サボテン

真花

サボテン

 もしも世界の始まりの色に出会えたなら、それはきっと透明で、全ての色がそこから一気に広がるのだろう。世界の終わりの色は全ての色が渾然一体となって収縮した漆黒に違いない。だけど僕はそのどちらとも会うことはない。世界が変わるときの色だけが僕の見得る色だ。

 夕陽がオレンジになるのは今日の終わりに抵抗しているからなのだろうか。部屋の中はその光に染まって、本棚やちゃぶ台の影が濃い。机に就いて、新人賞に出すための小説を書いている。窓から夏の精と蝉の声が流れ込んで来る。後ろには美幸みゆきがいる。

啓太けいた、今、いい?」

「もうちょっとしたら区切りがいいから、待って」

「分かった」

 そこまで書き終えて、僕はくるりと体を美幸に向ける。

「どうしたの?」

 美幸はクローゼットから大きな紙袋を出して、脇に置く。その瞳が見たことがない程に硬い。そこに夕陽が射して左右で陰影が分かれている。

「あのね」

 言葉を切って美幸はその硬い瞳で僕を見据える。僕は石になる。美幸はさらに僕を射る。

「ここを、出ようと思うんだ」

 体中の表面を走る血管が血を逆流させる。

「何で?」

「啓太のこと、愛してる。だけどこのままじゃ二人ともダメになる。……息子が一緒に住もうって」

 逆さの血が元の方向に勢いよく流れて、顔中が熱くなる。拳を握る。

「ダメになんかならないよ」

「啓太には未来がいっぱいある。こうやって二人で停滞してちゃダメなんだ」

「年の差があることだって、息子がいることだって、分かってて一緒に暮らし始めた。そんなことは、分かってた。……息子の方を取る、ってこと?」

 美幸は目を背けない。ぐっぐっと切り込むように。もし僕のことを破壊してもそれはそれで止むを得ない、美幸の勢いは残酷に告げている。

「そう捉えられても仕方ない」

 僕と周りを構成する空間と、その両方が崩落し始めた。

「考え直してよ」

「絶対にそれはない。決めてないままで話せるような話じゃない」

 それはそうだ。それに、美幸は一度口に出したことを引っ込めたことはない。

「それでも、僕は、嫌だよ、美幸がいなくなるの」

「ごめんね」

 美幸は紙袋に手を突っ込む。

 二人の間に置かれたのは、ひと抱えはあるサボテンの鉢植えだった。

「これをあげる。私と思っちゃダメだよ。これは啓太そのものだから。大事に育てて」

 どうしてサボテンなのだ。僕が言葉を発せられないでいる内に美幸は立ち上がって荷物の整理をする。準備は既に殆ど済んでいたようで、あっという間に整えて、僕は座ったままで、サボテンの前で、夕陽に焼かれていた。

「じゃあ、行くね」

 僕は慌てて立ち上がる。玄関で追い付いて、美幸の肩を掴む。振り返った美幸はさっきと同じ目で僕を見る。僕は二回だけ呼吸を整える。

「そんな目で行かないでくれ。終わりは分かった。止められないことも分かった。でも、最後だけはいつもの美幸に戻って欲しい」

 美幸は目を瞑って、深い呼吸を何度かする。開いた目は、もう硬くなかった。

「そうだね、最後くらい、笑顔で別れたいよね」

「僕は笑えないけど」

 美幸は笑った。いつもの美幸だった。

「ちゃんと夢、叶えてね」

 ドアが閉まり、僕は部屋の中央に寝転がる。オレンジ色が闇に溶けようとしていた。世界の変わるときの色はきっとこの色だ。サボテンが僕を見下ろしていた。


 美幸がいなくても毎日は続く。仕事に行って、帰って来て、小説を書く。サボテンは部屋の隅に据えた。いない美幸を補いはしないけど、帰宅する度に「僕はここにいるよ」と主張されるような気がする。それでも、小説を書いている間にサボテンのことは思い出さないし、美幸の最後のプレゼントだから大切にしようと決めた。


