ブランクペーパー

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

 

つつしんでおあずかり致します」

 正座した振袖姿の女性が袱紗ふくさに包まれた札束状のブロックを折敷おしきごと受け取り、風呂敷に包んだ。女性が風呂敷を真結まむすびで閉じると、対座していた青年は紋付もんつきふところから一通の封書を出し女性の前に置いた。

蔵元くらもと、この場で式事と関係のないお手紙をヨシコ様にお渡しするのはいかがなものかと」

 ボブと同様に紋付羽織袴もんつきはおりはかまで正装した立会人が、苦笑いをした。

「ボブ先輩、もしかしてこれ、コイブミですか?」

「まあね。道中、読んでくれ」

 ヨシコは笑顔で手紙を受け取り懐にしまった。

 都心の一等地に在る寒海田祭酒造かんかいださいしゅぞう本社の社長室は畳敷きの和室である。社長のボブは出社すると和服に着替えこの部屋で執務にあたる。ボブは造り酒屋の経営者なので、社内では「社長」や「CEO」ではなく「蔵元」と呼ばれている。

 ボブの母親は先代の娘で、アメリカに嫁いでいた。四年前、先代は蔵元の座を譲る相手としてMITの大学院を首席で修了した若干二十六歳の孫に目をつけた。先代はアメリカにおもむき、あまり乗り気でなかったボブに自社の酒寒海田祭かんかいださいをしこたま飲ませてグデングデンに酔わせ、跡継ぎを了承する書類にサインさせた。ボブは勤めていた大手IT企業に辞表を出し日本に来て酒造会社の社長になった。年収は五分の一に減ったが、蔵元を継いだことをボブは後悔していない。寒海田祭という酒が好きだからだ。寒海田祭は人を気持ちよく酔わせる極上の美酒だ。世界中の人々をこの美酒で酔わせたい。それが今のボブの希みである。

 ボブはヨシコを屋上に連れて行き、ドローンタクシーに乗せた。

 ……今日のパイロット、見覚えのない人だったな。

 飛び去るドローンを見送りながら、ボブは首を傾げた。

 ヨシコは寒海田祭の酒造所に、或る極秘書類を届けようとしていた。

 明治時代初期の醸造開始以来、寒海田祭はそのたぐいなき芳醇ほうじゅんさにより人々から極上の美酒と称賛され続けてきた。創業者はその芳醇さの秘密を守るため酒造りのレシピを、精米、洗米・浸漬しんせき、蒸米・放冷、製麹せいきく酒母造しゅぼづくり、もろみ仕込み、上槽じょうそう、濾過・火入れ、寝かせ・割水、火入れ……の各工程ごとに分け、それぞれを主な親族十人に暗記させた。十に分けられた美酒造りのレシピは現在でも創業者親族の子孫十名が記憶していると云われているが、彼ら十名の氏名は公表されていない。

 四年に一度、秘伝見極ひでんみきわめと呼ばれる儀式が行われる。

 先ず、世界各地に居住する約百人の創業者一族のもとに蔵元から白紙の紙片が届く。一族のうち各醸造工程のレシピを知る十人は特殊なインクでそれを紙片にメモし、他の者は紙片を白紙のまま返送する。返送された約百枚の紙片から杜氏とうじ(醸造所の長)が十枚を特定する。杜氏は十枚のレシピを読み、現在の酒造りが秘伝通りに行われているかを確認する。以上が秘伝見極の式事しきじである。

 蔵元から預かった紙片の束を醸造所に届ける役目は振袖で正装した妙齢の女性が負うきまりだ。今回の秘伝届人とどけびとはヨシコだった。

「この儀式は極秘中の極秘とされ、行われる日時でさえ数人の重役しか知りません」と寒海田祭酒造は一応広報しているが、実際は極秘どころか日本酒愛好家なら誰もが知る公然の秘密だ。この大仰おおぎょうな儀式は、「秘伝」という言葉のもつ魔力によって消費者の購買意欲をあおるための宣伝イベントである。

 有名なコーラのレシピを知る者は世界に二名しかおらず、メーカーはこの二人が一緒に行動することを禁止している。二人が同時に死亡した場合、レシピが永遠に失われてしまうから……といった都市伝説がある。

 老舗しにせのフライドチキンチェーン店にも同様な伝説がある。調理に使うハーブとスパイスの配合を知る者は世界に三人しかおらず、創業者が考案したレシピは鍵穴が二つある金庫で厳重に保管されている。また本社が移転する際、創業者直筆の極秘レシピを装甲車で運んだという逸話もある。

