第2話『夢幻花』

夢幻花むげんか』――という花がある。

 とてもとても甘く良い匂いのする虹色に輝く花で、その花弁を体内に取り込むことで望んだ夢を見ることができると言われている花だ。

「それ、ただの物語だろ」

 ロイが正気を疑うような目をシェキルに向けた。

 他の子供たちも、ロイとほとんど変わらない戸惑った様子でシェキルを見やる。

 事実。『夢幻花』という題名の物語があった。

 家族を失い、兄弟を失い、友を失い、仲間を失い。それでも、希望を託された少女が望みを叶えるために懸命に旅を続ける中、あまりの辛さに心が挫けそうになったとき、ふと甘い香りを嗅ぐ。

匂いにつられるように足を向けると、そこには一輪の虹色に輝く花が咲いていた。

少女は蝶が花に誘われるように、その花を手に取った。

 直後、少女の眼からは涙が溢れ、口元には忘れ去っていた笑みが浮かんだ。

 辛くて辛くて苦しくて。悲しくて、寂しくて、光も希望も失ったその心に、ぽわりと温かなともし火が灯ったようで。

 少女は、次の瞬間そうすることが予め決まっていたかのように花を口にした。

 まるで飴細工のような虹色に輝く花びらを、しゃくりしゃくりと噛み砕く。

 その度に、体の隅々まで失った熱が行き渡り。鉛のごとく重かった四肢が、体が軽くなるのを感じて――

 食べ終わると同時に少女はその場に丸まって眠りについた。

 そして――

 少女は、今は亡き人々と共に何の苦労もなく楽しく暮らす夢を見る。

 とてもとても長く幸せな夢を。

 辛い思いをしていた日々が悪夢だったと思えるほどに長く幸せな夢を。



 物語はそこで終わる。

 その後、少女がどうなったのか語られてはいない。

 それこそただの夢物語。

 誰も夢幻花が本当に実在するとは思わない。

 思うわけがない。

 だからこそ、ロイのもっともな意見も、子供たちの『何を言っているの』という無言の視線も当然のことで。

 ただ、その言葉を覆すだけの材料がシェキルにはあった。

「君たちが不信に思うのも仕方がないよ。でもね。もしも本当に夢幻花があったとしたら」

「ねえだろ!!」

 言い切る前に否定され。

 それでもシェキルは肩掛け鞄に手を伸ばし、手のひら大の小箱を取り出した。

 途端に穴倉の中に広がる甘い芳香。

 え? と誰かが戸惑いの声を上げ、匂いの出所を探すかのように鼻をひくつかせる中、視線はごく自然にシェキルの手中へと向けられた。

「なんかそこからおいしいにおいがする」

「クッキー? ねえ、クッキー?」

「え? お花の匂いじゃないの?」

「バニラのにおいでしょ? お腹減って来た」

「ミルクアメみたいに思ったけど、違うの?」

「でも、ミルクとかバニラのにおいとも違うくない?」

「ねえ、シェキルさん! それなあに? 何が入っているの?!」

 興味津々に目を輝かせる幼子たちに、愛おしげな微笑みを向けてシェキルは箱を差し出した。

 右手を蓋に乗せ、ほぼ全員の注意を引きつけながら、シェキルはゆっくりと蓋を外しにかかる。中の物が壊れないように慎重に。

 誰もが固唾をのんで見守る中、甘い香りは徐々に強くなり、やがて箱の蓋が完全に外されたとき、『え?』と、子供たちの眼が真ん丸に見開かれた。

 中に納められていた、虹色に輝く一輪の花を目にして。

「しぇ、シェキルさん? この花って……」

「むげんか?」

「え? 本物?!」

「本当に、本物?! 食べられるの?!」

「偽物に決まってるだろ!」

 色めき立つ一同を一喝したのはロキ。

「でも、いいにおいするよ!」

 ムッとした女の子が反論する。

「おはなしとおなじだよ!」

「それでも! あるわけねぇだろ! どうせ作りものだろうが!」

「本当に、そう思うかい?」

 断言するロキに対し、シェキルは静かに問い掛けた。

 焦ることなく問い掛けられ、静かに見詰められ、ロキはたじろいだ。

「確かに、君が否定するのも無理はない。むしろ、君がそう思うのは当然だろう。

 でもこれは、おそらく本物の夢幻花だよ」

「信じろって、言うのかよ」

「ああ。信じて欲しい」

「馬鹿ばかしい。どうやって作ったか知らねぇが、偽物なんだろ」

「そう思ってもらっても構わない。僕だって実際に口にしていないからね。

 でも、もしもこれが『本物』だったとしたら?」

「っ!」

「もしも本物の『夢幻花』だとしたら、君はどうする?」

「~~っ」

「もしもコレが本物で、これを口にしたら、悪夢に苦しむことなく心穏やかに眠れるのだとしたら? 物語のように、自分の望む幸せな夢を見られるとしたら?

