あすせか×いろセカ スペシャルコラボ短編

漆原雪人/角川スニーカー文庫

「恋」


「あれ? こんな本、前からここにあったかな」


 本棚に見たことのない本が一冊があることに、ユーリは気づいた。

 それは、今はもう逢えなくなった英雄あの人が、自室として使っていた学園の“理事長室”だ。

 たくさん、たくさんの本が、部屋中には溢れている。足の踏み場もないくらい。

 そのどれもがみんな、魔法や魔術のレシピが書かれた魔導書だ。

 英雄あの人が各地から集めて来たものや、英雄本人が書いたものもある。

 あの人の持ち物ならば、知らないものなんて一冊もないはずだった。

 でもこの本ははじめて見た。

 昨日まではここになかったものだ。

 それは確かだと言い切れる。

 なぜならそれは、とても特殊な本でもあったからだ。


「おかしいな。この本、タイトルも、著者名も、なにもない……?」


 タイトルも著者名もないのは、複雑怪奇になりがちな魔導書としてあまりに簡素だ。

 しかも灯りのない薄暗いこの部屋の中で、ぼんやりと、その本が淡い光を発していた。まるで、夜空に輝く一番星。こんな不思議な本があれば、とっくに気づいているはずだった。

 ユーリはその本を棚から抜き出すと、恐る恐る、開いてみた。

 すると本を包んでいた淡い光が、ユーリの手の中でみるみる膨れ上がって……。

「……え?」

 驚いた。

 開いた本の中から、女の子が、現れたのだ。


「――はじめまして。私は、真紅。二階堂真紅にかいどうしんくだ。よろしくな」


 その女の子はふわりと、軽やかな足取りで爪先から着地する。

 肩に羽織ったサイズの大きな白衣の裾は、風に膨らむ授業中のカーテンみたいにはためいていた。

 綺麗な長い金色の髪。

 真っ赤な瞳。

 驚くユーリに柔らかく微笑んでいる。

 そしてその姿はまるで、幽霊みたいに、透き通って見えていた。

「…………」

 ユーリは瞼を擦る。

 なんだろう、これ。

 最初は夢かと思った。

 いや。魔法か魔術、どちらかのトラップかもしれないとも、思った。

 女の子の姿は半透明で幽霊みたい。けれど夢でも幻でもなさそうだとわかるのは何故だろう。そこに“いる”と思わされる実在感を、その少女は自然に纏っていた。

 魔法や魔術に関連した危険さも感じられない。今のところは。

「本の中から、どうやって……?」

 驚きでドキドキする自分を何とかなだめ、ユーリはそう問いかけてみた。

「えっと。一言で説明するのは少し大変だな。ちょっと遊びに来ただけだから、その時間もなさそうだ。……そうだな。私のセカイでは、私みたいな存在は半透明の魔法使いって呼ばれてる。今言えるのはそれくらいかな」

「……え? 魔法使い? だったら、本の中から現れたのも魔法なんですか?」

「あ、ああ。うーん。まあそういうことにしておいてもらえると助かるな」

「そっか。あなたも同じなんですね」

「ん? あなたも?」

「はい。私も、魔法使いです」

 ユーリは魔法使いの証である杖をぎゅっと握った。

「あなたはきっと、すごい魔法使いなんですね。本を扉にしていろいろな場所を移動できるということですか? それに透明に見えているのはどこか別のところに肉体があって、魂だけ、ここに居るとか……。ホログラムみたいなことを魔法で可能にしてる。そんな感じでしょうか。すごいです。私の師だった英雄あの人も、そんな魔法は……」