「美味しさの秘密」は食品のCMでは定番のキャッチフレーズだ。

 美味の創出は「秘密」とか「秘伝」という言葉がもつ有効な機能のひとつである。

 特殊な透明インクでレシピを書いたメモを特定する方法は四年前まではあぶり出しだった。百枚を超える紙片を火で炙り、文字が浮き出た十枚を選びだす作業は大変な手間である。そこで、ボブは今年、炙り出し用の紙を情報秘匿機能をもつブランクペーパーというデバイスに換えたのだ。デバイスと言っても見掛けはただの紙である。


「すみません。このドローン、違うルートを飛んでいるような気がするんですけど」

 そう言ったとたんシューッという音が聴こえ、ヨシコは気を失った。


「どこかの廃工場かしら」

 気がついて直ぐヨシコは周りを見回した。拉致されたようだ。椅子に座らされているが縛られてはいない。十メートルほど離れた所で五人の男が何か作業をしている。

「あっ、ミスヨシコがお目覚めだぜ」

 一人が作業を止め、近づいてきた。男たちのボスらしい。

「先ずは、自己紹介をさせていだだこう」

 ボス格の男は上に向けた掌に人差し指を置き壁に向けてスワイプした。

 工場の壁に「MYATA」という文字が映し出された。

「ミヤタさん?」

「ミャータだよ。サイバーセキュリティーの研究者なら当然ご存知だろう」

 思い出した。MYATAは二年前か三年前に消滅したサイバー犯罪者集団だ。

 MYATA消滅の原因はメンバーたちの過剰な自己顕示だった。黙っていればいいのに、「この前、政府を詐欺って大儲けした犯人は俺で~す」みたいな自慢話を吹聴しまくっていたメンバーが次々と捕まり、自滅したのである。

「百人を超えるメンバーで世界を席巻していたのに、残念ながら現在では世界最高の頭脳をもつ五人だけの少数精鋭集団になってしまった」

 反省をする際にも、しっかり自賛を忘れていない。

「お酒造りの秘伝をお知りになるために私を拉致なさったのですか?」

「そうだよ。ただ、我々にとっては酒造りの秘密なんかどうでもいいけどね。俺たち、日本酒より洋酒のほうが好きだし」

 ブランクペーパーの解読法が知りたいだけだと男は言った。

 酒造りの秘伝を暴くことによって、究極の情報秘匿デバイス、ブランクペーパーからの情報読みとりに成功したという実績を世に知らしめたいらしい。

「我々五人の至高の頭脳をもってしても、ブランクペーパーがもつ情報秘匿機能の解析にはかなりの時間を要することがわかった」

 見栄をはらず、正直に「解析できませんでした」と言えばいいのにと、ヨシコは呆れた。

「それで已むなく、開発者である貴女を誘拐したのだ」

 ヨシコはブランクペーパーの開発者である。

「ブランクペーパーに書かれた情報は、最初に左上にサインした人しか読めません。開発した私にも読めないんです」

 未使用のブランクペーパーの紙面左上に署名すると、ブランクペーパーは署名者の生体認証を瞬時にかつ詳細に行い、以後紙面に書かれた文字を第一署名者しか読むことのできない読み取り専用紙に変容する。

 第一署名者からブランクペーパーを受け取った者は、特殊インクで紙面にメッセージを書く。メッセージを書き終わりブランクペーパーの右下にサインをすると、書かれた文字はブランクペーパーの表面に吸い込まれるように消え、以後、最初に左上に署名した第一署名者以外、誰もそのメッセージを読めなくなる。書いた者にさえ読めない。

 ブランクペーパーは公開鍵暗号と炙り出しとを足して二で割ったような情報保護デバイスである。ブランクペーパーは紙なので、電子通信システム上では使えない。ただ、それがブランクペーパーの最大のメリットだとする意見も多い。各国の首脳間で交わされる機密書簡などに使用されている。

 今回、蔵元から創業者親族に送られた百余枚の紙片は全て酒造所の杜氏とうじが紙面の左上にサインしたブランクペーパーだった。つまり、返送されてきた秘伝のレシピを読めるのは第一署名者の杜氏だけだ。

「開発者の貴女がブランクペーパーの解読法を知らないはずがないだろう。ミスヨシコ」

「知らないのです。開発者にさえ解読不可能なので、ブランクペーパーは究極の情報秘匿デバイスと呼ばれているんです」

 実は、解読法を知っている者がひとりいる。ボブだ。ボブがブランクペーパーの考案者だったことは世に知られていない。だが、今ここでボブの名前を出せば彼に危害が及ぶかもしれない。口をつぐんでいようとヨシコは決心した。

