──泡沫夢幻──

トム

──泡沫夢幻──




 ──Pi……Pi……Pi……。



 規則正しい機械音が部屋に響いている。ふとその音に気づいて重くなった瞼を持ち上げると、見慣れた白で統一された虫食の石膏ボードが張られた天井が視界に広がった。視線を右にずらして見れば、そこには幾つもの機械が意味のない数値をずっとそのモニターに映し出している。オシロスコープのように波打つ曲線や、一定間隔で跳ねるように上下に移動している曲線。……横に並んだ数字はその曲線を読みやすく可視化したものだ。その機械から幾つかのコードが伸び、私の胸や頭部に色々な方法で取り付けられている。胸には粘着性の有るパッドで。頭部には細くなった針のようなもので。それが取り付けられている為に、上半身は器具で固定され頭部がズレないようになっている。胸に取り付けられた粘着パッドが少し蒸れてむず痒い。かと言って、今の私にはそれを取り外すことは出来ない。何しろ腕には二本のチューブが繋がっていて、動かそうものなら即座にけたたましい警告音が鳴るからだ。


 既にこのベッドで横になってどのくらい経ったのかもう覚えていない。もしかするとずっと最初からこうだったのかもしれない。時間の感覚は既に朧気で、今何故ここでこうしているのかと考察を始めれば、幾らでも時間を使えるだろう。


 そんな事を考えていると自嘲の念が込み上がってくる。……時間。そうだな、今の私にはその程度しか出来ることはない。今の私は指一本すら自力で動かすことはもう出来なくなってしまっているのだから。床ずれ防止の為に固定具は一定時間で自動的に感覚のない下半身ごと移動させてくれる。食事の摂れない体にはチューブから常に送られる点滴によって賄われている。カテーテルによって尿排泄は常に管理され、便排泄は一定時間で処理してもらえる。


 ──ただ呼吸しているだけ。


 そう、ただ呼吸しているだけなのだ。言葉を発せなくなったのは何時だったろう。自身の意志を他者に伝えられなくなったのは何時からだったろう……。


 記憶はいつも曖昧だ。それは人間という生物が、記憶を正確に留めないという事によって、唯一幸せになれるから。


 だが今の私にとって、それはあまりに残酷だ。他者との意思疎通が出来ない私にとって、自身の記憶が唯一、他者との関わりを実感出来る物なのだから。



 こんな私にも親というものが存在している。当然だ、人間は人間から産まれてくる物なのだから。何年前だとかどんな時代に産まれたかは曖昧だが、私が産まれた事を両親はとても喜んでくれた。父母は結婚してから長い間、子を授からなかった。それ故の長く辛い不妊治療の末に出来た私は、母の高齢であっても産みたいという強い意志によって出来た初めての子供だったのだ。年老いた祖父母に至っては望外の喜びだったことだろう。私はそんな風に望まれて生まれることが出来た。その後母は産後の肥立ちが悪かったせいで、以降の子は難しくなってしまったが、命までは失わなかった。それから私はそんな大好きな両親のもとで健やかに育てられることになる。祖父母が資産家だったお陰で両親は金銭に不自由することはなく、また会社を幾つか経営していた為に所謂、御曹司となった私は何不自由なく色々な物を与えられ、様々な経験を積ませてもらうことが出来た。かと言って我儘や、傲慢になる事は両親にきつく諌められたおかげで、そう言った偏見を持つことなく成長できたことは非常に感謝している。産まれて一歳になる頃には母が私に教育係のような者を連れてきてくれ、保育所や幼稚園には通わず、小学生に上がるまで彼らに情操教育を施してもらった。


「ねぇ、好きってなに?」

「大切に思う気持ちですよ」

「……それは父様や母様がいつも言っていること?」

「そうですね。それもございます。ですが他にも沢山の、好きという物がございます」

「たくさん?」

「はい。御父上や御母上を思うのとはまた違う、大切にしたいと思う気持ちも、ございます」


 まだ小学生にもなっていない私に彼は、結構難しいことを教えたんだなと思い出して、心の中でクスリと気持ちが和らいだ。彼にとってそれ程に大切な言葉で在ったのだろう。それを私にもどうしても真摯に伝えるために、あの様な物言いになってしまい、当時の私は困惑したのを思い出す。それから後、彼には質問をするのに少し考えるようになっていった。彼の考えを理解できない自分が少し、もどかしかったからだろう。幼い私にそんな思いをさせた彼は、最初に尊敬できた人だと思う。


