最終話

 なあ、今日は出かけないか?


 俺がそう問うと、彼女は「はい」と答えてくれた。

 二人で訪れた海はどこか彼女のように透き通っていて、すぐに汚れてしまいそうなほど綺麗だった。そんな彼女は俺を見るなり笑みを浮かべる。この時間が永遠に続けばいいのに…心底そう思った。

 この事件が解決したらまた海に行けるだろうか…?

「いいえ、私はもう行くことができません」

 そう彼女に似た声が聞こえた途端、現実へと引き戻された。


「起きましたか、もうすぐで着きますよ」

 目が覚めると、まず聞こえてきたのはハンドルを握る部下の声だった。

 ああ、そうか…。事件が起きた現場へと向かっていることを思い出した。

 どうやら相当深い眠りについていたようだ。井上は疲労の溜まった身体を伸ばした。

 

 事件が起きたのは八階の部屋、遺体の状態から見るに殺人だろう。名前は天羽寺あまふじ 晴人はると。起業家だそうだ。井上とその部下は遺体の前で手を合わせた。

 すると突然、胸ポケットに入れていたスマホに電話がかかってきた。すぐに電話に応じる。

「どうした?」

『強盗集団について調べていたんだが、あることがわかった』

 署にいる同僚からだ。

「なんだ?」

『強盗集団は原、田島、そして現在取り調べ中の島崎だけではないそうだ』

 なんだと…?

『あと一人いる。それは——』

 井上は唾を飲み込んだ。

『——天羽寺晴人。本件の被害者だ』

 それを耳にした途端あることを思い出す。〝次は…俺の番だ……!〟そう、ここに来る前にあの男が、島崎が口にした言葉だ。

 そういうことか…犯人は強盗集団を標的に犯行に及んでいたわけだ。おそらく復讐だろう。しかし、強盗事件の被害者情報はまだない。今から未解決殺人事件全部を追ったとしても、たどり着く前に島崎が殺される。それじゃあ間に合わない。

 井上は署に戻ることにした。


 俺は同僚に予め島崎の監視を頼んでおいた。いつ襲撃されるかわからない。あともう少しで送検される。それが完了するまでは奴を警護し、何としてでも犯人を捕まえなければならない。俺は部下にあることを頼んだ。

「送検が完了し、警察署に戻るまでは俺たちが警護する。その許可を貰いにいってくれないか?」

「わかりました」

 だが完璧に警護するわけではない。あえて隙を作る。でなければ犯人は現れないだろう。わざわざ自分からアリ地獄に突っ込むほど馬鹿ではないはずだ。

 俺は部下が許可を取っている間に妻に電話した。だが家には繋がらなかったため、ケータイに直接かけた。

「もしもし?」

『もしもし、どうなさいましたか?』

 相変わらずの敬語だ。俺は彼女に近状報告をした。

「もう少しで事件が解決しそうなんだ。つまり、その…帰れそうなんだ」

『…ふふっ』

 すると妻はフッと笑い出した。

『なぜ、照れていらっしゃるのですか?』

 妻はからかい口調でそう聞いてきた。

「そりゃ…瞳のことが好きだからに決まってるだろ」

 そしてまた妻は笑った。

『あなたらしくないですね』

「…そうかもな」

 久しぶりなのかなぜかいつも以上に恥ずかしい。だがこの時が人生の中でいちばん幸せだ。

「なあ、もしよかったら…また出かけないか?海でも見に行こう」

 俺は全てが終わった後の話に持ちかけた。

『…ええ、もちろん』

 妻は少し間を開けて答えた。

 よく耳を澄ませてみると電話越しに風の音が聞こえてきた。

「今外にいるのか?」

『はい、お買い物です』

「そうか…」

 廊下へ目をやると向こうから申請をしにいっていた部下が戻ってきていた。

「そろそろ戻らないといけない」

『はい、わかりました』

「じゃあまた」

『はい——愛しています』

 彼女は別れ際にそう言い、電話を切った。

 帰るのが楽しみだ。

「あの、終わりましたか?」

「あ、ああ」

 どうやら会話を聞かれていたらしい。

「それでどうだった?」

「許可はするが、人員を増やせという条件付きです」

 人員が増えれば増えるほど犯人の出現率は下がる。なるべくなら少ない人数で行いたいが断っている時間はない。引き受けよう。


 一時間後、身柄を送検するため車に被疑者を乗せる。俺たちは防弾チョッキ、拳銃を装備した。

 いつ襲撃されるかわからない。ワゴン車のドアを開けたその時だった。車内に潜んでいたフードを被った人物が島崎に拳銃を構えたのだ。

「…!まずい!」

 井上が島崎を庇おうとした途端、突然意識が遠のいた。〝死守〟が発動したのだ。だが井上は意識を気合いで保とうとした。

「うぉおぁぁぁぁ゛!!!」

 視界が暗くなってもなお倒れかかるフードの人物を抱き抱えた。腕にのしかかるか弱く繊細な感触。その感触には覚えがあった。そして暗かった視界が開ける。

「…ひとみ?」

 腕の中には、肌白で透明感のある美しい妻の姿がそこにあった。その妻の腹部には大きな穴が空いていて、血が溢れ出している。

「どうして…瞳…何でだよ…」視界が急にぼやけた。そして、妻の顔に涙がこぼれ落ちる。

「なんで…なんで…っ」

 すると妻は井上の顔へと手を伸ばした。

「泣かないで…貴方…」

「そんなの無理だ…お前がいないと俺、どうなるんだよっ…」

 井上は泣き叫んだ。声にならないぐらいに何度も何度も叫んだ。

 瞳の目が段々と虚になってきている。俺は瞳の手をギュッと握った。

「なぁ頼む!起きてくれよ!」

 そして瞳は最後の力を振り絞って口を動かした。

「貴方、これからも…ずっと…愛しています…」

 それは妻の、瞳の最後と言葉だった。やがて掴んでいた瞳の手は滑り落ちた。


 その後判明したのは昔妻は強盗犯島崎によって殺された母親の娘だということ。母は足を悪くしていたため、瞳は母と同居していた。だが島崎はそんな二人の暮らしを突然壊したのだ。俺はそんな島崎を許すことができなかった。

 俺はこの能力のせいで事件の真実を失い、同僚の信頼を失い、妻も失った。だが、それももう終わり。俺はこれからも前へと歩き続ける。もう後悔しないように。そして——

——何も失わぬようにと。


        × × ×

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

喪失刑事 謎崎実 @Nazosaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