第2話 龍の鳴き声

 男性が手にしていた横笛は、飴色に光っている。

 竹製なのか、木製なのか、遠目には判断がつかない。お囃子で見るような細い横笛ではなく、重量がありそうな、重厚感のある横笛だ。

 男性は笛を持つ手を膝に置き、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。


「すみません。うるさかったですよね」

「あっ、いえ……違くて」


 私は涙でグチャグチャになっている顔の前で両手を左右に振り、慌てて否定する。


「笛の音って珍しいから、どこから音がするんだろうって……公園の中を探してたんです」


 探し当てたあとは、どうするのか決めていなかった。

 音源を見つけて満足したかっただけなのか、吹いている姿を眺めてみたかっただけなのか。ただ単に、音色を聴いていたかっただけなのか。


 自分の気持ちなのに、どれが正解なのか分からない。


 でも、ひとつだけ確信を持って言えることがある。


「私は、音に……誘われたんです」

「音に誘われた? そう、ですか」


 男性は、わずかに眉根を寄せる。私の場当たり的なようにも受け取れる答えを咀嚼し、ゆっくりと解釈して飲み込んでいくみたいだ。

 怪しい人と訝しがられるかもしれない。だけど、興味のほうが勝る。

 この機を逃しては、次は無い。意を決して胸の前で拳を握ると、地面に根が張ってしまったかのように動くことを拒む足で、弱々しい一歩を踏み出した。


「あの、聴いていても……いい、ですか?」


 空気を震わす笛の音を……もっと聴いていたい。荒みきり、ボロボロになって疲れ切った心が、清らかな音色に洗い流され、浄化されたような気持ちになれたから。

 男性は意表をつかれたのか、少しだけ目を大きく開く。そして、柔らかく微笑んだ。


「そんなに上手くはないですけど……それでもよかったら、どうぞ」

「ありがとうございます」


 男性から少し離れた位置に移動し、膝を抱えてチョコンと座る。地面に触れるスカート越しのお尻が、一瞬だけヒヤリとした。

 男性は手にしたままの笛に視線を落とし、七つ穿たれている笛の穴に指の腹を当て直す。

 下唇に笛の歌口を当てると、まるで龍のいななきのような膨らみのある音を鳴らし、空気を震わせた。

 柔らかく、なだらかに指を滑らせて音を奏でていく。

 なんという曲か分からない。だけど、どこかで聴いたことがある楽曲。

 空気を震わせる音の響きが、とても心地いい。自然と目蓋が降り、私の心は凪いでいく。

 ひと通りの確認が終わったのか、一曲吹き終えたのか、男性は唇から笛を離した。


「今の……なんの曲か、分かります?」

「えっ?」


 まさか、質問がくるとは思わなかった。すぐに答えは思い浮かばず、また視線が泳いでしまう。

 ザ・和という、お正月や新春のコマーシャル、神社の結婚式やなんかで聴くイメージが強い。けれど、タイトルは分からなかった。


「えっと、すみません。耳に覚えはあるんですけど……」


 男性は「フフッ」と小さく笑い、柔らかな笑みを浮かべる。


「この曲は、越天楽といいます」

「えてん……らく?」


 オウム返しする私に、男性は「そうです」と頷く。


「越天楽というのは、雅楽の曲のひとつです。そして、これは龍笛という名前の横笛。この龍笛は、天と地の間を泳ぐ龍の声を表すと言われています」


 想像上の生き物である龍だけれど、その鳴き声は想像できる。

 とても気高く、誇らしげなイメージだ。

 龍の声と説明されれば、納得できてしまうほどに。


「たしかに、龍っぽい……」


 納得したように呟くと、男性は目尻にシワを作ってニコリと笑う。その笑顔は、とても人懐っこくて、好感が持てた。


「楽器にも意味があるとは知りませんでした。練習されてるってことは、神社の神職さんですか?」


 自分から尋ねておきながら、瞬時にハッとする。


(しまった……ヤバい。失言したかも)


 これは、プライベートな質問だ。聞かれたくない個人情報かもしれない。


「あっ、ごめんなさい。えっと、今の質問……興味本位です。答えなくていいです。すみません。無かったことにしてください……!」


 私なんかが興味を持ってしまったことが申し訳なくて、消えてしまえばいいのにと念じながら、抱えていた両膝に額を押し当てた。


 自分のことは話すつもりがないのに、相手に対してだけ詮索するなんて失礼だ。

 なんて自分本位。

 こういうところが嫌で、彼から別れを告げられたのかもしれない。


 ――一緒に居ると疲れるんだ。

 ――なんでもかんでも気にしすぎで、こっちの気が休まらない。

 ――もう終わりにしよう。

 ――別れてくれないかな。


 ダメ元で告白したらOKをもらえて、嫌われないように必死だった。

 いつもビクビクおどおどしてしまって、日々緊張しかしていなかった日々。

 一緒に居て、心安らいだときがあっただろうか。


(私は、無かった。だから、きっと先輩も……全然楽しくなかったんだ)