 小学生になった私に、初めて同年代の友と呼べる者が出来た時、両親はすごく喜んでくれた。しかしそれは私にとって、とても不本意な友人だったと今も考える。私が入学したのは所謂、小中高一貫教育のエスカレータ式で巷では有名校だったが、彼はそんな中にあってかなり粗野というか、かなり乱暴な態度の目立つ男だった。今考えれば、ただ我儘な子供だと言い切れるのだが、当時の私はそれがどうしても許せなかった。理由は簡単で、彼は何人かの取り巻きを連れて居たのだが、その者達と常に徒党を組み、廊下を広がって練り歩き、邪魔だと言ってそばに居るものに横柄な態度で接する。気に食わなければ目上の者であっても怒鳴り散らし、果ては自分の家名を名乗って恫喝する始末。まるで自分とは対局にいる存在だと感じて、嫌悪した。……だけど本当は違う、本音としては羨望が先に在った。誰憚ることなく我が道を行く彼が、私にとっては輝いて見えて仕方なかったのだ。だからだろう、事ある毎に彼に言い掛かりをつけては、生まれて初めて喧嘩というものを経験した。彼にとってもそれは初めての経験だった。何しろ今まで自分に対して、反抗してくるものは居なかったのだ。故に彼も私に張り合い、意見が対立する毎に言い合いとなって、互いに顔を腫らすこともしばしば起きたのである。これはこの学校ではとても珍しい事だったようで、互いの両親がすぐに呼び出され、理事長室での話し合いになったそうなのだが、両親は事もあろうか、その事を笑い飛ばしてこう言ったのだ。


 ──たかが子供の喧嘩に目くじら立てる大人がどこに居る? 


 その言葉に呆気にとられた理事長と、同じ様に大きな声で笑い出す彼の両親。故に意気投合してしまった両家は家族付き合いにまで発展し、気付けばビジネスパートナーにまでなっていた。すると周りは私と彼をどう見るか……。彼の周りに居た取り巻きは何時の間にか数を減らし、私の側に居た友人手前の者達も離れていった。そうして小学校の六年間、ほぼ友と呼べる者は彼以外居なくなり、そのおかげで独りで時間を潰す方法を、たくさん覚えてしまった。彼の方も取り巻きが居なくなったせいで、廊下を広がって歩く事も出来なくなり、反抗するのも面倒になったのか、気付くと二人、図書館で読書をする機会が増えてしまった。


「……おい、今日は何の本を読んでいるんだ?」

「──江戸川乱歩。怪人二十面相だよ、君は?」

「銀河鉄道の夜。……お前はいつもミステリばっかだな」

「そうかな? そういう君は冒険物がお気に入りのようだけど」

「俺は頭を使ってあれこれ考えるより、見たこともない景色を見たり感じたりしたい。今はまだ子供で実現出来て居ないけど、ここを卒業する頃には十八だ。その時には世界を回ってみたい」


 その言葉を聞いた時、落雷にでも打たれたような感覚が、全身を駆け巡った。私達は当時小学生の最終学年。周りにいる、所謂小学生達より大人びていた事の自覚はある。だがそれでも。将来は何がしたいかと聞かれて考えたのは、親の仕事を継ぐのだとか、会社を持ちたい程度の抽象的な答えだった。それなのに彼の言葉は違った。それは明確な思いで有り、実現可能なはっきりとした目標だ。世界を見て回る。景色を見たりその場での出来事を感じたい。それは十を過ぎた程度の子供の発言か? 私はその瞬間から彼に対する印象がガラリと変わっていった。


 やがて交友関係の少ない私たちは、いつの間にやら本の虫となり、世間一般の者達とは、ずれた第二次成長期を迎えていた。


 中学二年の夏休み、私と彼は噎せ返るほどの熱気をひたすら跳ね返すアスファルトを睨みながら、目的地までの道を無言で歩き続けている。本来であれば運転手付きの車で向かえば良いが、何故か二人だけでその場所に向かってみたかったのだ。公共交通機関の乗り方を教えてもらい、ノートに電車の路線図まで書き込んで、二人であーだこーだと言い合いながら、気付けばノートは真っ黒になっていた。


