第5話 史上最悪な客
タクシー運転手になって約二年が過ぎた頃、深夜に繁華街を流していると、突然スーツを着た40歳くらいの男性が、いきなりビルから飛び出してきた。
俺は慌ててブレーキを踏み、様子を窺っていると、案の定、男性は素早く乗り込んできた。
「運転手さん! 三分で駅まで行けますか!」
「えっ、それはちょっと無理ですね」
「そうですか……じゃあ、仕方ない。ちょっと遠いけど、○○まで行ってくれませんか」
「はい! わかりました!」
──ラッキー。○○だと、軽く一万は超えるな。
内心ほくそ笑みながら運転していると、男性が「運転手さん、内心ラッキーと思ってるでしょ?」と、俺の心を見透かしたように言った。
「バレました? お客様、よくおわかりになりましたね」
「あんなに嬉しそうに返事されたら、誰だってわかるよ」
「いやあ、私、根が正直なもので、思ったことがつい態度に出ちゃうんですよね」
「それって、タクシー運転手にとっては、マイナスなんじゃないの?」
「いやあ、私の場合、いい思いをした時しか態度に出ないという性質なものですから、なんの問題もありません」
「へえー、そうなんだ。じゃあ、客にどんな嫌なことを言われても、態度には出さないって言うんだね」
「まあ、そういうことですね」
「わかった。ところで運転手さん、さっきから思ってたんだけど、運転下手くそだよね。ブレーキを踏む力が強過ぎるし、ハンドルさばきもぎこちない。へたすりゃ、素人以下だよ。本当に二種免許持ってんの?」
「またまたー。お客様、私を怒らせようとしてるんでしょうけど、その手には乗りませんよ」
「怒らせようとなんかしてないよ。俺はただ事実を言ってるだけだ。運転手さん、もしかして自分の運転を上手いと思ってるの?」
「別に上手いとは思っていませんが、下手だとも思っていません」
「へえー。運転が下手なのを自覚してないんだ。それはタチが悪いな。今まで客に指摘されたことはなかったの?」
「一度もありません」
「ふーん。それはラッキーだったね。じゃあ運転手さんは、今まで心の優しい人か、かなりの鈍感な人しか乗せて来なかったんだな」
「どういう意味ですか?」
「だって気が短い人だったら、こんな下手くそな運転されて、文句言わないわけないからさ」
「お客様、私を怒らせようとしてるのは分かるのですが、私はそれくらいでは怒りません。なので、これ以上
「だから、貶してるんじゃなくて、事実を言ってるだけなんだけどね。まあいい。あと、もう一つ気になっていたことがあるんだけど、運転手さんてまだ若いよね。いくつなんだ?」
「35ですが」
「その年齢だったら、探せば他にも仕事あっただろ。なんでタクシー運転手になったんだ?」
「それはまあ、こちらにも事情がありまして」
「どんな事情だ?」
「それはあまり言いたくありません。プライベートなことですので」
「ふん。どうせ大した事情じゃないんだろ。しかしまあ、よくタクシー運転手なんかやってるな。不特定多数の客の中には、おかしな奴だっているだろうし、俺だったら、とても無理だな。まあ、元々タクシー運転手になる気なんて、さらさらないけどな」
「お客様の言う通り、どんな人が乗ってくるかという不安は常にありますが、それよりも私は楽しみな気持ちの方が強いですね。毎日様々な人と出会い、短い時間の中で心が触れ合うことのできるこの仕事を、私は誇りに思っています」
「はははっ! なに? 心が触れ合うだと? バカなこと言うんじゃないよ。だれがタクシー運転手なんかに心を開くかよ。ほんと、勘違いも
「そんなことはありません。何回か乗っていただいているお客様の中には、相談事をされる方もいらっしゃいますから」
「ふん。どうせ、大した相談事じゃないんだろ。嫁姑問題とか、その程度のものだろ」
「たとえどんな小さなことでも、人に頼られるというのは、気持ちのいいものですよ」
「なんて言うんだろうな。
「大きな夢って、例えばどんなものですか?」
「そんなの、自分で考えなよ」
「わからないから訊いてるんです。ちなみに、お客様の夢はなんですか?」
「そんなこと訊いてどうするんだ? そんなの、他人に言うものじゃないだろ」
「逃げるんですか? 人には夢を持てなんて言っておきながら、自分の夢を言わないのはズルくないですか」
「なにがズルいんだ! 夢なんてものは、自分の心の中にしまっておくもので、いちいち他人に言うものじゃないんだ!」
「そうですか。あと、どうして私が夢を持っていないと思われたんですか?」
「それは、運転手さんがあまりにも小さなことばかり言うもんだから、夢なんて持ってないんだろうなって思ったんだよ」
「お言葉ですが、私にも夢はあります」
「ほう。どんな夢だ?」
「それは言えません。お客様も先程おっしゃったじゃないですか。いちいち他人に言うものじゃないと」
「ふん。どうせ、つまらない夢だろ。将来独立して個人タクシーになるとか、その程度のものだろ」
「まあ、そのようなものです」
「なあ、悪いことは言わないから、そんなつまらない夢は捨てて、違う仕事を探した方がいいぞ。今ならまだ間に合うから」
「先程も言いましたが、私はこの仕事が好きなんです。なので、何と言われようと、辞めるつもりはありません」
「いや、参った。運転手さん、俺の負けだよ」
「えっ、どうしたんですか、突然?」
「いやあ、運転手さんを怒らせようとして、あの手この手を使ってみたけど、全部ダメだった。ほんと運転手さんて我慢強いね」
「お客様が私を怒らせようとしていたのは、最初からわかっていました。途中何度かぐらつきましたが、最後までなんとか平常心を保つことができました」
「ほんと悪かったね。俺、終電に乗り遅れてむしゃくしゃしててさ。そのうえ、運転手さんがあんなこと言うもんだから、つい意地悪したくなったんだ」
「いえ。私がお客様の気持ちも考えず、つまらないことを言ったのが悪かったんです」
やがて目的地に着き男性を降ろすと、俺はさっきの男性とのやり取りを振り返ってみた。
──会社に入ったばかりの頃だったら、俺は間違いなくキレてただろう。もしかしたら、手を出していたかもしれない。
それをしなかったのは、さっき俺自身が言ったように、このタクシー運転手という職業を好きになってきたということだろう。
最初は嫌々やっていたはずなのに、気が付くと俺はこの仕事が天職とさえ思うようになっていた。
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