第28話 絶望を切り開け!

「モレット……」

「お母さん! お母さん! 誰か、誰か助けて!」


 リョウさんだけじゃなく、あの母子も動けないのに……。

 鬼が来るまでに全員を助けるなんて、僕一人じゃとてもできない。


「早く……逃げるんだ」


 心が闇に沈んでいく。もやのような触手が絡みついて、深く深く沈んでいく。


 ダメだ。方法がない。

 動けないリョウさんを放って逃げる? 母子もいるのに? 子どもだけでも連れて? 逃げる?


――強くなんてならなくていいから、人を助けなさい。


 幼い頃に聞いた母の言葉を思い出して、気づけばモレットは短刀を抜き、その柄頭を自分の手の甲に突き立てていた。

 痛い。けれど心地いい。

 痛みが、沈んでいく心に刺激を与えてくれる。


 逃げない!

 逃げない。逃げるわけにはいかない。

 ここで逃げて僕だけ助かって、母さんを目覚めさせることができても、きっと心の底から喜べない。

 それに、イサネと誓った。だから一緒にこの短刀を突き立てたんだ。前に、進むことを。


 ……あいつは、僕が倒すんだ。


「リョウさん、少し左腕を触ります。鉄縄をお借りしますね。あと……金棒も」


 二陽城に侵入する時に、火ノ木の火種として表面を少し溶かしてしまっていたが、まだ耐久性はある。


「……やめろ、モレット。何してる。君一人では無理だ……」


 モレットは母を助けようとする子どもの元に動きだす。さっきまでは見る余裕がなかったが、母親の埋もれる瓦礫の山の奥では、一軒の家を覆って炎が燃え盛っていた。鬼の咆哮も四方から聞こえてくる。おそらく、多くの武士と騎士が戦っているのだろう。

 救援は望めない。

 しかしやはり、子どもとモレットの力だけではすぐに助けだせそうにもなかった。母親も生きてはいるようだが、気絶してしまっている。

 モレットは片膝をついて、男の子に話しかけた。まだ四歳か五歳ぐらいだろうか。


「ごめんね。助けにきたけど、僕一人じゃまだ足りない。僕がお母さんを助けているから、君は人を呼んできてくれる?」


 フィノよりも小さい男の子は心配そうにモレットを見ると、母親と交互に目を動かした。


「僕はモレットって言うんだ。大丈夫、君のお母さんは僕が必ず守るから」


 にっこりと笑うと子どもは頷いて、ようやく動いてくれた。

 ドシンという音が、地響きが大きくなる。鬼はもうそこまで来ている。狙いを母親やリョウに向けさせないよう、モレットも近づいた。


 まずはこいつを、この場所から引き離さないと。


「逃げろ……モレット! 私も、武士の端くれだ! 己の引き際はわかっている。命を絶つ覚悟もできているんだ。構わずに……逃げろ!」

「僕は思いませんよ」


 モレットは地面を蹴る。こちらから攻撃を仕掛けなければ、鬼を誘導することは難しいだろう。サロアだって、初めてこの国で鬼と対峙した時、そうしていた。モレットたちを守るために。


「信念でも忠義でも、自ら死を選ぶことが美しいなんて!」


 自分の身長の五倍はある鬼の膝めがけて、モレットは金棒を振り抜いた。


 くっ、やっぱり硬い! 僕の腕力じゃ全然効かない。でも……。


 股を抜けて後ろに回ったモレットを、鬼は


 このまま、こいつをリョウさんたちから遠ざける!


 攻撃が効かないのはわかっているが、立ち向かうことに意味はある。モレットが二撃目を仕掛けに行くが――

 対象に目をつけた鬼の挙動は、獣が獲物を見つけた時と同次元の俊敏さだ。

 凄まじい地響きがなったと思ったら、鬼の掌が降りかかっていた。

 すんでのところでモレットは躱すが、その風圧だけで身体が壊れそうなほどの衝撃だ。


 飛ばされる!


 地に足が着かないまま、燃え盛る民家にぶち当たろうとしている。モレットは地面に向かって、両手で金棒を振った。あっけなく弾かれたが、勢いを少し殺せた。すぐさま再び金棒を、今度は左手で地面に押しつける。弾かれそうになるのを、命一杯の力で抑えつけた。


「うらぁぁぁあ!」


 両足も着き、モレットは地を滑る。なんとか民家に激突する前に、身体は止まった。


 ハァハァ、止まった――

 しかし鬼の攻撃がやむわけもない。

 迫る巨体を慌てて避けては体勢をまた立て直すが、鬼は間髪入れずに次の攻撃へと移り、モレットは紙一重で躱しての繰り返し。

 呼吸さえもまともにできないほどの、防戦一方だった。


 このままじゃマズい。攻撃できないし、リョウさんたちを気に掛ける余裕もない。僕がこいつを誘導しなきゃいけないのに。


 鬼の一撃一撃の破壊力が大きい。ほんの数分前にモレットが激突しそうになった民家も、すでに瓦礫と化していた。

 一度。

 たった一度でもまともにくらえば、死ぬ。

 死ななくても、重傷は避けられない。

 焦りと恐怖が、モレットの心をまたも闇に引きずり込もうとする。絶望という名の、暗い闇だ。


 これで本当に良かったのか。リョウさんに助けてもらった命を危険に晒し、死んでしまえばリョウさんが傷を負った意味もなくなる。

 充分引き付けられたし、背中を向けて逃げてしまおうか……。


 そんな考えが頭によぎるが。


 ダメだ! ダメだ! 諦めるな!

『町のほうは任せたぜ!』

 サロアは僕を信じてくれてるんだぞ!

 この時のために、稽古をつけてきてもらったはずだ!