「──ふぅ、さっきの駅からここまで五分程度のはずだったのだが」

「……かれこれ二十分は経ってしまったな」


 まさか上り坂が続くなどとは思いもしなかった。


「──一つ聞きたいんだけれど」

「ふぅ、ふぅ。……なんだよ」

「いや、今回の件には僕も賛同したし、この選択も間違いだなんて、今も微塵も思っていないんだ」

「……だから、なんだ! 勿体ぶらずにはっきり言えよ」

「……夏ってこんなに暑いんだね」

「──っ、……それについては同意するぜ」


 そこから更に十分程歩いた頃、目的地が道の先に見えてきた。


 そこはとある街にある小さな古書店だった。街中にある書店などとは違い、間口は一間もないだろう。入口前にはワゴンに山と積まれた文庫本がみっちりと詰められ、添付された紙には『一冊百円』と掠れた文字がなんとか読める程度。二人並んで入るなど出来ようもなく、一人であっても横向きに歩かないと、入る事は出来そうにない。ふと入り口から覗き見れば、薄暗い店内は天井近くまで本棚が続いていて、その棚全てにぎっしりと古書が詰め込まれていた。


「ここだ」



 ──館林古書店。


 店舗入口の上部に張り出した緑色だったはずのくすんだテントには、これまた掠れて消えそうになった白い文字で、そう書かれている。一見するとその文字は隷書体のように見え、店の奥に座っているだろう老獪な店主を思わず想像してしまう。


「おい、入らないのか?」


 テントを見上げ、ついぼーっと立ち尽くす私を見た彼は、思わずそんな事を聞いてくるが、直ぐに頭を振って入り口の引き戸に手をかけた。



 ──あら、可愛いお客さん達。



 薄暗い蛍光灯の下、並んだ本棚の一番奥に、その店主は小さな机に座って、こちらを見ていた。老獪な翁か老婆を想像していた私は、その声に狼狽え、認識が一瞬遅れたが、その声音の元を辿って更に目を疑ってしまう。


 そこにはセーラー服を着た、私達とほぼ年齢の変わらぬ少女が、座っていたからだ。


「……何だ、早く入れよ。見れな……若い店員さんだな」

「あはは、私は唯の手伝い。ここの店主はおじいちゃんだよ。大体、私は本読まないからねぇ。でも、こんな古い本しか無いお店に、君たちみたいな、可愛いお客さんが来るとは」

「はぁ、そういうあんたは幾つなんだよ。俺達はこれでも中二の十四歳だ」

「あはははは! じゃぁやっぱり可愛いお客さんだよ、私はこれでも高二で十六歳です」


 一体何をそんなに張り合うのだと頭の片隅で思うものの、彼の言葉に反応した彼女の顔を、私は今も覚えている。


 その笑顔はまるで向日葵のように明るく、私の心の中心で何時もいつまでも色褪せる事はない──。



 ふと、そんな事を思ったのが、いけなかったのだろう。想い出という、暖かいぬるま湯に浸かっていた気持ちが突然、不規則に変わった電子音で現実に引き戻された。


「…………。」


 重くなりつつある瞼を開くと、自身の横に設置された大げさな機械が赤いランプを明滅させて、なにやら警戒音を鳴らしている。……実に耳障りで不愉快だ。だがそうだと言って今の自分にその機械を止める手立てなどは持ち合わせていない。まして、煩いからと耳を塞ぐことさえ叶わない。ただじっとその憎い装置を睨めつけ、心の中で「黙れ」と抗議の念を送るだけ。


 ──人生の最期なんだ、こんな時くらい、思うようにさせてくれないか?



「……それで、お前は納得するのか」



 唐突に、その声は私の部屋の、暗がりから聴こえた。


 何だ? 誰だ? 納得? 一体何のことなんだ?


