バンコクに死す

安江俊明

第1話


 光田誠は夏江を射止めた。夏江の父・野口毅は大手建設会社、ノグチ・コンストラクションの社長で、誠は某国立大学を卒業し、毅の会社に入社して社長室勤務を命じられた。夏江が秘書として社長室に配属されたことで、誠と夏江は直ぐに親しくなり、二人の将来を考えるようになった。毅も真面目でテキパキと仕事をこなしてゆく誠を気に入り、適齢期を迎えた娘の許嫁候補にと考えるようになっていた。

 誠は欧米の海外支社赴任を望んでいたが、毅はまず東南アジアを見て来いと、誠を三年の予定でバンコク支社に派遣することにした。

「アジアの現場を見てからアメリカでも何処でも行かせてやる。バンコクには夏江を連れて赴任することだ。結婚が先だよ」

「社長、何卒宜しくお願い致します」

 誠は微笑む毅に深々と頭を下げた。豪華な華燭の典を挙げて、二人はバンコクへと旅立った。住まいは中心街にある社宅マンションである。テラスからタイ王宮にゆかりの深い寺院、ワット・プラケオの仏塔が望める。そこにはエメラルドに輝く翡翠の仏陀が祭られ、夏江のパワースポットになった。

二人とも海外生活は初めてだったので、支社長の榎ら先輩社員から色々とレクチャーを受けた。夏江は結婚と同時に退社していたが、榎は社長の娘が身近にいることで、社長の目が光っているような息苦しさを覚えていた。

 半年が経過し、バンコク生活にも随分慣れて来ていた頃のことだった。夏江はその日いつものように熱帯特有の太陽光線を遮るパラソルを手に、ワット・プラケオに出掛け、参拝後デパートに寄る予定にしていたが、その後デパートに立ち寄ることもなく夏江の姿は忽然と消えた。

 誠はその夜、早めに社宅に戻ったが、その時間は在宅しているはずの夏江の姿がない。暫くは帰りを待ったが、一向に戻らないため、とうとう痺れを切らせて社に連絡を入れた。

まだ社に居た榎に事情を話したところ、念のため警察に捜索願いを出すようにアドバイスされた。榎は連絡の取れた社員を支社に集め、二人に捜査当局などから情報が入るのを待つように指示し、他の社員には夏江の出回りそうな場所を二人一組で捜させた。

榎は社長宅に事の次第を報告し、所在の発見に全力を尽くす旨を伝えた。誠は夏江が自宅に戻って来るのに備えて、マンションで不安な夜を過ごしていた。待ち続ける誠に電話が入った。義父の毅からだった。

「まだ何も連絡はないのか?」

 声に沈痛な響きがあった。

「……はい、まだ何も……」

「夏江は昼間どんなことをしているのか、お前知っているのか?」

 誠はどう答えて良いのか、一瞬戸惑った。

「大体在宅ですが、あとは近くに買い物に出たり、お寺に参拝に行ったりといったところです」

「君も娘を放ったらかしてばかりいるから、こんなことになるんだ! 海外のことだから仕事中でもちゃんと気を配ってやらないと!」

「申し訳ありません」

 歓楽街パッポン通りで女遊びにかまけている自分の日々の姿が浮かんだ。

 社長に代わって電話に出た義母の芳恵からも小言を言われ、誠は情けない気持ちで一杯になった。

 その後は連絡や情報も入らず、誠はまんじりともせず、夜明けを迎えた。

早朝、支社にたどたどしい英語を話す男から電話が入り、身代金を要求して来たと急報が入った。身代金は米ドルで百万ドル。一億円を超える額だ。夏江の父が日本でも指折りの大企業の社長と知った上での犯行だった。夏江は誘拐されていたのだ。誠は急いで支社に上がり、榎から事情を聴いた。

 捜査員が数人マンションに駆け付け、逆探知のデバイスをセットした。犯人はその都度簡潔に要求を突き付けては電話を切っている。逆探知されないためだ。誘拐に手慣れた犯行だと警察は踏んだ。身代金が準備出来次第、誠が独り車で現金を運び、その後は指示に従えという要求があった。

誠は夏江の声を聞かせるように要求したが、支社のファクスに送られて来たのは後ろ手に縛られた夏江のぐったりした写真のコピーだけだった。バンコクでの動きは逐一榎を通じて社長夫婦に伝えられていた。

 誠は用意出来た身代金を車に積んで出発した。遠巻きに警察車両が追尾している。誠の運転する車の後部座席には、林田徹という男が隠れていた。社長と親交があり、東南アジアで何かトラブルが起こった時、社長の要請で現場に駆け付ける便利屋で、元地元ヤクザの親分である。

犯人からは行き先の変更が頻繁にあり、その度に誠は慣れない街の運転にナビゲーションシステムを横目に見ながら右往左往していた。そのうち、バンコクを流れるチャオプラヤ川の倉庫群に来いと言う指示があった。倉庫ナンバーは6。身代金のバッグを持ってその前に立てという要求だ。林田も手伝いながら、誠はようやくその倉庫を見つけ、前に立った時、倉庫の中から男が夏江の首元にナイフを突きつけながら出て来た。夏江は後ろ手に縛られ、猿轡を嵌められている。男は誠にバッグを自分の方に放り投げろというジェスチャーをした。そのバッグを仲間の男が受け取り、中身を調べている。

