4.二人の世界へ

 あてもなく馬を走らせる。


 もうすぐクランベル領から出る。その矢先、俺は手綱を引いて馬を止めた。


 ある方向に目を奪われたからだ。


 奪われた先にあるのは、クランベル領で最も景色が美しいと称賛される、レクイエア湖。


 エリナがクランベル領で一番好きな場所でもある。


 もしかしたら……。


 俺はゆっくりと馬を歩かせた。


 ただの感だ。


 エリナがいる保証はどこにもなく、いない可能性の方が遥かに高い。


 それでも期待してしまう。


 期待をしてしまう分、足取りが重かった。


 レクイエア湖に着くと、馬の手綱を木に縛り付け、湖の水が足に触れそうになる距離まで近付いた。


 人の気配のない、静かな湖だ。


 揺れのない水面は、月の輝く夜空をそのまま映し返している。


 飛び込めば、同じ月を持つ、もう一つの世界へ行ける。


 そう思わせるほどに湖は澄んでいた。


「思い過ごしだったか……」


 誰もいない湖から踵を返そうとした時だった。


 静かだった森が騒ざわめいた。


 鳥たちがバサバサと空へ飛び立ち、湖の魚が水面に波紋を作った。


 そして、視線が背中に注がれた。


 俺はすぐに振り向いて視線を注ぐ者の名を呼んだ。


「エリナ!」


 エリナは優しい笑顔を見せて俺に言った。


「お久しぶりです。お兄様」


 俺の予想が当たったのか、それともエリナが俺を見つけて会いに来てくれたのだろうか。


 ……そんな疑問はどうだっていい。


 エリナは湖にいた。


 いてくれた。


 その事実さえあれば。


 そして……今、俺がすべきことは……。


「一緒に逃げよう。誰も俺たちを知らない、二人だけの場所へ」


 共にセレナ王国を去ることだ。


 だが、俺の問いに、エリナはゆっくりと首を左右に振った。


「ごめんなさい……お兄様。エリナは……お兄様との約束を……守れま……せん。お兄様に会い、に……来たのは、約束を守れ、なく、なった……こと、への謝罪と、お願い、があって……きまし、た」


 途切れ途切れの言葉、エリナは苦しそうな表情を見せていた。 


「俺に、お願い……」


「はい……エリナを、お兄様が……大好きな、まま……眠りにつか、せて……ほしい……の……です」


 エリナの言っている意味は直ぐに理解できた。


 淡い紫色だった髪が、漆黒へと染まりつつある。


 体のいたるところに、蒼く光る痣が浮かび上がっている。


 この蒼い痣は、アフロディーテである証。


 抑えきれない膨大な魔力が炎症を起こすことで、肌に現れるとされている。


 優しい笑顔を俺に向けているが……手が、足が、強く痙攣を起こしている。


 それを悟られまいと、必死に体の動きを止めようとしている。


 限界が近いのだ。


 エリナであることに。


 俺が腰の剣を抜くと、エリナは小さく口を動かした。



 ——あ・り・が・と・う——



 もう、声を音にすることもできない。


 守るために振り続けた剣は、ゆっくりとエリナの腹部を貫いた。


 剣から腕に、命が消えていく感触が伝わってくる。


 エリナから剣を抜くと、俺はその剣で自分の首筋を切りつけた。


 自分のしてきたことは間違っていたのか。


 温もりを失っていくエリナを見つめながら、自分の過ちを探し始めた。


 だが、全ては無意味。


 後悔も。


 懺悔も。


 だからせめて、約束を守ろうと思う。


 それが、二人の望む形でなかったとしても。


 俺はエリナを抱きかかえ、ゆっくりと湖の中へと入っていった。



 そこは



 誰も知らない



 俺とエリナだけの世界

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悪役令嬢の為に 序 ハジ @kga55

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