 頭の中はそんな疑問符で埋め尽くされていく。だがしかし、最も肝心なことを私はこの瞬間失念していた。しかし、その声はお構いなしに続けてくる。


「そんな風に、ただ思い出に浸って、逝くだけでいいのかと聞いている」


 ──は? 誰かは知らんが、私の状態を見て、その様な事を言っているのか? そんな皮肉にもならん事を私に言っても、何の得にもならんと思うが。


「……皮肉など言うつもりはない。それに俺はお前がどの様になろうと構わないしな」


 ふん、──まぁ、私も貴様が何者かは今の遣り取りで見当はついたよ。


「ほう、流石と言って欲しいか」


 


 ──死神。

 人の死に近づき、その魂を奪い去る者。冥府の使者……大鎌を持つ髑髏。死の番人etc…。はは、一瞬自分の死期に耐え難くなって、妄想から、とうとう気でも触れたのかと思ったが、ここまで会話が成り立つと、そうも言ってはいられない。まさか自分がこんな荒唐無稽な存在に出会えるとは、昔の私なら飛び跳ねて喜んで居ただろう。実際今も胸の内は恐怖よりも好奇心で一杯だ。そんな事を考えていると、ソレも私の気持ちに気付いたのか、クツクツと噛み殺した声で笑い出す。


「……クフフ、まさかここで喜ばれるとは、思っても見なかったぞ。まるで子供のようだな、お前は」


 ……あぁ、そうだな。確かに子供のようにはしゃいでいる。だがそれは貴様が話しかけるまで、いや、この煩い機械が騒ぐまで、振り返っていた時期が丁度、多感な時期だったからかも知れん。想い出とはその時の気持ちも一緒に揺り起こしてくれるモノなのかもな。


「はっ、えらく高尚な語りだな。唯自分の初恋を思い出して、心拍数を上げただけだというのに」


 

 ──そう、最も肝心な部分の失念……。それはこの機械が鳴り出した原因について、コイツは納得するのかと聞いていたのだ。三橋杏子(みつはしきょうこ)。私が生まれて初めて「恋」を知った女性。


 何故彼女を好きになったのか。笑顔が素敵だったから。快活だったから。あけすけな性格が心地よかったから……。その総てが後付だ。理由なんて無かった。ただ、見とれた。いや、見惚れた。その瞬間に私はどうしようも無いほどに、焦がれてしまったのだ。正しく恋に堕ちてしまったのである。


 ──なのに。


 ……その恋が実る事は無かった。


 初恋は実ることが無い方が多い、自分自身が奥手だったから。……そのどちらでもない。彼女が選んだのは私では無かっただけだ。知ったのは大学を卒業し、父の会社に入って半年が経った頃だ。朝のニュースを聞き流しながら朝食を摂っていた時、海外の飛行機事故の速報が入った。その中で呼ばれた日本人リストの中に、二人の名前が有ったのだ。そこで初めて自分の失恋と、大切な友を失った事を知った。


「────。」


 恐らくその時から……本当の意味での恋も、親友も持たなくなった。そして数年後、私は結婚した。友人など呼べば、数百人程度が世界中から、集められる程になった。子供は既に成人し、立派に会社を継いでくれた。今、孫が何人居るのか、自分では既に数えられないほど居るだろう。子を産んでくれた妻は既に先立ってしまった。当然だが、彼女の死に目に合うことは無かった。


 最期の最期まで、彼女に私は「愛している」と心から伝えられなかった……。


 あの時から……私はこの世界に生きている気がしなかったから。全てが空虚で、嘘くさかった。見るもの全てが無味無臭となり、全てが灰色になっていったから。


 ──そう、それは泡沫夢幻ほうまつむげん。人の世は夢現ゆめうつつの中にあり、醒めれば総ては泡と弾ける。


 ……そうだろう、死神よ。冥府の使者よ、この世も地獄の一つなら、あまりに無慈悲な地獄だな。徳を積むのも、悪を重ねるも自由とは。悪辣極まりないとはこの事だな。


「……夢幻泡影むげんほうえいとは考えんのか」


 貴様! 言うに事欠いてそう返すのか! それが死に逝く者への経だとでも言いたいのか! 貴様は奪う者だろう! 無慈悲に狩れば良いだろう! 何故だ! 何故貴様がそんな事を言うんだァァ! 杏子を奪ったくせに! 先に勝手に死んだくせに! なんで! なんで今さら! うぅぅぅぅぅ!