 分不相応なのに、あのときの私は、なんで告白なんかしたんだろう。

 ただ、好きだったから、という一時の感情に身を任せてしまった当時の自分が憎らしい。

 先輩は、こんな私のどこを気に入ってくれて、彼女にしてくれたのか。いまだに、いくら考えても正解に辿り着けない。

 もう終わってしまったことなのに、頭の片隅にずっとあった疑問が、今になって蒸し返された。


「僕は……」と、話し始めた男性の声に、私は意識を引き戻す。


「僕は、神職ではありません。雅楽のサークルに入ってるんです」

「サークル? えっ、大学生? 学生さんなんですか?」


 同じ大学生という立場なのだとしたら、なんて落ち着いている風貌だろう。柔らかな物腰は、年齢が近い異性とは到底思えない。


 男性は「いえ」と否定し、苦笑いを浮かべる。


「僕は、社会人です。大学は卒業して、三年近く経ちます。今は和の文化や、雅楽が好きな人が集まるマニアな社会人サークルに所属しているんです」

「マニア?」


 キョトンとする私に、男性は不敵な笑みを浮かべる。

 笛を唇に当て、細く長く息を吹き込む。

 今度の曲は、誰もが知っているアニメ映画の主題歌だった。


「これは、なんの曲か分かりました? こうやって、現代曲も吹けちゃうんですよ」

「おぉ、凄い」


 パチパチと拍手をすれば、男性は嬉しそうにはにかむ。


「ありがとうございます。でも僕は、まだ拍手をもらえるような実力じゃありません。始めてから年数だけ経過して……ただ、それだけなんです。音は鳴るけど、情緒が無い。演奏で情景を伝えることが苦手で、まだできていないんです」

「情緒ですか……。難しそうですね」


 言葉でも伝えることが難しいのに、音で伝えるなんて、かなりの技術と芸当が必要だろう。

 情緒的に演奏することは、練習して獲得できる技術なのだろうか。それはもう、才能というか、天性のものな気がする。


「難しいけど、できるようになりたいから……諦めずに、地道に練習を続けているんです」


 なぜなら、と男性は一枚の紙を差し出す。


「今度、ホールを借りて演奏会をすることになっています」

「え! 凄い」

「身内だけって感じの会なんですが……。興味がある一般の方にも入場してほしくて、いろんなお店や知り合いのところにチラシを置かせてもらっているんです」


 チラシには、雅楽の演目で舞われているであろう面の画像が、大きくドンと掲載されている。大きくギョロリと丸い目玉が、少し怖い印象だ。


「会場の使用料とか払わないといけないんで、入場料が必要なんですけどね。都合がよければ、聴きに来てください」


 チラシを受け取り、おもむろに男性の顔を見上げる。


「私がもらっても、いいんですか?」

「こうして話をするのも、なにかの縁だと思うんです。興味があれば、ぜひ。興味本位は大歓迎ですよ!」


 男性は拳を握り、ガッツポーズをしてみせた。浮かべている笑みも、気合いに満ち溢れている。


「なにか分からないことがあれば、チラシに記載されている電話番号に連絡してみてください。サークルの代表に繋がります」

「あ、はい……」


 知らないサークルの代表より、今この場で会話をしている男性の連絡先を教えてもらったほうが、気持ちとしては楽かもしれない。

 だけど、知り合ったばかりの人に連絡先を聞く勇気なんて、爪の先程も持ち合わせていなかった。

 男性は龍笛を錦の袋にしまい、楽譜を持って立ち上がる。


「それでは、会場でお会いしましょう」


 唇が勝手に動き、はい……と返事を口にしてしまった。

 男性は「では、また」と、振り向くことなく颯爽と立ち去る。その姿は、どこか潔くて清々しい。


「これは……行く流れになっちゃった、ねよ?」


 この場に一人で取り残され、小さくなっていく背中を見詰めている。

 我に返り、スケジュールを確認すると、演奏会の日はなんの予定も入っていない。というよりも、デートの予定が、別れを告げられたことにより無くなってしまったのだ。

 演奏会に行ってみようか、やめようか。


(さっきの……龍笛の音は、もう一度聴いてみたい)


 心震えた音を……もう一度。


 今度の日曜日に開催される雅楽の演奏会に、足を運んでみることにした。

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