第5話 最後のカラマックス ④【完】



 アム・リアの甲子園ライブの前日、俺と城田と広告代理店のメンバーは大阪に前泊した。設営とリハーサルのチェックのためだった。アム・リアが歌い、群衆を促し、ミノッタを飲み干す様は、複数カメラで大量に映像素材を集めておいて後で編集する形だが、スタンドインを立てて、そのカメラの動きとアングルのパターンを検証した。スタジアムのそこかしこへの広告グラフィックの掲出と、四万五千本のミノッタのスタンバイは深夜に完了した。

 この企画を進めるにあたって最大の懸念事項は天候だった。撮影は一発勝負になるため、ある程度晴れてくれなければ困るし、気温が低すぎるとライブの参加者たちはどんどん厚着になって行き、清涼飲料のCMにそぐわない。だがその点では俺達は幸運だった。明日の大阪の天候は快晴で、今年初めて20度を超える予報が出されていた。

 俺達と、アム・リアの事務所のリドー社長とマネージャーとドラえもんのお面を着けた通訳との面会の機会は、リハーサルの終了後に設けられた。そこには城田の更に上席の、宣伝部長も立ち会った。俺以外のメンバーは、彼らと直接会うのはこれが初めてだった。今日まですべての確認はネット回線を介して行われてきたのだ。最初のWeb会議でのコンタクト以降はやり取りを広告代理店に任せたので、俺も会話をするのはそれ以来だった。甲子園の地下の関係者用の会議室で、俺達は初めまして、とあいさつを交わした。

 俺は部長に予め、向こうの通訳はドラえもんのお面を着けた妙な女だが気にしないで欲しい、と伝えていた。「宗教的な理由でお面を着けていないといけないようなのです」

 今回は本当にありがとうございました、と部長が言った。「これほど大規模なコマーシャル撮影ができるのは、皆さんのおかげです」

 リドー社長はいつも通りにこにこと笑ってイーア語で喋りながら部長の手を取った。

 問題ありません、とドラえもんが日本語で言った。そして彼女は俺の方を見た。「我々は才川さんには大変お世話になりました。そのご恩を少しでもお返しできたら、それに勝る喜びはありません。そして、ミノッタは素晴らしい商品です。既に我々の国でも国民的な飲料となっています。今後その販路がより拡大されることを願っています」

 俺達は揃って微笑んで頷いた。

「明日は天気にも恵まれそうで良かったです」と城田が言った。

「そうですね、晴れます」とドラえもんが言った。「アム・リアのライブでは今まで雨が降ったことが一度もありません。明日も必ず晴れます」

 明日の本番を楽しみにしております、と部長が言って俺達は散会した。広告代理店は俺達を飲みに誘い、部長と城田がそれを受けたので、俺も同行して近場の焼き鳥屋で軽く飲むことになった。こういう状況でこういう間合いだと毎回起こることだったが、俺は不快だった。俺達の仕事は終わったが、まだ設営で働いているスタッフたちが大量にいる。そして明日は本番だ。それなのに自分たちだけ酒を飲む、という思考になれる理由が昔から全く理解できなかった。手伝うことがないなら正直一人でホテルに帰りたかったが、部長と課長が飲んでいる場に下っ端が同行しないわけにいくはずがない。

 焼き鳥屋の煙に包まれて、俺は薄い微笑みを湛えながら終始無言で、ジエンのことを考えた。あの日から今日まで、彼女には何があっただろうか。結局あの野球大会はどうなったのだろうか。試合にはどっちが勝ったのだろうか。

 どんな会話をしたのかほとんど思い出せない飲み会が深夜一時に終わり、ホテルでシャワーを浴びながら、俺はふと思いついた。

 カラマックスを買っていこう。

 明日、俺が昼に会場に入るまでには時間がある。それまでにどこかのスーパーでカラマックスを買って、アム・リアの楽屋に届けよう。アム・リアたちは一連のイーアでの騒動が起きてからこの半年近くの間、カラマックスを食べていないはずだ。そしてこの機を逃すともう二度と食べられなくなる。彼らのツバキへの協力は掛け値なしに有難いものだし、せっかくわざわざ日本にやってきてくれたのだ。俺が思いつくプレゼントはそれぐらいしかない。