君たちは、どうしたい?」

 そのゆっくりとした確認に、子供たちは沈黙したままシェキルの持つ箱の中身を注視した。

 ごくりと誰かが生唾を飲む音が穴倉に響き渡る。

 今となっては、ただただ安心感を与える甘い香りが子供たちの肺腑をすっかり満たしていた。

 ぐぅぅぅと、遠慮気味な腹の音。

「騙されてみても損はないと思うよ?」

 そっと背中を押す言葉に、幼子たちは逆らえなかった。

「ぼくたべたい!」

「あたしもたべる!」

 複数の花弁を持つサルレアに似た虹色の花。

 その花弁に小さく痩せた手が伸ばされる。

 恐る恐ると言った様子で、一片だけ摘まみ、プツリと千切る。

 裏表を見て、匂いを嗅いで、ちらりと一度シェキルを見やり、衆人環視の中、幼子はあ~んと口を大きく開けて、パクリと花弁を口にした――瞬間。

「おいしい~!!」

 嘘偽りのない感想を口にした直後だった。

「ぼくもたべる!」

「あたしも!」

 子供たちは弾かれたように夢幻花に手を伸ばした。

 警戒心も何もない。むしろ、食べた子供たちは誰もが皆一様に幸せに満ちた笑みを顔いっぱいに浮かべ、頬を上気させて喜んだ。

 すでにその眼は夢心地。

「あ~、これだけ美味しいと、本当に良い夢が見られそう」

 どこかうっとりと呟く少女。

「むしろ、この気持ちのいいのが消えないうちに眠っちゃいたい!」

「解る! 私もそうしたい」

「ぼくもねる!」

「いいゆめみる!!」

 寝よう、寝ようと、子供たちは互いに誘い合って、せめて慣れ親しんだものとして持ち込んだ布団の中へと潜り込んで行く。

 それをロイはただ茫然と眼で追った。

 言葉すらなかった。

 その顔に浮かぶのは、置いてきぼりを食らって途方に暮れた幼子のようなもの。

 追随したいけれどできない葛藤がさせるもの。

「大丈夫。君は独りじゃないよ」

 静かに声を掛ければ、ロキは救いを求めるような眼でシェキルを見て来る。

「さあ、騙されたと思って食べてみて。偽物だったら、起きたら思いっきり怒っていいから」

「…………るのか?」

「ん?」

「いる、のか? 起きたとき、あんたは、いるのか?!」

「いるよ」

「いつもいないくせに!」

「でも、今回はいるよ。普段だって異変があればすぐに駆け付けていたと思うけど」

「でもいなかった。眼が覚めた瞬間、いなかった!」

「ごめん。でも、今回はいるから。君たちの見た楽しい夢を聞かなくちゃいけないからね。

 だから、お食べ。残っている分全部食べてもいいから。

 本当は僕も一緒に食べてみたいけど、僕が皆より遅く起きたら君たちを見守ることができなくなってしまうからね。君の傍にいるよ」

「嘘つき」

「嘘は吐かないよ」

「嘘だ!」

「どうして?」

「どうして――って。だって、家族すら会いに来ないのに! 怖がって、来ないのに! なんであんたは! 赤の他人のあんたが! ここにいるんだよ! なんで親身になって通って来るんだよ! なんであんたは、俺たちのことを気にしてくれるんだよ! なんで」

 ボロボロと涙を零しながら、ずっと胸に抱えていた不安をぶちまける。

 シェキルは慈しみを込めて眼を細めた。

「君が、僕だからだよ」

「え?」

 誰も近寄っては来なかった。

「君が僕だから」

 泣いても喚いても、誰も助けに来てはくれなかった。

「あの日、身内すら見捨てた僕を抱きしめてくれた人が居たから」

 自分のために泣いてくれる人がいた。

 可哀想だと自分のことのように慰めて話し掛けてくれた人がいたから。

「とてもそれが心強かったから」

 絶望を紛らわせるかのように、沢山の物語を語ってくれた人がいたから。

「だから、放っておけなかった。どうにかしたかった。

 具体的にどうすればいいのかなんて解らない。

 解らないけれど、誰からも見捨てられているとは思ってほしくないから。

 偽善だと思われても、お節介だと思われても、本当に辛いとき、傍にいてくれる人がいるってことがとても力になることを知っているから。

だから、安心して。約束。僕は今日、ここにいる。皆が起きるその時まで。

 だから、お食べ。そして、良い夢を見るんだよ。君が望む君だけの幸せな夢を。

 そして、起きたとき教えてくれるかい? どんな楽しい夢を見たのか。

 君たちには、安らかに眠る権利がある。悪夢に怯える必要はないんだ。

 その手段を手に入れた。だから、騙されたと思って食べてみて」

 促すように箱を差し出す。

 ロイは、止まらない涙を拭いながら、しゃくりあげつつも手を伸ばした。

 箱の中に残った無残な花の残骸を、しっかりと掴んで頬張った。

 もぐもぐと咀嚼して、ゴクリと音を立てて飲み込んで、そして、

「――――美味い」

 呆然と呟いた。

 涙がピタリと止まり、徐々に赤くなった目元や口元に笑みが浮かび、

「美味いよ、これ」

「良かった」

「なんか本当に、良い夢見られそう」

「うん」

「約束だぞ」

「うん」

「必ず、俺が起きたとき、ちゃんと、いろよ」

「ああ。いるよ。必ずいる。だから、安心してお眠り」

 促すと同時に、ロイの体から力が抜けて、身を任せるようにシェキルの腕の中へと倒れ込む。

 そんなロイを抱き留めて、シェキルは言った。声を震わせて、


 ――ごめんね。


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