 本当は気が付いていた。そこに立つ髑髏は、襤褸を纏って立つコイツが、ずっと俯き、小さく震えながら話している事を。髑髏になっても変わらぬその声で、ずっと苦しげに話していた事を。


「違う! 俺は彼女を奪っていない! ……頼まれたんだ! お前に贈るプレゼントを、彼女自身で手に入れたいと! だから、だから一緒に向かったんだ」


 ──! 何を! 何を今更そんな嘘を付く必要がある?! お前が彼女に惚れていたのは知っているんだぞ!


「あぁ! 惚れてたさ。でもな、とっくに俺は振られてたんだよ! 彼女は初めからお前が好きだと言っていた! だからどうしようもなく、悔しかった。だが、俺は彼女と決して何もなかったぞ! あの日だって、お前が仕事で手に入れられないからと、わざわざ海外まで行って、サイン本を手に入れようとしていたんだ! なのに。……あんな事に遭っちまって」


 

 ──その話を聞いた途端、俺の記憶の奥に眠っていたその瞬間が蘇る。


「あぁ! まさかあの作者が自分で発売記念イベントをするなんて! しかもサイン本で売ってくれるんだよ。こんなの奇跡じゃないか」

『あはははは! 相変わらずの本の虫だねぇ、君は。……でもそれって彼の本国でのイベントでしょう?』

「そうなんだよ。まだ入社して半年もしていないのにいきなり私用で有給は流石にコネでも目をつけられるからな」

『コネって……お父様の会社でしょうに』

「いや、父はそういう事はきっちり分ける人だからね。ちゃんと入社試験も受けたよ。でもやはり知ってる人は多いからね。コネも同然さ」

『へぇ……。そうなんだ』

「あぁ。だから、それを見返すためにも、今はきっちり熟さないといけない。……くぅぅ! でもこんな事もう二度と無いだろうしなぁ」

『……ねぇ。その本、そんなに欲しいの?』

「……ん? あぁ、忘れたのかい? 君が初めて教えてくれたミステリー作家じゃないか」

『……あ~!』

「本当に君は本に興味がないなぁ」

『あはははは! そう──』


 ……その直後、私はあるプロジェクトに放り込まれて、昼夜なく働いていて、あの朝のニュースで、事故を知ったのだ。


 開いた瞼の隅から涙がポロリ、ポロリと流れ始める。言う事をきかなくなったこの身体では、止め処なく流れるそれを拭うことは出来ない。そしてどうしようも無い程に押し寄せてくる慟哭。声すら出せぬこの体、ただ口を開き、震え、抑えきれぬ激情のままただ静かに涙だけが止まらない。後悔と痛惜がないまぜになり、喉が強烈に痛みを訴えてくるが、それでも留まることなく涙が溢れ、何時しか噎せて吐血する。


「おい、それ以上自分を責めるな。もう体はとうに限界を超えているのだ、まだ時間はあるのだぞ」


 時間だと? そんな物、今更気になどなる訳が無いだろう。もう良い、もう俺を連れて行け! どうせ碌な人生ではなかった。後ろ指すら刺されてきた。何処へなりとも持っていけ!


「──未だ、お前の見える景色は灰のままか?」


「お祖父ちゃん!」

「お祖父様!」

「父さん!」

「じいじ!」

「会長!」


 ふと、耳に何やら大勢が犇めき合って私に語りかけてくる。気がつくと涙など一滴も溢れてはおらず、どころか瞼すら開けていなかった。


「………。」


 変わらず、重くなった瞼を持ち上げると、その瞬間に眩い光が、落ち窪んだ眼に差し込んだ。その眩しさに一瞬頭がクラリと揺れたが、なんとか持ちこたえて、薄目を開いて目を開けると、明るい日差しの病室に、泣きはらした目をした我が孫たちが眼前に居た。彼等、彼女らは光り輝き、眩いばかりに光と色を纏っている。その向こうには息子たちが、更に向こうには友人が、幾重にもなって犇めいていた。




 ──光が、輝いていた。色とりどりに、鮮明に。開いた窓からは優しい風が凪いできて、皆の頬をなでていく。


 私が気づき、目を開けたのが分かったのだろう、回りに居た孫たちは騒ぎ出し、子供達も色めき立っている。そんな皆をゆっくり見廻していると、何とも言えず感慨深く思ってしまう。