林田は後部座席から銃口を男らに向け、撃鉄に親指をかけている。警察も拳銃を構えて倉庫を遠巻きにしていた。仲間の男が頷いたので、夏江は解放され、誠の許に駆け寄った。その瞬間銃声が鳴り響き、男は二人とも射殺された。林田の銃口からガンスモークが立ち込めていた。

夏江は病院に運ばれ検査を受けたが、身体の衰弱が見られ、精神的にもかなりのショックを受けており、最低一週間程度の入院加療が必要という診断だった。

毅は娘が退院したら、直ぐに誠と帰国するように指示した。俺は一体どうなるんだろう。誠は夏江のこととは別に、今回のことで自分のキャリアに傷がついたのではないかと不

安に駆られた。

 帰国後、毅は誠を再び社長室に戻した。開放的なバンコク支社の雰囲気から、社長室という年配役員の世話係に戻され、誠は愕然としていた。日が経っても熱帯モンスーンの彼の国に懐かしさが募るばかりだった。あの遊郭の美女はどうしているのだろう。また会いたい。

夏江は誠の秘め事も知らず、家事をこなしながらショッピングに出かけている。まさか夏休みにバンコク旅行に誘えるはずもない。命を失うかも知れない体験をしたのだから無理だ。それなら俺独りでバンコクに出かけ、久しぶりに同僚と会い、パッポン通りでまた楽しく過ごしたい。夏江には帰ってから信州旅行でもしようと告げ、誠は独り機上の人となった。

機内で、持参したミステリー小説に読み耽っているうちに、誠の胸に夏江の誘拐のことがムクムクと頭をもたげた。嫁さんが海外で誘拐され、身代金を要求されるという稀有な事件を俺はこの目で見、肌で感じたんだ。折角の体験をまとめて本にするのもいいのでは。誠はそれまで執筆活動などしたこともない。それでも、もう少し取材してみて何とか書けそうだったら書きゃいい。書けなければそれまでだ。そんな軽い気持ちでバンコク到着後、誠は夏江が誘拐されて解放された倉庫に向かった。倉庫内にはまだ入っていない。中もよく観察して来なくっちゃ。昼間は取材、夜はパッポン通りだ。誠の胸に降って湧いたような妄想がどんどん膨らんで行った。

 その二日後、バンコクの新聞に記事が載った。

『日本人男性殺害さる 主犯の殺し屋が出頭』

 会社は大騒ぎになった。社長の毅は何故誠が単独で選りにも選ってバンコクに出掛けたのか事情を聴いたが、夏江は首を傾げるばかりだった。榎は情報収集に忙殺された。

 誠を殺害したと自首してきた中国マフィアの殺し屋・葉剣祐は取調室で主任担当官に犯行の動機などを供述した。

「手下を連れて倉庫に行ったら、不審な野郎が倉庫の写真を撮っていた。男をとっ捕まえて何をしているのか尋ねたが、ブルブル震えやがって黙っている。こいつは怪しいと思い、倉庫に連れ込んでこめかみにチャカ(拳銃)を突きつけたら、たどたどしい英語で変なことをいいやがる。小説を書く参考にするとか何とか……」

「それでどうした?」

「咄嗟に思いついた出鱈目と思い、本当のことを吐かせようと痛めつけたら、泡吹いて気絶しやがった。叩き起して吐かせようとしたら顔に唾を引っ掛けやがったので一発お見舞いしたのさ」

「殺人だぞ。それに何でお前は自首なんぞして来たのか」

 主任担当官が尋ねた。葉は不気味な微笑みを浮かべた。

「あの野郎は組織のスパイでも何でもなく、ただのド素人だというのが今頃じんわり効いて来た。プロの殺し屋としてかつて俺は一度もド素人なんか殺ったことはない。それが俺の誇りだったが、最後の最後でドツボにはまった。俺の羅針盤が狂った証拠だ。もう俺はアウトだ!」

 葉が突然舌を噛んだ。口から夥しい血が流れ出し、葉の呼吸が荒くなった。主任担当官は冷静だった。葉の顎を持って口を開かせ、首の後ろを叩いて血を吐き出させた。

「至急医務官を呼んでくれ!」

 直ぐに二人の医務官が担架を運んで来た。葉の口の中を調べ、応急手当を施し、担架に葉を乗せて救急車に走った。手指に付いた血を近くの水道で洗い流した主任担当官は、取調室に戻り、若手の取調官に向かって話しかけた。

「血は気管に入ると凝固するので、気管が詰まり、窒息死する。取調中にはいつ自殺志願者が出るかわからない。よく覚えておいてくれ」

 犯行に使われた拳銃が葉の自宅で発見され、倉庫内で見つかった弾丸と薬きょうが一致した。

さらなる調べで、葉は末期がんを患っていることが判明した。葉が、最後にドツボにはまったと供述したのは、そういう背景があったらしい。葉は病院に収容され、舌の治療を受けたが、がんのため約一月後に亡くなった。

 夏江は弔いのため、意を決して両親とバンコクの地を踏んだ。警察の遺体安置所で誠と対面した。表情は思いの他穏やかだった。警察の広報担当官から、誠は倉庫内で殺害され、チャオプラヤ川に浮かんでいたと聞き、夏江は倉庫近くの川に弔いの花束を流して手を合わせた。

 広報官は付け加えた。犯人の男が言うには、誠が倉庫を訪れたのは小説を書くためだったと。あの人が小説を? 思いもかけない話だった。

夏江は自分が誘拐され、閉じ込められていた倉庫で、今度は夫が殺害されるという事実を噛みしめるのに精一杯だった。

                                     了

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バンコクに死す 安江俊明 @tyty

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