 8時に起きると、窓の外は完璧に晴れていた。髭を剃って顔を洗い、朝食をとって、スタッフたちとメールでやり取りした。ライブは予定通り開催されるので、午後1時に所定の場所で集合すること。俺はノートPCで幾つか仕事を片付けてからスーツに着替え、ホテルを出た。カラマックスが棚に入っている流通店舗は大体分かっている。俺は近辺のスーパーをリストアップして順繰りに巡っていき、10袋のカラマックスを買いこんだ。ホテルを出た時には少し肌寒かったが、急速に気温が上がっている。温かい太陽の日差しに街全体が包まれた、爽やかな陽気の中、俺は甲子園球場に向かって歩いて行った。既に観客たちが球場の周りに集まってきていて、ライブ独特の祝祭的なムードに包まれている。行き交う人々は全員が笑顔で、広場も物販スペースも混雑して、これから始まるささやかな非日常に対する期待に満ちている。

 IDを警備員に示して甲子園の関係者入り口から入り、両手にカラマックスが詰まった袋をぶら下げてアム・リアの楽屋を目指した。ライブスタッフたちとすれ違うと、彼らは全員、おはようございます、と俺に挨拶してくる。楽屋の前にはアム・リアのマネージャーのシタロがいた。イーア語で挨拶を交わした後、俺は、これはプレゼントです、と言ってカラマックスを差し出した。

 シタロはそれを受け取って、中身を見た。そして、おお、と呟いた。

「これは、何ですか?」とシタロはたどたどしい英語で言った。

「皆さんで食べてください」と俺もたどたどしい英語で言った。

 シタロは首を傾げた。

「どうしましたか」

「私は、これを、アム・リアに与えることを、私は、社長に訊きます」

 俺は頷いて、そうか、と思った。よく考えてみればカラマックスは、これから大声で歌って喉を酷使しなければならない人間が、その直前に食べるようなものではない。

「後で、食べてください。今は、食べなくてもいいです」

 シタロはポリ袋に詰まったカラマックスから顔を上げてきょろきょろして、あ、と言った。その視線の方に俺も振り向いた。

 ドラえもんが通路の向こうから歩いてくる。

 その動作は相変わらずきびきびしている。彼女は俺達の前に立ち、何ですかこれは、と日本語で言った。シタロがイーア語で喋り始めたが、彼女はすぐに手を上げてそれを制した。

「これは何ですか」ともう一度ドラえもんは言った。

「カラマックスです」と俺は言った。「皆さん大好きでしょう。お土産にと思って持ってきました。みんなで食べてください」

「結構です」とドラえもんは言った。「今日はライブで、ミノッタのCMの撮影です。カラマックスは必要ありません」

「気にしないでください。カラマックスは別にツバキと競合しない。今日必要ないなら、持って帰って後で食べてください」

「なぜ私たちがこんなものを食べなければならないんですか?」

 ドラえもんは指でシタロを示して俺に振り、短くイーア語で何か命じた。シタロは頷いて、受け取ったカラマックスの袋を俺に差し出した。

「持って帰ってください」とドラえもんは言った。

 俺はドラえもんのお面をじっと見つめた。髭の位置にぽつぽつと空いた穴の向こう、ジエンの目を探った。だが影に隠れて全く見えない。

「カラマックスを食べたくないんですか?」

「そう申し上げています。こんなものを持ち込むのはやめてください」

「それはおかしな話だ」と俺は言った。「あなた達はこの数か月、カラマックスを全く食べていないはずだ。むしろ探し回って求めていたに違いない。アム・リアさんでさえそうなはずだ。でももし皆さんが要らないなら、他のイーア人のスタッフに分け与えてください。きっと食べたい人がいるでしょう」

「要らないと申し上げています。もう誰もこんなものは食べません」

 俺は鼻で息をついた。

 この声には聞き覚えがある。男なら誰でも、ほとんど一度は聞き覚えがある。女が最も不機嫌な時に出す声だ。彼女たちが、最も攻撃的に、破滅的に、残酷になり、自分の考えと感情が分からない愚かな男を軽蔑する時に出す声だ。

「ジエン、本気で言ってるのか? カラマックスが要らないのか?」

「才川さん、何回も同じことを言わせないでください。もう誰もカラマックスを好きではありません」

「俺は君たちの国で、カラマックスを嫌いな人間に一人も会わなかった。何故君が一人で決める? 試しに配ればいいじゃないか。まさかそれを禁じる法律でもできたのか? カラマックス食うべからず、って」

「それとほとんど同じことです。才川さん、もうイーアは変わりました。もう数か月前と同じ、イーアではないし、アム・リアではないし、私ではありません。カラマックスを食べるものはイーアにはもう一人もいません」

「国民数千万人があっという間にカラマックス嫌いになったって言うのか? あれほど、俺には信じられないほど全員が執着していたのに。移り気とか飽き性とか言うにも程がある。お前らの国は一体何なんだ?」