「あ、いや。どうしよっかな。ちょっと誤解させちゃったかもしれない。それに私はあまり、魔法使いと呼ばれるのは好きじゃなくて……」

 苦笑いを浮かべる真紅だったが、ユーリは目を輝かせていた。

 ユーリはいつも静かに考えごとにふけっているタイプだ。しかし魔法のことになるとちょっとだけ雄弁になる。

“すごい魔法使い”を前にして、すっかり興奮してしまっているようだった。

「あ、あの、もしよければ、私に何か魔法を教えてもらえませんか?」

「魔法を?」

「はい。私は、魔法使いの卵なんです。勉強はしているつもりですが、全然、未熟で……」

「い、いや。ごめんな。確かに私は魔法使いと呼ばれることもあったけど、きっと、お前の……えっと。良ければ名前を教えてくれないかな?」

「ユーリです」

「ああ、ありがとう。ユーリの想像しているような魔法は私には使えないと思う。だから、ごめんな。ユーリの希望はかなえてやれないと思うんだ」

「そうですか……。残念です。とっても」ユーリはしゅんとしてしまう。「私も、本を使って移動する魔法、使えるようになってみたかったです」

 肩を落としたユーリのその様子に、真紅はため息をつき、やれやれと首を振る。

「ああ、もう。そんな悲しそうにするなって。……わかったよ。ユーリに魔法を教えてやろう」

「本当ですかっ」

「ああ。もしも、いつか、ユーリに私の魔法が必要になったそのときに、惜しみなく、力を貸そうと思うよ」

「いつか必要になったとき?」

「うん。どうしても私の助けが必要になったそのときは、また私の本を開いてくれればいいよ。すぐ駆けつけると誓うよ……でも、その代わり」

「え? その代わり、ですか?」

「ああ。魔法であろうと呪いであろうと、それを得るなら代償が必要だ。いつか私の魔法をお前に教えると誓うその代わり、私も、お前に教えて欲しいことがあるんだ」

「……わかりました。私にできることならいいですが」

 ユーリはいつも持っている杖をぎゅっと握った。

 その杖の先に吊り下げられた、魔力で灯りをともすランタンが、ユーリの気持ちを映すみたいにチカチカと青白い光を明滅させていた。

「真紅。私はあなたに何を教えたらいいんですか?」

「ああ、うん。私はな、私が叶えられなかった願いを叶えてくれる人間を探してるんだ。こうして本の中に宿っていろいろな世界を旅しながらね」

「あなたが叶えられなかったこと?」

 それはどんなに難しいことなんだろう。

 ユーリは真紅が口にする次の言葉を聞き逃すまいと息を飲む。

「私が叶えられなかったこと……それは、“恋”をすることだよ」

「……恋?」

 それはユーリにとって、思ってもみない答えだった。

 思わずポカンとして首を傾げてしまう……。

 言葉の意味は知っている。けれどやっぱり、ユーリには“恋”することがなんなのか、はっきりと理解はできない。自分がこの世に生まれてどれくらい経つのかもよくわかっていないユーリだったが、今までただの一度も“恋”を経験したことなんてない……はずだから。

 そんなユーリのことを、真紅は“何だか少し私に似てるな”と感じてしまう。

“恋すること”は難しい。

 ……いいや。

“自分が恋してるかも”と気づくことが、私たちには難しいんだ――きっとセカイを救うことよりずっと。

 真紅はまるで愛しい我が子を思うように、ユーリの頭をそっと撫でてやりたくなるのをグッと堪える。ただ微笑みを崩すことなく言葉をつなぐことにした。

「私はな、ユーリ。半透明で実体を持たない私自身の代わりに、ユーリに“恋”することを学んでいってほしいと思ってるんだ。そうしてもし、いつか、ユーリが“恋”することを知ったなら。それを知りたいと願っていた私に、ユーリの“恋”について話して聞かせてほしいと願ってる。いつか魔法を渡すと誓う代わりに。それが私とユーリの間に結ぶ契約だ」

「契約……」

 ユーリは真紅から渡されたその言葉の意味を考える。

 目の前には“恋”すること以上にわからないことがたくさん降り積もってる。

 その一つだけでも答えが欲しい。ユーリは真紅に問いかける。

「……あの、一つ質問してもいいですか?」

「ああ、もちろんだ。どんなことを聞きたいんだ?」

「はい。……教えてください。“恋”をしたら、どうなるんでしょう? もし私がこの先誰かに“恋”することがあったなら、そのときは、何か合図があったりしますか?」

 誰かを好きになることが“恋”することだと言葉の意味は知っている。

 けれど、自分が誰かを好きになることなんてあり得るのだろうか。

 大切な人や、そばにいてほしかったと願う人たちはいる。

 その人たちに対する“好き”と、恋する相手を想う“好き”は、おそらく違うと想像する。

 だからこそ実感があまりに足りない。

 自分がもし誰かに“恋”をしたとしても、自分の心に気づけないのではないか……。

 ユーリにはそんな不安があったのだ。

“恋”をしたときのわかりやすい合図を知っておきたいと、ユーリは願う。

「合図? うーん。そうだな。言われてみると“これが恋だ”と言い切ることは難しい……かもしれないな。それを知らない私だからこそ特にだ。心と同じで目には見えないものだしな」

「そうですか。たしかに心が目に見えるものならわかりやすいかもですね」

 ユーリはうなずき、“たとえば……”と少し想像を膨らませてみる。

「たとえば、“恋”をしたら心の色が変わって見えるとか。そんなわかりやすい変化があればいいのに……」

“恋”することを知らない二人は、少しの間、意見を出し合ってみることにした。

「昔読んだ恋愛小説では、“恋をすると胸がドキドキ痛いんだ”って書いてあったような気がするな」と真紅。

「胸がドキドキ……。動悸ですか? それだと病気と間違えてしまいそうです。病院か、治療の魔法か魔術の専門医をたずねてしまいそうですね……」と真面目な顔で、ユーリ。

「んー。あとは、そうだな。“恋をするとその人のことしか考えられなくなる”って、昔観た映画では夢見がちなヒロインが言ってたな」と、ちょっと辟易したような顔で、真紅。

「一つのことしか考えられなくなるなんて。今度は心の病気でしょうか。心が壊れてしまっては恋するどころか、とてもじゃないけど生きていけなくなってしまいます……。恋することの期待より、やっぱり心配が勝ってしまいそうです」と、青い顔でブルリと、身体を震わせるユーリだった。

 いろいろと意見を交わしてみるけれど、どれもユーリにはピンとこないものばかり。

 もっとはっきりわかるものがあればいいのにな。

 そう思った瞬間だった。ふと、ユーリの中に思い出されるものがあった。

 恋をした相手とは夫婦になって、家族になって、一人、二人と、家族を増やして、笑顔も増やして、今と未来を飾り付けて生きていく――そんなことを歌う歌詞なら、ユーリも聞いたことがある。

 それはつまり、こういうことじゃないのかな……?

