第3話 音の泉
会場は、市内のコンベンションセンター内にある中ホール。
関係者が多いのか、チラシのたまものなのか、人の入りはそこそこだ。
受付で入場料を支払い、パンフレットを受け取る。自由席だったから、中列の真ん中に座ることにした。
ステージには舞台が組まれ、照明は落とされている。演奏が始まれば、その立場は逆転するだろう。
受付でもらったパンフレットを開くと、写真と共に、雅楽とは……という説明文が書いてある。
「雅楽とは、日本古典音楽のひとつであり、世界最古のオーケストラ……十世紀頃の平安時代に大まかな形態は成立するが、元は奈良時代にまでさかのぼるって、めっちゃ古いじゃん」
ボソリと呟き、慌てて周囲に視線を走らせた。詳しい人に無知な呟きを聞かれ、事細かに説明されたりしては迷惑だ。
幸い、近くに座る人達の耳には届いていないらしく、誰も気にする素振りすらみせていなかった。
『本日は、お越しいただき、誠にありがとうございます』
場内アナウンスが入ったことをきっかけに、開いていたパンフレットを閉じる。膝の上に置いていた鞄と自分の体の間にパンフレットを挟んだ。
アナウンスが終わると、客席側の照明が暗くなる。反対に、舞台の上が徐々に明るくなっていった。
いつの間に座っていたのか、烏帽子を被り、平安時代の貴族みたいな装束を着た人達が並んでいる。
(わっ! ……かっこいい)
そこだけ、時代と空間を飛び越えてしまったかのようだ。
座っている人数は四人。下手に太鼓。その斜め前に笙。中央に篳篥。上手に龍笛。笙の奏者の前には、筝も置いてある。
そして、指揮者の姿は無かった。
(どうやって、演奏をスタートするんだろう)
疑問に思っていると、おもむろに笙と篳篥の奏者が、それぞれ楽器を口に当てた。互いに気配を読み合い、タイミングを合わせて息を吸う。
楽器に息が吹き込まれると、一枚の葉が舞い落ちて湖面に生じた波紋のように、音が勢いよくブワーッと広がっていく。全身を……空間を包み込むように、どんどん音が膨らんでいった。
オーケストラや吹奏楽部が演奏する、管楽器や弦楽器の音の広がり方と、まるで違う。
(凄い。こんな感覚、初めて)
太鼓と龍笛の音も加わり、さらに音の厚みが増す。
全身が、
それはまるで、魂の浄化。
背負っているマイナス要素が、音に押し流され、削ぎ落とされていくみたいだ。
生で聴く雅楽の演奏は、音楽の授業で映像を通して観るものとは全然違う。空気を伝って押し寄せる音の波に、ただただ圧倒されるのだ。
アーティストの演奏はライブに限ると言う人もいるが、同じように雅楽の演奏も、ライブのほうが断然いい。
ひと呼吸だけ音が消え、龍笛のソロが始まる。
顔に注目すれば、公園で練習をしていた、あの男性。装束を着た姿は、洋服のラフな格好のときとは、まるで別人に見える。
公園では自信が無さそうだったのに、今はそんな不安を少しも感じさせない。
それは、練習に裏打ちされた自信だろうか。
(凄いなぁ。没頭できることがあるのって、羨ましい……。今の私には、なにも無い)
私も、周りの同級生も、男女の色恋にしか興味が無かった。
その結果が、今の私だ。
別れを告げられたことで、心はボロボロ。食べる気力も無いせいで、体調にも影響が出てきていた。
泣いて、泣き止んで、泣いて、泣いて。ひたすらに悲しい。ずっと悲しみに向き合っているから、さらに塞ぎ込んでいく悪循環。
そんな負のループから抜け出したい。抜け出したいのに、抜け出せない。立ち止まったまま、動けずにいる。
常に傍に在る影のように、引っ付いて離れない悲しみ。
でも今、この瞬間は、高揚感が心も体も支配していた。感動が、沈んでいた気力を浮上させ、疲れきって枯れていた心を震わせている。
(音楽で、こんなに感動できるんだ。こんなに感動するの、初めてかも……)
目蓋を閉じることで視覚を遮断し、音に身を委ねてみる。
ゆりかごに揺られる子供のように、どんどん心地よくなっていく。
龍笛が、聴いたことのあるフレーズを奏で始めた。
(知ってる。これは、越天楽)
雅楽の曲で、初めて覚えたタイトルだ。
(たまたま出会った、あの人が教えてくれた曲……)
あぁ、しまった……と、胸中で呟く。
(あの人の名前……聞いてなかった)
龍笛を吹く男性は、公園で少しだけ話をした私のことを覚えているだろうか。
もし覚えていなくても、出会いのきっかけを話したら思い出してくれるかもしれない。
それまでは、あの男性のことを『公園の
平安時代の装束を身にまとう今の姿は、公園の君と呼ぶのに相応しい。
越天楽を吹き終え、唇から龍笛を離した公園の君は、満足そうな笑みを浮かべている。
充足感が羨ましい。
(私も、趣味を探してみようかしら)
興味本位大歓迎! と、ガッツポーズをした公園の君の姿が思い起こされる。
興味本位を突き詰めてみるのは悪いことではないと、背中を押されている気持ちになった。
(そうよ。何事も、興味を持つことから始まるわよね)
出待ちをし、公園の君を捕まえて、この雅楽サークルの見学をさせてもらえるか頼んでみよう。
音の泉に沈んでいく心地よさに、もう一度身を委ねる。
ヘドロのように堆積していた悲しさや苦しさ、不甲斐なさや悔しさが、ゆっくり……ゆっくりと溶けていくような、そんな穏やかな気分になれた。
《終》
龍の嘶きに導かれ 佐木呉羽 @SAKIKureha
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