「別に不思議ではありません。あなた達だって何でもすぐに飽きてしまうでしょう? あっという間に何かに群がって貪りつくしてすぐに去っていき、忘れる。才川さんだってそうでしょう。海老をあっさり捨てて転職した。それと何が違うんですか?」

「一緒にするな。仕事は組織と個人の利害関係が一致するかしないかでしかない。人間がカラマックスを食うかどうかに他人との利害関係なんかない」

「同じですよ。要するに飽きたのです。食傷したのです。あなた達の国では飽きても働き続けられるのかもしれませんが」

「君はなんでドラえもんのお面を着けっぱなしなんだ? それに何の意味がある? あの日から今日まで何があった?」

「才川さん、あの日いなくなったくせに今更それを聞くんですか? もう無理ですよ。もう才川さんには何も分かりません」

「君は神様になったのか?」

 ジエンはドラえもんのお面の顔を真っ直ぐこちらに向けた。彼女は無言だった。彼女の目の光は見えなかったが、体全体から何かが発せられていた。俺はそれが感情なのか思考なのか分からなかった。ジエンはマネージャーのシタロが俺に向かって差し出したままのカラマックスが入ったポリ袋をひったくり、俺に突き付けた。

「ここで会話を続けるのはスタッフの皆さんの邪魔になります。持って帰ってください」「カラマックスは6月で製造終了する。もう二度と食えない。本当にいいんだな」

「当然でしょう。こんなものはもう誰も食べないのだから無くなって当然です」

 俺は頷いた。ジエンから二つのポリ袋を受け取ると、スーツのポケットの中でスマートフォンが振動し始めた。俺がごそごそとポケットを探ると、ジエンは何も言わずにアム・リアの楽屋の扉を開けて入り、マネージャーがそれについて行って扉が閉じられた。

 その閉じた扉を眺めながら、もしもし、と俺は言った。

〈社長が来る。アテンド頼む〉

 城田の声だった。俺は頷いて、分かりました、と言った。今日のライブ兼CM撮影はツバキの社長も観覧することになっている。部長が社長をVIPルーム入り口まで案内するので、そこから先をアテンドするのが俺と広告代理店の役割だった。俺は城田と今の状況とこの後の段取りを確認しながら通路を歩いた。既に観客の入場は始まっており、同時に観客へのミノッタの配布も無事に進んでいる。俺達にとって最も重要なのはそれであり、ライブが始まってしまえば基本的には俺達にできることは何もない。あとは広告代理店と制作会社のスタッフによる進行ですべては進んでいく。社長がVIPルームに入ったらまた連絡を取り合おう、と城田が言って、俺達は電話を切った。

 俺は足早に歩き、一旦地下から地上に出て、VIPルームの入り口に辿り着いた。まだ社長は勿論、代理店のメンバーもいなかった。俺はドアマンに挨拶してその隣に立ち、車寄せに社長を乗せたタクシーがやって来るのを待った。

 俺は手持ち無沙汰になってスマートフォンでSNSをチェックした。ハッシュタグで「アム・リア」と「ミノッタ」を検索すると、既に大量の書き込みが積みあがっている。若者たちが自分たちの笑顔の写真や購入したグッズや配布されたミノッタの写真を大量にアップしている。俺はひとまず安心した。否定的なメッセージは一つもなく、それだけでも計画は成功と言えた。どこまでも続いていくその書き込みの連なりを眺めていると、広告代理店が部長以下数人でやってきて、俺達はあいさつした。社長はもう間もなくやって来るようです、と俺は彼らに伝えた。

 広告代理店の担当者の永井が俺の隣にやってきて、才川さん、その袋は何ですか、と俺に言った。何でもありません、と俺は答えた。

 永井は、少しお話しても良いですか、と俺に耳打ちした。俺は頷いて、俺達は入り口から少し離れた生垣の前まで移動した。

「何かトラブルですか?」と俺は言った。

「SNSはご覧になりましたか。あれは、とりあえず、こっちには大丈夫そうです」

「少しだけですけど、見ましたよ。ライブについては基本的に好意的な書き込みしかまだ見当たらない。とりあえず良かったですね」

「いや、近くで起こった火事のことです。見ましたか? 今、物凄い勢いで拡散されてます」

 俺は首を横に振った。

 永井がスマートフォンを操作して一つのSNS上の投稿を俺に示した。芝生が広がる公園の中心で、激しく何かが燃え上がっている写真だった。何かを包んで赤い炎と煙がもうもうと立ち上がり、緑の芝生と青い空を背景に強烈なコントラストを成している。


  人が燃えてねえ????


