通勤電車の夜

かつエッグ

通勤電車の夜

 席が空いたので、すかさず座った。

 いつも通りだ。

 あの眼鏡をかけた、小太りの会社員はいつもこの駅で降りるのだ。

 ふう……。

 重い鞄を膝の上におき、一息つく。

 通勤の、帰りの電車は、いつも最初は座れない。

 だが、がまんして待っていると、いつもあの会社員がここで降りるから、わたしはそれを逃さないように、毎日、その男が座っている横の通路で待機しているのだった。

 ガタン、と電車が動き出す。

 いつものように。


 ……今日も疲れた。

 わたしは、鞄から読みかけの文庫本を取り出しかけて、やめた。

 目がひどく疲れていて、読めそうになかった。

 それで、目を閉じて、膝に抱えた鞄にもたれかかる。

 使い古した鞄の、皮のにおいがする。


「あの人はもう来ないのかい」

「そうよ。今月で最後だって」

「なにかあったのか」

「お母さんの介護があるからって言ってたわよ」


 後ろの席で、老夫婦が会話を交わしている。

 声からはだいぶ高齢のようだ。

 聞くとはなしに聞いていた。

 どうも、二人はなにかの習い事の帰りらしかった。

 いっしょに習っている人が、親の介護のために来られなくなるらしいが、たぶんその人もかなりのお年のようで、これはひょっとして老老介護というやつか?


「そりゃあたいへんだな」

「そうなのよ」


 夫婦は話をつづけている。


 ガタン、ガタンと電車がゆれる。


「うわっはっはっ!」


 何人かの男たちの、野太い笑い声がひびく。


「だから、おれは言ってやったんだよ!」


 目を開けて、声のした方をみると、中年のサラリーマンが数人、顔をつきあわせ、立ち話をしている。みな、顔が赤い。どこかで一杯ひっかけてきたのか。


「そうだ、そうだ、そんなやつには言ってやればいいんだよ」

「お前はそんな度胸ないだろうよ」

「うわははは!」


 笑い声が爆発する。

 疲れた神経にさわる。

 どうしてあの人たちはあんなふうにいつも腹の底から声をだすのか。

 ああやって、アドレナリンを出して職場で戦っているのか。

 わたしは、窓の外に目を向ける。

 暗い中を、家の灯りがいくつも通りすぎる。

 わたしが降りる駅は、まだまだ先だ。

 窓には、消耗したわたしの顔が映っている。

 こんなふうに毎日疲れ、この仕事をいつまで続けることができるのか。


 わたしはまた目を閉じる。


「ありえないでしょ」

「ケイコ、そんな奴やめなよ」

「うん……でもね、あいつあれでね」

「それがダメなんだって。いいことないよ!」

「ねえ」

「ね」


 若い女の子たちの声がする。

 ちらっとみると、制服をきた娘たちだ。

 みんな、重そうなリュックを背負っている。

 高校生?

 最近は、平日の遅い時間でも、塾帰りなのかおおぜいこういう子たちをみる。

 たいへんだな、と思う。

 そして目を閉じる。


「……わたくしという現象は」


 ん?


「仮定された有機交流電燈の

 ひとつの青い照明です」


 ん?


 だれだ? ボソボソとつぶやいているのは?


 わたしは驚いて目をあけ、声の主をさがすが、わからない。

 気のせいか?

 覚えのあるフレーズ。

 あれは、宮澤賢治の「春と修羅」の、序文だったと思う。

 たしか、こう続く。


「風景やみんなといつしよに

 せわしくせわしく明滅しながら……」


 ああ、なんだか眠い。

 わたしはまた目を閉じて。


 がたん、と電車がゆれて、わたしははっと目をさました。

 窓の外ではホームが流れていく。

 今、途中のどこかの駅をでたところだろう。


「あの人はもう来ないのかい」

「そうよ。今月で最後だって」

「なにかあったのか」

「お母さんの介護があるからって言ってたわよ」

 

 後ろの席で、あいかわらず老夫婦が会話している。

 この二人もまだ乗っているのだ。

 だが、なにか違和感が。


「そりゃあたいへんだな」

「そうなのよ」


 わたしははっと気がついた。

 この会話は、さっきも聞いたのでは。

 お二人さん、大丈夫なのか?

 わたしは、老夫婦を心配した。

 いちど話したことを忘れてしまって、まったく同じ会話をくりかえすなんて。

 それにしても一言一句が同じなのも異様だ。

 わたしが、余計なお世話とは思いながら、二人の心配をしていると


「うわっはっはっ!」


 笑いがはじけた。

 そして、


「だから、おれは言ってやったんだよ!」

「そうだ、そうだ、そんなやつには言ってやればいいんだよ」

「お前はそんな度胸ないだろうよ」

「うわははは!」


 どうなっているんだ。

 おかしい。

 これは絶対におかしい。

 突然足下がおぼつかなくなるような不安がわきおこる。


「ありえないでしょ」

「ケイコ、そんな奴やめなよ」

「うん……でもね、あいつあれでね」

「それがダメなんだって。いいことないよ!」

「ねえ」

「ね」


 なんだこれは。

 おかしなことが起きているのに、だれか気づかないのか?

 わたしは、乗客たちの様子をみる。

 しかし、だれもが平然として、あたりまえのように日常を繰り返している。

 おかしいのは、わたしなのか?

 そんなはずはない。

 窓の外に目をやる。

 住宅街の灯りが流れすぎる。

 そもそも、いま、どこなんだ。

 わたしの降りる駅まで、あとどれだけだ。

 時間——腕時計を見る。

 ああ、どうしてか文字が読めない。

 示されたデジタルの数字が、目にはうつるけれど、その意味がわたしには読めない……。

 この文字は、いくつだ。

 わからない。

 なんだか朦朧としてくる。


 後ろの席で老夫婦がぼそぼそとしゃべっている。


「あの人はもう来ないのかい」

「そうよ。今月で最後だって」

「なにかあったのか」

「お母さんの介護があるからって言ってたわよ」


 ああ、またこの会話が。


「そりゃあたいへんだな」

「そうなのよ……」

「うわっはっはっ!」

「だから、おれは言ってやったんだよ!」

「ケイコ、そんな奴やめなよ」

「ねえ」

「あの人はもう来ないのかい」


 たすけて。

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