タクシー稼業は楽じゃない

丸子稔

第1話 ずぶ濡れのラップ兄ちゃん

 平成九年八月某日、私は特に深く考えることもなく、タクシー運転手になりました。

 最初は腰掛のつもりで入社したのですが、結局四年半もの間タクシー運転手をしていました。

 その間、多くの個性的な客を乗せてきたので、今回はその中でも特に印象に残った五人の客について書いていこうと思います。






 昼間、先程から降り出した雨の街中を流していると、若い男が手を挙げているのが目に入った。

 男はこの雨の中を傘も差さずに立っていた。


──あちゃあ。あいつを乗せたら、シートがびしょ濡れになってしまうけど、このまま通り過ぎて、後でクレームの電話を入れられても面倒だし……


 しばらく考えた後、結局俺は男を乗せることにした。


「いやあ、すごい雨ですね。もう、びしょ濡れですわ。はははっ!」


 何がおかしいのか、男は乗った途端、笑い出した。


「朝は晴れてたから、まさか雨になるとは思いませんでしたよ。ほんと空の色はグレ―なのに、俺の心はブルーです」


──はあ? 何言ってんだ、こいつ。


 と、心の中で思いながらも、俺は敢えて男の言った後半の部分には触れず、「お客様、今朝天気予報は見なかったのですか?」と訊いてみた。


「ああ、俺そういうの見ないんですよ。常にその場面ごとに対応していくというか、わかりやすく言えば、行き当たりばったりってやつです」


「そうなんですか。まあ、そう言う生き方も、ある意味楽しいかもしれませんね」


「運転手さん、突然ですが、今の気持ちを歌ってもいいですか?」


「はい?」


──うわあ! こいつ、マジでやばい奴じゃん。やっぱり乗せるんじゃなかった。


「俺、ラッパーなんですけど、今、脳の中にいい詩が浮かんだんです。こういう時は、即実践するのが俺のスタイルなんですよ」


「別に構いませんが、その代わり手短てみじかに頼みますよ」


「わかりました。じゃあ、いきますよ。『♪今日、街を歩いていたら、突然雨が降ってきた。ワオッ! どうしようかと思っていたら、ナイスタイミングでタクシーが現れた。イエイ! そのタクシーのおかげで、下がり気味だった俺のテンションは、たちまちうなぎ上りさ。アゲアゲー! まさに気分は高揚。だから運転手さん、俺と一緒にパラダイスへ行こうよう!』以上、ご清聴ありがとうございました」


「……えっと、今のはラップですか?」


「そうですよ」


「私、ラップのことをあまり知らないのですが、ラップって、所々で韻を踏むものじゃないんですか?」


「まあ、基本はそうですが、やたらと韻を踏めばいいというものでもないんですよ。肝心なところで、バシッと決めれば、それでOKです。運転手さん、気付きました? 最後に俺が高揚と行こうようを掛けたのを」


「ええ。それはわかりました。あと、もう一つ気になったところがあるんですけど、パラダイスってなんですか?」


「やだなあ、運転手さん。パラダイスといえば、楽園に決まってるじゃないですか」


「では、最後の歌詞は、私と一緒に楽園に行こうということになりますが、これはどう解釈したらよいのでしょうか?」


「またまたー。そんな固いこと言わないで、もっと気楽に行きましょうよ。その場のノリを大切にするっていうかさ」


「ノリですか。同じのりなら、私は味付け海苔を大切にしたいですね」


「はははっ! 運転手さん、面白いこと言えるじゃないですか。それ、それ。俺はそういうのを待ってたんですよ」


「お客様に喜んでいただくことが、私たちタクシー運転手にとって最高の幸せです。さあ、もうすぐパラダイスに着きますよ」


 やがて目的地に着くと、そこはパラダイスと大きくかけ離れたおんぼろアパートだった。

 男は少し照れくさそうにしながら、そそくさと中に入っていった。






 


 







 

 






  


 

 


 



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