 その一文とともに写真は大量の人々にシェアされ拡散されていく真っ最中だった。永井は画面を操作してずらずらと並ぶ他の投稿の群れを示した。別角度から取った同じような写真が幾つも並んでいる。「海浜公園、人が燃えてる」という文を読みながら、これどこですか、と俺は言った。

「ここは、いつ、どこですか?」

「つい先ほど、近くの甲子園海浜公園です」と永井は言った。

「これは、燃えてるのは人間ですか。火事って言うか焼身自殺じゃないですか」

「すみません、その通りです。ちょっとショックで。誰かがいきなり公園のど真ん中で自分の体に火を点けたみたいです。誰が何のためにこんなことをしたかはまだ分かっていないようです」

 永井の顔は幾分青白いように見えた。僕こういうの駄目なんです、と永井は言って、俺も眉間に皺を寄せて頷いた。そして海浜公園がある方角の空を見上げた。青空があるだけで、特に煙も光も何も見えない。かなり気色の悪い事件で気になるが、と俺は言った。

「こっちの進行には問題ないわけですね?」

「はい、今のところ来場者の入場に支障はないですし、消防や警察から連絡があったりもしていません。お客さんたちの一部はざわついてはいますが、特に混乱は起きていません」

 俺達は車寄せまで戻って社長の到着を待った。そして広告代理店の局長と部長たちから、昨日の飲み会の振り返りと、今日の打ち上げの会場についての話を聞いているうちにタクシーが着き、スーツ姿のツバキ社長が降りてきた。俺が社長に会うのは転職して入社した時の挨拶以来だった。

 にこやかに微笑む社長を、永井と俺が先導してVIPルームに向かった。社長と広告代理店の局長はしばらく前に行われたゴルフコンペの話をしている。俺はラウンジに着くとまずすぐに、部屋の隅に両手いっぱいのカラマックスが入った袋を下ろした。広々としたラウンジのテーブルには既にグラスとランチョンマットが敷かれ、ガラス張りの壁の向こう側にスタジアムの全景が見渡せる。既に観客は9割以上入場が完了している。

 その様子を眺めながら、広告代理店の部長が社長に今日の段取りを話した。本日はアム・リアのライブの中でCMを撮影することになります。最初の2曲を通常通りに進行した後で、完全にCM用の演出を組んで複数カメラでその模様を押えます。既にミノッタは来場者全員に配られていて、アム・リアのコールと動きに合わせて観客たちがミノッタを飲んで誕生を祝います。

 晴れて何よりですね、と社長が言って俺の方を向いた。「ミノッタは何本入れた?」

 4万5千です、と俺は答えた。

「それだけの若い人がミノッタのファンになってくれれば、それだけでも言うことないな」と社長は微笑んだ。

 ウェルカムドリンクで運ばれてきたソフトドリンクを飲みながら、社長は、アム・リアや、その楽曲や、イーアについて俺と広告代理店に質問した。才川君はイーアに出張したことがあるんだろう、と社長が言って俺が、そうです、と答えると、俺のポケットの中でスマートフォンがぶるぶると振動した。俺はそれを無視した。「でもほんの1か月だったんですが」

「テレビで会見を見たよ。本当にご苦労様だった。どうもイーアも民主制が成立することになるようだし、こうして無事に海外でライブもできるようになって本当に良かったね」

 俺は頷きながら、ポケットの中で震える私用のスマートフォンを引っ張り出して、画面を覗いた。見知らぬ番号からの着信だった。城田でもないし、アム・リア事務所の誰かでもない。俺は無視することにした。

「ちょうどこの企画の稟議が役員会にかかったころから、中国と東南アジアからのミノッタの発注が立て続けに決まったり増えたりしてね。もちろんそれはイーアにも届く。近いうちに直接の輸出ルートを強化することになるだろう」

 イーアに工場を建てた方がいいんじゃないでしょうか、と広告代理店の局長が笑顔で言うと、そうだね、そうなるかもしれない、と社長が微笑んで答えた。

 俺が社長と並んで穏やかに作り笑顔を浮かべていると、ポケットの中で再びスマートフォンがぶるぶると振動し始めた。さっきと同じ番号だった。

 失礼します、と俺は言って社長たちから距離を取りながら電話に出た。

 もしもし、と俺は部屋の隅に立って小さな声で言った。

〈才川さん? 才川さんですか?〉

「そうです」と俺は眉間に皺を寄せて言った。聞こえてきたのは唾が飛んでくるような勢いの声だった。「どちら様ですか?」

〈どちら様じゃないっすよ。才川さんですよね? 早く電話出てくださいよマジで〉

「どちら様ですか?」と俺はもう一度言った。

〈あんたと同じマンションの住人だよ。管理組合の理事の伊藤です。なんで俺が休日にこんな電話しなきゃならないんだ? 俺は子供と映画観に行く約束してたんだよ。あんたのせいでチケットキャンセルだ。どうしてくれるんだ?〉