「お疲れ様です、お先です」

 同僚が後輩が先に帰って行く中、残業を余儀なくされた。仕事はちゃんとやりたい。中途半端なことをするといい小説が書けない。理由はそれだけじゃない。仕事自体に面白みややりがいも感じている。だけどそれは時間内に終わる場合の話だ。書く時間が減ることに、落ち着かなくなる自分がいる。誰もいなくなったオフィス。キーボードの音。

「僕の中心は仕事じゃない」

 画面に向かって呟く。

「それが職場の人を欺いていると言うなら、それでいい。ちょっと胸がしくしくするけど、いい。美幸はいつも『大丈夫』って言ってくれた」

 手が止まる。家にいても感じない気持ちが、胸に穴が空いたようなそれが、急に襲って来た。美幸が部屋から出て行って初めて、涙が出た。誰もいないオフィスの真ん中で、泣いた。それでもいずれ涙は止まり、残業を終わらせた頃には家に帰ったら寝るだけしか出来ない時間になっていた。

 電車の中に酔っぱらいがいて、それも三グループいて、いつもながらに不思議に思う。酔ってしまったら創作出来ない。毎日飲む人もいるらしいけど、仕事と酔うだけで人生が終わってもいいのだろうか。でも、他人の酔っぱらいにそんな問答をする意義はない。本当は僕も酔っていっとき人生を、美幸を、忘れたいのかも知れない。最寄り駅で牛丼を食べて、コンビニに入る。白い店内の奥まで進めばドリンクコーナーがある。ドリンクの陳列を眺める。

「忘れられるかな」

 缶ビールを一本手に取る。商品棚の仕組みで取った隙間にすぐに次の缶ビールが流れて来て、もう元には戻すなと言われているようだ。レジで数百円を払う。安い。快楽を得るのに最も安価なんじゃないか。飲んだ途端に今日が終わりになる危険な薬物なのに。

 部屋に戻って、電気をつけたら、サボテンが少し大きくなっていた。まだ飲んでない。サボテンの前に座り、二人の間に缶ビールを置く。

「何で成長したんだ?」

 問うてもサボテンは何も言わない。その代わりに美幸が「夢、叶えてね」と言ったことが思い出されて、まだ今日は終わっていない。テンポ良く動いて、少しでも小説のことをしたい。缶ビールを冷蔵庫にしまう。捻出出来た時間は三十分だけだった。だけど、今日を小説のない日にせずに済んだ。僅かでも前に進んだ。

「サンキュ」

 サボテンに言ってから床に就いた。


 時々サボテンは成長した。法則はすぐに分かった。小説を書くことが阻害されたとき、サボテンは成長する。


 新人賞の予選の発表の日、仕事終わりに書店に向かう。

 体中がツンとする。鼓動はいつもよりずっと力強い。棚を探せば目当ての雑誌はそこにあり、見るべきページにすぐに至る。

 ……ない。

 二周見るけど、確かに僕の名前はない。

 パタンと雑誌を閉じて元の場所に戻す。

 もちろんこれが初めてじゃない。もう何年も繰り返している、まるで儀式だ。自分の作品が評価されないことを確認するための儀式。載っていたら使おうと用意していた図書カードは今日も出番がない。僕は何もなかった普通の人です。そう言う顔をして書店を出る。美幸以外の誰にも小説を書いていることを言っていない。美幸はいない。部屋に帰ると、いつか買った缶ビールを冷蔵庫から出して、一気に飲み干した。もう今日は小説のことは出来ない。

「あはは。てやんでい」

 居間に入ると、サボテンが迫り出すように大きくなっていた。

「お前は僕の本当の欲望が何かよく分かってるんだね」

 包丁を持って来て、出っ張っている部分を切り落とす。キッチンで皮を剥いて、輪切りにする。フライパンにバターを溶かして焼く。皿に盛り付けたら、ちゃぶ台をサボテンの前に据え、皿を置き、フォークとナイフで食べた。サボテンは食べる僕をじっと見ていた。


(了)

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サボテン 真花 @kawapsyc

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