「“恋”することは、つまり……子供を作ること、ですか?」

「えっ……」真紅は頬を赤くした。「や、やめろよ。いきなり変なこと、言うなって……それってさ。つまり……」

 赤くなった頬を両手で包むみたいにして、真紅は唇を尖らせ、もにょもにょと言いにくそうに呟いた。

「え、えっちなことするって……話だよな。うう。えっちなのは、嫌いなんだ」

「え?」

「ご、ごめんな。その手の話はちょっと、付き合えないかな。知識が全然ないっていうより、ただ、すごく恥ずかしいだけっていうか……」

「えっち……?」

 最初は首を傾げていたユーリだが、真紅の言いたいことを理解してたちまち真っ赤になってしまう――恋することは、子供を作ること? えっちなことは、嫌い……?

 自分の口にしてしまった言葉の意味が、ユーリの心に覆いかぶさる。

 それってつまり、好きな相手と……。

「い、いえ! 違いますっ。そんなつもりで、言ったわけじゃ……っ」

 ユーリは真紅よりも更に顔を真っ赤にさせた。

「そ、そう、でしたか。え、えっちなこと、でしたか……そうですよね……私、何言ってるんだろ……神さまが好き合う二人にお似合いな、かわいい赤ちゃんをつれて来てくれるわけじゃ、ないですもんね。すみません。本当に、そんなつもりじゃ、なくて……」

 うつむいて、小さくなって、ますます真っ赤になりながら、ユーリはもじもじと言う。

「あ、う、うん。そうだよな。ごめんな。私の方こそ、早とちりしちゃって……」

 二人してもじもじしてしまう。

 ……何だか変な空気になってしまった。

「は、はは。えっちなことはちょっと苦手で……。つい、それっぽい話には過剰に反応しちゃうんだ。これじゃまるで私がいつもえっちなこと考えてるみたいで……うう。やっぱり恥ずかしいな」

「い、いえ。そんなことはないです。私も苦手です。えっちな男の子とか、何だか怖いって、思ってしまいますし」

 気が合いそうだな私たち、と言葉ではなく笑顔でその意志を二人は交換し合った。

「だけどさ。今のユーリを見ていて思ったんだ。心は目には見えないとさっき言ったけど、もしかしたらそうでもないのかもしれないなって」

 真紅は真っ赤になったユーリの顔を見る。

 人は恋をすると胸がドキドキ痛いし、その人のことしか考えられなくなっちゃうし、たぶん、そんな心を持った人間は、それが女の子でも、男の子でも、今のユーリみたいに真っ赤な顔で、照れ笑いを浮かべてる。

 それが合図だ。

 真っ赤になったその顔が、きっと、誰の目にも明らかな“恋”の色に映るはずだと思うから。

 パラパラと……。

 真紅が姿を現した本のページが、風もないのにひとりでに捲れていた。

 それを見た真紅がもう時間かなと言い、ちょっとだけ残念そうに肩をすくめた。

「そろそろ私は行くよ」

「あ……」

 まだまだ聞きたいことがユーリにはあった。

 けれどこの人は“恋”することを探して旅をしている。

 引き留めるわけにもいかないし、迷惑だってかけられない。もう少し話がしたいと伸ばしかけた手をユーリは降ろした。

 真紅もそんなユーリの頭を撫でたい気持ちを堪えて笑う。

「恋することがわかったら報告し合おうか」

「はい……」

「この人が好きだとそう思える相手が見つかったら、相手の好きなところやいいところを自慢し合ってもいいかもな。そのときが来たらいつでも私の本を開いて欲しい。いつだって、どこにいたって、お前のことを遠いセカイから応援してる。どちらが先に“恋”を知れるのか。心から楽しみにしてるよ」

 パタリと本が閉じられた。

 半透明の魔法使いを名乗る少女、二階堂真紅の姿はもうどこにもなかった。

 いつかまた真紅と逢えることがあったなら、そのとき自分は誰かに恋していたりするんだろうか……。

 不思議とズキリと痛んだ心に、今は、ユーリは蓋をする。

 いつか、そう遠くない未来の中に、“恋”することの意味を理解できている自分が笑っていてくれますように。

 ユーリはそんなことを思いながら、真紅の本を本棚に戻した。

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