「何があったんでしょうか?」

〈こっちが訊きたいんですよそれを。何だよこの大量の段ボール箱は? 全部あんた宛てだ〉

「私宛ての荷物ですか? 間違って伊藤さん宛てに届いてしまったんでしょうか。申し訳ありませんでした」

 俺の言葉が終わり切らないうちに、違う、と伊藤は言った。

〈俺宛てに届いたんじゃない。あんたに届いたんです。それの量がデカすぎるんだよ。半端ねえ量だ〉

「どれくらいですか?」

〈だから半端ねえ量ですよ。10万箱くらいあるんじゃねえのかこれ? 通路も階段も全部埋め尽くして、ロビーも全部段ボールで埋まってる。それよりすげえのが外ですよ。マンションの周囲一帯、全部段ボールで取り囲まれてる。歩道も街路樹も全部段ボールまみれで、壁って言うか山みてえに積みあがって何本も道が封鎖されてて、車も走れねえし人も歩けねえ。俺達のマンションもそうだし、周りの住民とか店からもめちゃくちゃ苦情が来てる。めちゃくちゃですよ。異常過ぎる。なんですかこれ?〉

「なんですかそれは。どういうことですか?」

 だから、と伊藤は大声で叫ぶように言った。〈それを俺があんたに訊いてるんだ。段ボールの壁だよ。山だよ。めちゃくちゃな量の。一体何なんだこれは?〉

「中身は何ですか?」

〈全部、カラマックスって書いてある。それと全部の箱にペンであんたの名前が書いてあります。あとはわけわかんねえ文字で読めねえ〉

 俺は談笑する社長たちを視界の隅にとらえながら、そっとVIPルームを出た。部屋の前の通路には誰もいない。

 いつ届いたんですか、と俺は小声で訊いた。

〈知らねえよ。俺が知らねえうちだ。気が付いたら10万人のサンタクロースがあんた宛てにプレゼント届けに来たんです〉

「サンタクロースですか?」

〈物の例えです。皮肉。あんたジョークも分かんねえのかよ。ほんとに10万人のサンタクロースが来るわけねえ。目撃者は何人もいて、ものすげえ数のトラックが一気にやってきて、めちゃくちゃな数の軍隊みてえなガタイの良い連中が一気に荷物下ろしていったらしい。どれだけ声かけても無視して、誰も止められねえ勢いですげえスピードで段ボール箱積み上げて逃げて行って、よさこいソーラン祭りみてえな白昼堂々っつー感じだったってさ〉

「4万2000ケースだと思います」と俺は言った。

〈4万2000ってなんですか?〉

「段ボール箱の数です。たぶん全部で4万2000です。数か月前に南シナ海で船ごと行方不明になった、50万袋のカラマックスがケース詰めになった段ボールです」

〈それがどうした?〉と伊藤は言った。〈正確な数なんかどうでもいい。とにかくめちゃくちゃな量だ。ていうかこれやっぱマジであんたの荷物なんですか? あんた今どこにいるんですか?〉

「そのカラマックスは数か月前に」と俺は言って、すぐに首を横に振った。「それは私の荷物とは言えません。私が私に注文したものではない。誰か分からないが、悪意を持って、私たちのマンションにそれを押し付けてきたんです」

〈悪意だか善意だか知らんがどっちにしろこんなもんは大迷惑だ。とにかく分かった。これは警察沙汰ってことでいいですね? 才川さんあんた今どこにいるんですか?〉

 大阪です、と俺は言った。「仕事の出張で大阪に来ています。すみませんが、今すぐ戻ってもそちらに着くのは夕方になる」

〈いいですよ。どのみちあんた一人の体で今すぐこの土石流みてえな段ボールを片付けられると思ってない。とにかくまず才川さんから警察と話してください。俺達はもう警察と連絡取りあってます。才川さんの携帯の番号伝えさせてもらっていいですね? すぐにそっちに連絡が行く〉

 はい、と俺は言った。

〈ていうかこれもう警察じゃなくて自衛隊でも呼んだ方がいいんじゃねえかな?〉と伊藤は言った。〈ほとんど災害みてえな感じだし。こんだけあればちょっとつまみ食いしてもいいだろうと思って中身を見たけど、全部賞味期限があと3日で切れるみたいだから、捨てるしかないでしょうけど、こんなもの、片付ける場所も燃やす場所もどこにもない。あんたこれどうするんですか?〉

