第13話 最終話 ヒーローになりたくて


 午前の透析患者の穿刺(せんし)が終わり、一段落すると交代で、10時半の早めの昼食に向かう。透析センターから南館に入ってすぐのエレベーターで3階に上がる。

 病院スタッフの食堂には、50席ほどの椅子が設けられ、明るい窓際のテーブルには、うちの沙智子の姿が見えた。南館病棟の同僚たちと、和やかに話している。

 すると、出入り口に近いテーブルから喝采が湧き起こった。こちらのテーブルには、透析センターの若い男性看護師で盛り上がっていた。新人の室岡優が立ち上がり、照れくさそうに掻いた頭をペコリと下げた。

「室岡くん、昨日はお手柄だったそうやない」

「よっ、命の恩人」

「いや、たまたまっすよ」

 

 前日、92歳の患者が、透析中に上の血圧が70にまで下がって意識のない状態だった。その異変にいち早く気がついた室岡が、患者に何度も声をかけ、意識を取り戻させたという話だった。

 窓際に座っていた主任からも声がした。

「室岡くん、よく気がついたね。偉かったよ」

その声に、ひとしきり

「ヒーロー」「ヒーロー」の歓声が飛んだ。

 山田安雄は、この若者たちに馴染めずにいた。

 年の頃なら、副主任の岩井剛志が一番近いのだが、主任と密談でもしているのか声を潜ませている。

 沙智子のいるテーブルに近付いて行くと、彼女は急に険しい表情になった。

 安雄は男性陣のテーブルの隅に、スゴスゴとトレイを持って戻って行った。

「ご主人、いいの?」

 沙智子の同僚の気遣う声が背中に響いて、よけいに安雄を惨めにした。

 ご飯と味噌汁は、病院で用意してくれる。おかずだけを毎日持参して来るのだが、タッパーウェアにはコロッケと卵焼き、あと冷凍食品のほうれん草のお浸しが入っていた。沙智子の弁当箱には、もう二、三品おかずが多く入っていたように見えた。

 女子学生のように、同僚たちとおかずを取り替えっこしているのを安雄は知らずにいた。


 ある日のこと、帰宅すると、沙智子が珍しく早く帰っていて、玄関先で靴を脱いでいる安雄の背中に声をぶつけてきた。

「あなた、女性の患者さんの胸を触ったって本当?」

「血圧計を巻くのに胸に当たっただけだよ。女性患者はオーバーに騒ぐんだよ」

「患者さんから訴えがあって今調べているって、事務の溝端さんがこっそり教えてくれたのよ」

 余計なことをい言ってくれるなあ。溝端は沙智子と同期で、3年前の結婚式にも列席してくれた。

「血圧が75に下がって、意識がないみたいだったから」

「意識がなかったのなら憶えてないから、訴えを起こすわけがないでしょ。もういい加減にしてよね」

「でも、沙智子の叔父さんも言っていたじゃないか。『意識を失った患者の乳首をグリグリってやると、意識を簡単に取り戻すもんだ』って」

「ちょっと待って。叔父さんは医者なのよ。それにお酒を飲んだ席での話でしょ。バカじゃないの、あんた、そんなんじゃ、いつまでたっても准看護師のままよ」

「何だよ、機嫌悪いな。沙智子にもやってやるよ」

 沙智子を羽交い締めにすると、スエットの襟元から手を差し込んだ。

「あんた、サイテー。やっぱりやったのね。心のどこかで、あんたを信じたいって思っていたのに」

 俺だって、仕事中は結構イケてるんだぜ。

 昨日だって、その患者の血圧が212にまで上がってさ、そんなに俺が計るとドキドキするのか、俺って罪。

「血圧降下剤は持っていますか?」

 なんて決め台詞。まるで医者みたいだろ。

 接近禁止命令が下るとは安雄は知るよしもなかった。

 安雄も患者を助けて「ヒーロー」コールを浴びたかっただけなのだ。




 

         ー了ー

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