 相手をよく見ろ! 攻撃に転じることはできなくても、相手を観察して勝機を見つけるんだ!


 地面を抉りながら鬼の爪が襲い来る。その一撃の範囲は広く、一歩や二歩では避けきれない。防御など論外だ。

 モレットは一心不乱で足を動かすが、鬼の爪はもう目の前だ。


くそ、間に合わないか――

しかし幸運にも、鬼の爪は着物の袖だけを切り裂いていった。

 確実に直撃すると思っていたモレットは、疑問符を抱きながら鬼の猛攻に対応し続ける。


 どうしてくらわなかった? 明らかに僕の方が遅かったのに……途中で鬼の腕が、一瞬止まったような……?


 思えば、鬼の攻撃を躱し続けていられるこの状況も不思議だ。僕の目が鬼の動きに慣れてきたなんて、そんなわけはない。これは……鬼の動きが遅くなってるのか!


 鬼の身体をよく見れば、肘や脛の辺りに鈍色の液体のような物体が張り付いている。それはまるで、騎士の着る鎧のようになっていた。


 あれは金棒や家の屋根に使われている……金剛樹か!


 金剛樹は火に弱く、冷めるとすぐに固まる。先ほど鬼が破壊した時に、炎の熱で液状化していた瓦たちがその身体に張り付いたんだ。

 勝機が見えたとまでは言えないが、この防戦一方の状況は変えられるかもしれない。

 モレットは鬼とは逆方向、燃えている家々のほうに走った。

 目論見通り、鬼はこちらめがけて突進してきている。

 できるだけ引きつけて躱す。そして……。

 鬼は見事に、民家へと突っ込んでいった。

 ドロドロに溶けていた金剛樹の瓦が、鬼の全身に纏わりつく。しかし構わずに、鬼はまたモレットに猛進してくる。

早く冷やさなければと、どこかに水場はないか探すモレットだが、それも杞憂に終わった。

 炎から離れた金剛樹は急速に冷めていったからだ。二陽城の鏡のような外壁は、相当な技術でもって塗装されたものなのだと実感する。

 鬼の動きは、モレットよりも遅くなった。


 よし! 次だ!

 リョウさんの鉄縄、千切れちゃってるけど長さはまだ充分ある!


 モレットは即座に金棒の柄と結んだ鉄縄を投げ、それを鬼の太い首に絡ませた。当然、鬼はその反則級の腕力でもって鉄縄を引っぱる。それも織り込み済みだ。

 鉄縄が勢いよく引っぱられたことで、モレットの掴んでいた金棒が、鬼の顔面へと飛んでいく。

 ガツンという鈍い音と共に、鬼が初めてよろけた。


「グゥゥゥ……ガァァァァァァ!!」


 やっぱりこれだけじゃ足りない。だったら今度は……。


 そのうちにもモレットは鬼の足元へと駆けだし、落ちた鉄縄と金棒を拾う。そして鉄縄のほうを、自分の左腕に巻きつけた。

 速度の落ちた鬼の拳を避けると、その腕を伝って肩へと登った。

 自分の身長と同じぐらいある顔と至近距離で目が合い、モレットはぎょっとする。

青黒い肌に白い瞳、鋭く伸びた下顎の牙。そして太い皺がたくさん刻まれた、憤怒の表情。


 怖い、怖い! 近くで見ると、なんて禍々しい顔だ。

 だけど、ここまで来て臆するわけにはいかない。


 もう一度鉄縄を首に巻きつけ、モレットは精一杯の力を込めて、その額めがけて金棒を振った。

 グラァ、と背をのけ反らせる鬼。宙に浮いたモレットはすぐに鉄縄を引っぱって、鬼にまた迫る。大木のような足と比べると、やはり顔のほうが弱い。

 再びよろめく鬼にこの機を逃すまいと、もう一度金棒を叩きつけた。


 倒れる!


 モレットはそのまま鬼の額に乗り、大きく跳び上がる。渾身の力で金棒を握り、振りかざした。


「お前に知能がなくて助かったよ」


 ピシッと黄色い角にひびがはいる。

 鬼が地面に倒れ、砂塵が舞った。その衝撃で転がるモレットだったが、すぐにまた体勢を立て直して鬼を見据えた。

 大きな巨体の影が、再び立ち上がろうとしている。


 くそぉ、まだ……まだか。


 歯を食いしばり、ほとんど体力を使い切った身体を走らせる。

 手をつく鬼に攻撃を仕掛け、立ち上がるのを阻んだ。

 これ以上の好機はない。


「さっさと終わってくれ!!」


 モレットは金棒を振り、ひびのはいった鬼の角めがけて、何度も何度も振り下ろした。折れたことさえも気づかず、必死に金棒を振り続けた。

 それが手からすっぽ抜けて、ようやくモレットは我に返った。気を抜けば殺されるという状況が、何かに取り憑かれたみたいに、モレットを集中させていた。

 鬼はもう、すでに動いていなかった。潰れた顔で大きく口を開けて。


 こ、殺した。いや、これは忌人が生みだした怪物で、生き物じゃない……。


「すげぇぞ、忌人のボウズ!」


 さっきの男の子が、大人たちを呼んできたようだ。母親のほうも、すでに救助されていた。

 忌人と呼ばれたのは、いつの間にか変化していた金色の瞳を見てのことだろう。

 だけど今はもう、そんなことよりも。


 勝った……。僕が……勝ったんだ……。


 モレットは大きく息を吐いて、夜空を見上げた。




 その時だった――。

 今までの鬼とは比べ物にならないほどの咆哮と、途轍もなく大きな崩壊音。

遠くに佇む二陽城の天守閣が崩れて、中から巨大な鬼が姿を現した。

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焉天の旅人 士田 松次 @sita-syouji

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