「警察と相談してからご連絡します」と俺は言った。伊藤に礼を言うと、伊藤はじゃあよろしくと言って電話を切った。

 俺は通話の切れたスマートフォンを握りしめ、左手をこすりつけるように顔面を撫でた。俺はあたりを見回した。相変わらず誰もいない。俺は深いため息をついた。その息が最後まで吐き終わらないうちに、壁の向こうから歓声が沸き起こった。

 俺はドアを開けて部屋に戻った。社長と広告代理店たちは全員部屋の外のバルコニーに出ている。観客の入場が完了して、もう間もなくライブが始まるのだった。アリーナ席から最上段までびっしりと人で埋まってうねりが起きているようだった。大音量でスピーカーから流れる音楽に合わせて、観客たちが拍手する。「ゼルダの伝説」の序曲だ。ディスクシステムの波形メモリ音源がそのまま使われていて、鐘の音だけが増幅されて甲子園球場中に高らかに鳴り響く。

 インカムを装着した広告代理店の永井が俺の方に駆け寄って来る。

 才川さん、準備は問題ありません、と永井は言った。「予定通りオープニングアクトの2曲が終わったらCM撮影に入ります」

「その割に顔色が悪そうですけど」と俺は言った。

 永井は首を横に振って、大丈夫です、と言った。「たぶん我々には関係ないはずです」

「何があったんですか?」

 永井は眉間に皺を寄せた。そして、40人以上死んだらしいです、と言った。

「40人死んだ? どこで何が起きたんですか」

「さっき海浜公園で焼身自殺がありましたよね。それと同じことが40件以上起きました」

「海浜公園で?」

「違います、日本中です」

 永田はそう言って自らのスマートフォンを俺に示した。SNS上に、先ほど永田に見せられたのと同じような写真の投稿がずらずらと並んでいる。だが場所がどれも違う。新宿や札幌や名古屋や広島の街のど真ん中で、赤い火柱がもうもうと立ち上る写真がどこまでも続いていく。

 俺は手で口を押えた。

「今日、さっき、街中でいきなり自分の体に火を点けたやつが、40人以上いるんです。海浜公園だけじゃなかったんです。立て続けに連続で、北海道から沖縄まで日本中のいたるところで起きてます」

「何ですかこれは」と俺は言った。

「分かんないですよ」と永田は言った。「分かるわけない。新興宗教のヤバい奴らですかね? 才川さん、僕まじで気持ち悪いんですけど」

「観客たちは? 消防とか警察は?」

「もう無関係に進んでます。そういう意味では大丈夫です。そういう意味では私達には関係ない。もう行くしかないです」

 才川、と大声が聞こえた。俺が永田のスマートフォンから顔を上げると、部長が俺の方に勢い込んで歩いてきた。部長は俺と永田の間に立ち、両方を見て、あの観客はなんだ、と言った。

「観客がどうかしましたか」

「全員何かお面みたいなの付けだしたぞ。たぶんドラえもんだ。あれCMで流せるのか?」

 俺は部長の言葉が終わる前に部屋を速足で通り抜けてバルコニー席に出た。そしてぐるりと球場全体を見渡した。

 4万人以上の観客全員の顔が塩化ビニールのお面で覆われて青白い。それは太陽の光を反射して輝き、全て中央のステージに向けられている。俺は眉間に皺を寄せてその一つ一つを見つめた。俺のポケットの中でスマートフォンが振動し続けている。

 あれはドラえもんだろ、と部長が俺の耳元で言った。

 あれはドラえもんです、と俺は言った。

「なんでドラえもんなんだ?」

「分かりません。とにかく観客全員にミノッタと一緒に入場時に配られたんだと思います」

「版権クリアしてるのか?」

 してません、と俺は言った。「それ以前にこんな不気味な光景をミノッタのCMで流せない」

 もちろんだ、と部長は言った。「あれは我々のCM撮影の時には全員ちゃんと外すんだろうな?」

 俺と永田は揃って首を傾げた。

「事前のプレプロダクションミーティングではこの演出の予定は共有されなかった。確認する必要があります」と俺は言った。

「急げ、もうアム・リアが出てくる。そうしたらもう後10分もないぞ」

 俺は頷いて永田を見た。

「外させましょう。永田さんはここで、裏方にいるスタッフとウチの城田との連携をお願いします。あっちでもとっくに気付いて問題になってるに違いない」

 分かりました、と永田は言った。

 そして俺は走り出した。だがその瞬間、待ってください、と永田が呼び止めた。

「才川さんはどこに行くんですか」

「俺はジエンのところに行きます。あいつが仕組んだに違いない。あいつに止めさせる」

「ジエンって誰ですか」と永田が訊いた。

 後で連絡します、と俺は言ってそのまま走り出した。VIPルームの受付口から外に出て、球場の関係者入り口まで走りながら、ポケットの中から振動するスマートフォンを取り出し、見知らぬ番号からの着信を拒否しながらチャットアプリを立ち上げてジエンを呼び出した。だが彼女は呼び出しに応じなかった。