「やはり、こいつを使わないといけないようだな」

 男の一人が注射器を手にしてヨシコに近づいた。自白剤だ。

「ところでミスヨシコ、その封筒は何だ」

 ボス格の男が振袖の衿を指さした。

「これは私が先輩から頂いたお手紙です」

「見せてもらおう」

 ボス格の男はヨシコから封筒を奪い取り、中からレターペーパーを取り出した。

「ブランクペーパーじゃないか。左上に貴女のサインがある」

 男はヨシコの頭に拳銃を突き付け、読めと命令した。

 ヨシコは手紙を一度、黙読し、

「どうしても読まないといけませんか?」

 と、気のない返事をした。

「ああ、第一署名者である貴女にしか読めないからな」

 男は拳銃をヨシコの頭にさらに突き付けた。

 仕方ないという顔をして、ヨシコはボブからの手紙を読み始めた。

「君は野に咲く一輪の薔薇。僕は君の香りに酔いしれる。たとえ君のトゲが僕の指を刺したとしても、僕は……」

 ボス格の男が「ブーッ」と吹き出した。

「ダッサー」

 他のひとりが大声で笑った。

「聴いているこっちが恥ずかしくなるぜ。これ書いた奴、文才ゼロだな」

 もう一人が、さらに大きな声で笑った。

 世の中には笑ってはいけないことが三つある。

 ①出来れば笑わないほうがいいこと。

 ②笑ってはいけないこと。

 そして、

 ③絶対に笑ってはいけないこと……だ。

 今回、この男たちにとっての笑ってはいけないことは①でも②でもなかった。

 ヨシコはゆっくりと振り向くといきなりボス格の男の手首を捻り、拳銃を床に叩き落とした。

「ボブ先輩にはたしかに文才がないわ。けど、笑ったら失礼でしょ。ボブ先輩はね、気持ちが素直な人なのよ。だから、気どった文章を書くのが苦手なの」

 ヨシコは叫ぶように言いながら両袖を大きく翻し、舞う蝶の如く、そして刺す蜂の如く……あっという間に男たちをボコボコにした。

 柔剣道空手合気道合わせて二十五段というヨシコの秘密は恋人のボブさえ知らない。

 ヨシコの通報により逮捕された犯人たちは全員瀕死の重傷だったので、とりあえず病院に搬送された。現場に駆け付けた警官たちは、こんなたおやかな女性が、しかも振袖姿で、どうやって五人もの屈強な男たちを倒したのだろうと首をかしげた。

 簡単な事情聴取の後、ヨシコは警察のドローンで醸造所まで送ってもらった。

「遅くなりまして申し訳ございません。秘伝見極めのための枚葉まいようおよそ百枚、お届けに参りました。よろしくお受け取りのほどお願い申し上げます」

 正座したヨシコが袱紗ふくさを開き、プランクペーパーの束をのせた折敷おしきを杜氏の前に差し出した。

「承知致しました。お届け頂き、恐悦至極に存じます」

 蔵人頭くらびとかしら麹屋こうじや酛屋もとやの三役を後ろに控えた杜氏は、帯封おびふうをかけた凡そ百枚のブランクペーパーをうやうやしく受け取った。

 杜氏は表座敷を出て酒蔵に入ると、「これ燃やしといてくれや」と、ブランクペーパの束を帯封おびふうを解かぬまま飯焚ままたき(新人・雑用係)の若者に渡した。

 死ぬほど心配したが恋人のヨシコは無事だった。しかも今回の事件のおかげで秘伝の価値を上げた銘酒寒海田祭かんかいださいの売り上げは、きっと倍増するだろう。ただ、ボブには心配事が一つある。

 ……寒海田祭の秘密を命がけで守ってくれたヨシコに事実をどう伝えようか。いくら優しいヨシコでも本当のことを知ったら怒るかもしれない。

 創業者一族から送られてきた約百枚のブランクペーパーには何も書かれていない。美酒醸造の秘伝を知る者など、この世にはひとりもいないのだ。杜氏や蔵人たちの勘と経験、そして良い水と良い米と良い麹が美酒を醸し出す。それこそが「秘伝」だと言われれば、そうかもしれないが。寒海田祭のレシピを十に分け十人の親族に伝承させた……というストーリーは創業者の創作である。代々の蔵元と杜氏だけがその事実を知っている。


「先輩からいただいたお手紙、犯人の方たちに無理矢理読まされたんですけど、あの人たち先輩が書いてくれた素敵な詩を馬鹿にしたんですよ。それで私、ちょっとキれちゃったんです」

 ヨシコが大ギれして何をしたのかをボブは警察からきいていたが、敢えて口にしなかった。

「で、僕がブランクペーパーに書いた最後の一行の返事は?」

「もちろん、イエスよ」

 ボブは「ありがとう」と言うと、ヨシコの前で跪き、リングケースの蓋を開けた。


                                   了

                         

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