 私は今迄何を見ていたのだ。いや、見ていなかったのだ……。


 幸せはずっと此処にあったのだ。


 私は幸せ者だったのだ。


 ──愛していたのだ。皆を、子を、孫を。友人を……。そして……君を。


 ベッドの脇に設置されたテレビ台のテーブルに、その写真立てはずっと飾られていた。隣には一輪挿しが置いてあり、君の好きだった、秋桜が挿されている。写真立てにはまだ若かった頃の私と君が、二人だけ。それを見ようと手を動かすが既に力は入らない。すると、一人の孫がそれに気付いたのか、「ん? この写真が見たいの? お祖母ちゃんとの写真だよ」と言って、目の前に持って見せてくれる。


「……ぁぁ、ぅぅぁ」

「え? なに?」


 今年、高校生になったばかりの孫が、写真に話しかける私の声が聴こえなかったのか、顔を近づけて聞いてくる。それに反応しようと視線を移動した時、初めて窓辺に立つ君に気がついた。写真と同じ服装で、写真と同じ年齢で。そこに静かに立っていた。


「お久しぶりね、あなた」


 あぁ、久しぶりだね。もしかして、さっきの事見られていたかな。


「……少し、妬けました。でも、杏子さんにはお会いしましたから、沢山お話できましたよ」


 そう、か。……少し、いや、かなり恥ずかしいな。


「ふふふ。そんな事、初めて聞きましたよ」


 ……すまなかった。ずっと、周りを拒絶し、殻に閉じこもって、私は何も見ていなかったようだ。


「…………。」


 何故かその言葉に、プクリと彼女は頬を膨らませる。どうしたと尋ねて返ってきたのは、「そんな言葉は聞きたくないです」見透かされていた。いざとなると、やはり恥ずかしさが前に出てきてしまったのだ。……だがそうだな。こればっかりは、はっきり言わないといけないな。


「──響子さん、愛しています。ずっと言えなくてごめんなさい」


 その瞬間、凪いでいた風が一度、強く吹いた。カーテンが捲れ上がり、彼女の顔が一瞬見えなくなる。


 ──はい。知っていましたよ、私もあなたを愛していますから。


 カーテンが戻る時、彼女の言葉が聴こえると同時に、彼女の姿は消えて行く。哀しくは無い、自分ももう逝くのだとわかったから。そして音がまた戻ってくる。


「お祖父ちゃん、なにか言いたいの? 皆、ここに居るよ。ゆっくりでいいよ」


 よく見ると、響子さんを更に幼くしたような可愛い孫が、鼻まで真っ赤にして、涙をぼろぼろ流しながら、私に必死に話しかけている。あぁ、泣かないで良いんだよ。年寄りは先に逝くものだ。だから、そんなに泣かなくてもいいんだよ。


 多分、もう私は既に事切れかけているんだろう、周りの情景がやけにぼんやり霞んでしまっている。着けられた挿管器からの空気がやけにきつくなっている。呼吸も浅い。


「……どうだ? 夢幻泡影に思えたか」


 ふ、貴様は本当に、空気というものを読まない男だな。……そうだな、楽しい時間は、夢幻泡影に感じられるものだ。 こういうひと時をもっと作っていたかった。しかし、人というのは勝手なものだ。泡沫夢幻、夢幻泡影。言葉の意味は同じなのに、解釈が違うとこうも正反対に見えるとはな。


「……そうだな。人生は儚く、夢現が如く去りゆく。想い出は泡のように弾けては消え、人もまたただ消えゆくのみ」


 ただ消えゆくのみ……。そうだな、では私も最期に皆に話をするとしよう。すまんが、耳を塞いでくれ。私の言葉に彼はその襤褸を被り、見えなくなる。すると皆の声がまた聞こえてくる。


「お祖父ちゃん! 待って!」

「お父さん!」

「じいじぃ!」


 あぁ、そんな声で呼ばないでくれ。決心が鈍ってしまうじゃないか。大丈夫、大丈夫だ。皆の声は聴こえている。ちゃんと聞こえているから。そして私は手を挙げる。皆の方へと向かって。




 ──ありがとう、私は皆と居られて楽しかった。








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──泡沫夢幻── トム @tompsun50

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