 俺は舌打ちして走り続けた。彼女は今どこにいる? 俺はジエンをスマートフォンで呼び出し続けながら、アム・リアの楽屋に向かって走ったが、まだ彼女がそこにいるようには思えなかった。IDを警備員に示しながら彼をほとんど押しのけるようにして通路を走り抜けた。振動と重低音が上方から伝わって来る。アム・リアのライブが始まったのだ。

 俺はアム・リアの楽屋のドアをノックもせずに勢いよく押し開いた。部屋を瞬時に見回すと、そこには人間は一人しかいなかった。事務所のリドー社長だ。彼はライブの様子を映すモニターを眺めていたが、俺が入って来ると体をびくりと震わせてこちらを向いた。

「ジエンはどこですか?」と俺は英語で言った。

 リドー社長は首を横に振った。俺は社長の腕を強く掴んだ。

「非常に早く答えろ。ジエンはどこですか?」

「神様はここにはいません」と社長は早口の英語で言って、再び首を横に振った。

「どこにいると思いますか?」

 分からない、とリドー社長は言った。

 俺は社長の胸ぐらをつかんで平手打ちでもしたい気分だった。だが実際には俯いて軽く首を振って、OK、とだけ言った。俺は一瞬だけ考えた。もう時間がない。ステージ裏に行くしかない。ジエンがいようといまいとそこまで行って、とにかく誰かに話して観客全員のお面を外させるように交渉するしかない。

 楽屋を出て、床に貼られたシールの誘導に従って俺は走った。歓声がどんどん近づいてくる。通路の脇に立ち並ぶ裏方のスタッフたちを押しのけるようにして俺は走り続けた。彼らは全員ドラえもんのお面を着けている。俺はジエン、と叫んだ。大音量の音楽にその声はかき消されて誰も反応しない。俺はたった一人お面を着けていない人物を発見して、その瞬間その男を壁に押し付けるように肩を掴んで、耳元で、ジエンはどこですか、と言った。

 アム・リアのマネージャーのシタロだった。

「ジエンはどこだ?」

 シタロは首を横に振った。首を横に振って何も答えなかった。

 早く言え、と俺は日本語で言った。「すぐ言わないと、この場で今すぐ契約を切る」

 アイドンノウ、とシタロは言って首を横に振った。

 俺は眉間に深く皺を寄せ、上方を見上げて、考えた。CM撮影に入るときには観客に向けて、広告代理店が用意した日本人のディレクターからマイクでのレクチャーのアナウンスが入る。そこでお面を外させるように観客たちを説得するのが一番合理的で確実なはずだった。だが俺にはそれが上手くいくと信じられない。最早何も信じられない。この後、そのディレクターの指示や他の全てを無視してアム・リアが勝手にCM進行を仕切ったとして、何ら不思議はない。これは既に儀式で、これはリーチだ、と俺は思った。日本の各地で今死んでいく40人以上の焼身自殺を決行したのは間違いなくイーアのリーチたちだ。

 分かった、と俺は日本語で言った。俺はシタロの肩から手を放した。「最悪の場合は俺が話す」

 そしてステージへ続く通路を歩き始めた。ステージは甲子園のバックスクリーンの足元一体を占有する形で広がっている。俺はその裏手で待機して、アム・リアが2曲歌い終えて、そのまま予定通りのCM撮影の段取りに入るならよし、そうならない不審な動きをアム・リアが見せたら直接マイクを奪い取るしかない。

 俺のズボンのポケットの中でスマートフォンが振動した。俺はそれを反射的に取り出して電話に出た。もしもし、と俺は言った。

〈才川さん、私を探してるんですか〉とジエンが言った。

 そうだ、と俺は言った。

〈目の前にいますよ〉

 俺は顔を上げた。通路の向こうに、一際背の低い、ドラえもんのお面を着けた人物が立っていた。

「お前どうする気だ」と俺は言った。

〈ミノッタ、100歳の誕生日おめでとう。私たちは生まれ変わります〉とジエンは言った。

 CMでアム・リアが言う予定になっているセリフだった。

 俺はジエンに近づいていき、同時にスマートフォンを耳から離した。ジエンもスマートフォンをポケットにしまった。目の前の彼女を見下ろして、全部お前がやったのか、と俺は言った。

