる畑を抜け、村を抜け、緑の匂いが立ち込める森の中に入り、そして、見つけた。
虹色に輝く、一輪の花を。
夢幻花だと、疑いもなく察した。
これがあれば、子供たちを悪夢から助けることが出来るとも。
夢幻花を使って『救う』ということがどういうことを意味するのか、シェキルはきちんと解っていた。語られぬ結末を知っていた。
故に己の考えが間違いだということも十二分に解っていた。
個人の許可も得ずに、そんな決断を下すことがどれだけ傲慢で恐ろしいことなのかも。
それでもシェキルは苦しむ子供たちを見ていることが耐えられなかった。
これはエゴだった。
だとしても、シェキルは救いたかったのだ。
だからシェキルは手に入れた。
眼が覚めたとき、シェキルは森の中にはいなかった。見慣れた天井を見て、それはそうだと納得した。だが、その手にしっかりと虹色に輝く一輪の花を握っていたなら話は別だった。
夢幻花? と呟いていた。
これがまだ夢の続きなのかと、思いっきり頬をはたいてみたら、涙が出るほどに痛かった。
夢じゃなかった。恐ろしく魅力的な甘い香りが部屋の中を満たしていることに気が付いて、次の瞬間には箱に詰め込み子供たちの元へと走っていた。
そして、言葉巧みに食べさせた。
誰もが物語を信じて、シェキルの言葉を信じて、目覚めたらどんな夢を見たか話す気満々で眠りに落ちた。
子供たちの顔を見回ってみれば、その眉間に苦痛の皴は刻まれていなかった。呻き声を挙げる者も、悲鳴を挙げるものも、魘されるものもいなかった。
いたのは、あったのは、幸せそうな笑みを浮かべた楽しそうな寝顔たち。
「嘘じゃなかった」
子供たちは幸せな夢を見ている。
時々寝言が上がるが、そこに恐怖はない。笑い声が上がる。
よかったと、シェキルは思った。
シェキル専用の椅子に腰を下ろし、膝に肘をついて組み合わせた拳に額を押し付ける。
涙が溢れて止まらなかった。
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
だが、これは、賭けだった。
夢幻花の物語の、もう一つの終わりに辿り着けるかどうかの賭け。
頼む頼む。勝ってくれと、シェキルは祈った。
心の底から。自分の命を代わりにやるから、どうか勝ってくれと。賭けに勝ってくれと祈り続けた。
一体どれだけ祈り続けただろうか。
全て子供たちの腹の中に納まり、甘い匂いが消えたはずの穴倉の中に、再び同じ匂いがし始めたのは。
何が起きたのかと顔を上げ、シェキルは目を瞠り、言葉を失った。
穴倉を照らすのは、土壁に点々と灯らせた蝋燭と、シェキルが足元に灯しているランプのみ。
しかし、今ここにもう一つ、輝くものがあった。
ぽう――っと、子供たちの額の上に浮かび上がるのは、子供たちに取り込まれたはずの夢幻花の虹色に輝く花弁。
それが、一つ二つ三つと、次から次へと子供たちから浮かんで来たのだ。
それらは暫く子供たちの上に揺蕩っていると、やがて一か所を目指して集い出した。
程なくしてそれは、一輪の夢幻花となった。
何が起きているのか分からなかった。
もしかしたら、また夢を見ているのかとも思った。
そんなシェキルの目の前で夢幻花は更なる変化を遂げた。
花弁が、枯れ始めたのだ。
急速に光を失い、汚らしい色となって萎れて散っていく。
驚きのあまりに中腰になる。
その目の前で、花の下から丸々とした緑色の球体が現れた。
それはゆらゆらと揺れながら、徐々に徐々に膨らんで行く。
「な、にが……」
と、掠れた声が漏れたとき、
「まさかこちらにきているとは」
聞き知らぬ淡々とした声が聞こえて来た。
弾かれるように真横を見れば、いつからそこにいたものか、フードで顔を半分覆った男が立っていた。
「だ、れだ」
と、誰何できたのは奇跡的なことだっただろう。
だが、その男がシェキルの傍を通り過ぎ、子供たちを踏まぬように間をすり抜け、夢幻花の下から現れた緑色の球体に近づく後ろ姿を見て、察した。
蜘蛛の巣が白抜かれた夜色の外套。それは――
「――『夢渡り』?」
終わりが二つある夢幻花の物語。そのどちらにも表れる『夢渡り』。
実った夢幻花の実である『
「実在――したのか」
やはり夢かと思う一方で、夢渡りが夢幻果に手を伸ばしたとき、シェキルは叫んでいた。
「やめてくれ!」と。「その子たちを連れて行かないでくれ!」と。
だが、夢渡りは聞こえてなどいないかのように、その身に触れた。
途端に、緑色の膜が弾け飛んで、神々しいばかりに虹色に輝く球体が現れた。
刹那、シェキルは見た。不毛な大地に降り立った凶獣に、様々な武装をした子供たちが傷つきながらも懸命に立ち向かう姿を。剣をもって勇敢に斬りつけるものもいれば、中距離からの飛び道具で気を引くもの、傷ついたものを魔法で助け、遠距離から攻撃するもの。
子供たちは言っていた。
必ず取り戻すと。
必ず全員で帰るのだと。
俺たちの帰りを待っているお人好しの語り部に、壮大な冒険譚を語り継いでもらえるようにと。
子供たちは戦っていた。
その姿がぐにゃりと歪む。涙が溢れて、胸が一杯になって。
シェキルは訊ねた。
「この子たちは大丈夫なのか」と。
直後、夢から覚めるように視界は穴倉の中に立つ『夢渡り』が立っていて、振り返ることなく、一言告げた。
「この者らは強い」と。
それが意味することはと、念を押そうとした瞬間だった。
『やったああああ!! 勝ったあああ!』
勝利の雄叫びが穴倉に響き渡ったのは。
あまりのことにびくりと肩を震わせると、既に『夢渡り』の姿はなく。
当然のことながら夢幻果もなく。
「ちょっと! 私凄い夢見ちゃった!」
「オレも!」
「ぼくも!」
先を争うように目を覚まし、興奮冷めやらぬままに喋り始める子供たちの姿だけ。
それを見て、シェキルは悟った。
子供たちが、賭けに勝ったのだと。
夢の誘惑に負けることなく、自分のために戻って来てくれたのだと。
シェキルは、唇を噛み締めて、何度も何度も頷いた。
「何泣いてんだよ」
ロイの呆れ返った声が聞こえたとき、シェキルは涙を拭ってこう言った。
「単にあくびをしただけだよ。おはよう皆。良い夢を見れたかな?」
その問いに、子供たちは元気に返事を返してくれた。
『夢幻花』――夢に捕らわれれば命を奪われ。
夢に打ち勝てば災厄が消え。
どちらの結末を迎えようとも、夢を養分に育った夢幻果を回収しに来
るのが『夢渡り』。
それは正に、夢のような奇跡をもたらすものだった。
終
夢幻花(むげんか)が実るとき 橘紫綺 @tatibana
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