「全部って何ですか?」

「焼身自殺もカラマックスもお面も全部お前がやったのか」

 ジエンは自分の顔に手をかけ、ゆっくりドラえもんのお面を外した。そして軽く顔を横に振って髪を払い、俺の顔をじっと見上げた。

 彼女の顔が数か月前と変わったのか変わっていないのか、俺には分からなかった。

 彼女はドラえもんのお面を俺に差し出した。

「これはお返しします」とジエンは言った。「今日を限りに才川さんに全てお返しします」

 俺は首を横に振った。

「アム・リアに話して観客全員のお面を外させろ。このままだとCMが撮影できない。アム・リアに契約費を払えなくなる」

「たかが一千万円の契約費は要りませんし、アム・リアを止めることはできません。もう始まってるというか、もう終わっていますから」

「じゃあ俺が行く」と俺は言った。「直接ステージに行って、アム・リアのマイクを奪って観客にお面を外させる」

「そんなことが本当にできると思うんですか?」とジエンは言った。「そんなことをしたらアム・リアはその場でステージを降りてライブ自体が中止になります。主役がいなくなったCMは撮影できず、ライブにやってきた4万人の観衆はさぞがっかりして、ツバキに与えるダメージは甚大なものになるでしょう。ミノッタの100周年のプロモーションは失敗に終わり、誰かがその責任を取ることになる」

「そんなことのためにこんな手間をかけたのか? お前たちは日本で何がやりたいんだ?」

「リーチはやがてこの国で復活する。才川さん、あなたもその一人です」

「お前たちは生き延びるためなら何でもするのか?」

「あなた達も生き延びるためにイーアを利用しようとした。それと何が違うんですか?」

「海老もツバキもお前たちと違って何も捨ててない」

「あなたは全部捨てたじゃないですか。それと何が違うんですか? 才川さん、あなたはもう終わりです。あなたは自分がこれまでどれほど間違えてきたか分かっているはずです。あなたには何も残ってません。あなたの人生は間違いです。ずっと前からそれは明らかだったはずです。もう私たちと一緒に行くしかないんです」

 地響きが激しくなる。無数の観客たちが飛び跳ねる振動で、俺とジエンの間の空気も震えている。あたりの何もかもが震えていて、俺達の周りにはだれもいない。

 俺は首を横に振った。

「まだあと3日残ってる」

「3日? 何のことですか?」

「カラマックスだ」と俺は言った。「カラマックスの賞味期限だ。お前たちが捨てたカラマックスの賞味期限は、あと3日残ってる。俺は東京に戻って、50万袋のカラマックスを必ず適切な場所と人々に届ける。あと3日で、誰かが必ずあのカラマックス達を全部食べる。俺が必ずそう取り仕切る」

「そんなことは不可能です。それに、そんなことをして何になるんですか?」

「このCMとプロモーションが失敗しても、俺は初めから作り直す。アム・リアがいなくても、俺は何回でもゼロからやり直す。ツバキをクビになってもそれは終わらない」

「あなたにはそんなことはできません。あなたには何もできないんです」

「俺は必ずそうするだろう。それが俺の仕事だからだ」

 俺はジエンの脇を通り過ぎて再び歩き始めた。

 音楽が響き渡る。アップテンポのビートに合わせて観客が甲子園全体を揺るがす振動が全身に伝わって来る。ポケットの中で再びスマートフォンが振動する。俺は深呼吸した。電話の相手が城田や広告代理店なら、CMは失敗でやり直しです、と俺は話す。相手が警察なら、俺がカラマックスを何とかします、と言う。俺はそれをほとんど同時にやらなければならない。ややこしくて面倒で、結局は失敗するかもしれない。何の意味も無いかもしれない。

 でもそれは、今までと何も変わらない。

 アム・リアの新曲が鳴り続ける。そのリズムと俺の歩調とスマートフォンが振動するペースはばらばらで、全てが致命的にずれている。全ての音は混ざり合い、聴き分けることができない。それは俺の中を駆け巡り搔き乱している。俺はポケットからスマートフォンを取り出した。とにかく誰かが俺を呼んでいる。俺はどれだか分からない一つの音に向かって、もしもし才川です、と言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

太陽の国のカラマックス 松本周 @chumatsu11

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