来夏を胸に
あれから三年後。B大学の政治経済学部でジャーナリズムを学んでいた俺は、卒業まであと二年弱というタイミングで大学を休学した。潔く、辞めれば良いのに。自分でも中途半端だと思う。高校三年生の三者面談のときと同程度の中途半端さである。
とあるご縁があって、某出版社でアルバイトを続けていたのだが、海外渡航費と学費の目途がある程度ついたため、留学に出ようと思ったのだ。――今度こそ、写真を学びたい。この夏、俺はシカゴの芸術大学に行く。
「へぇ、じゃあ来夏くんはジャーナル系じゃなくてゴリゴリの芸術系の写真をやりたかったってわけか」
バイトの最終日、俺の送別会で先輩社員は興味なさそうにつぶやいた。先輩の言葉を受け、俺はあいまいに笑った。同じカメラマンでも、雑誌に載せる芸能人の写真、コマーシャル用の宣材写真、個展や美術展用の写真では求められるスキルもセンスも違う。いつか、自分の撮った写真で個展を開きたい。写真集を出して、売れてみたい。そんな夢を、いまだに捨てきれずにいる。
「もったいないなぁ、来夏くん、せっかくうちの戦力だったのに。ほら、もうじき就活も始まる予定だっただろ? 正直、来夏くんに新卒で来てもらえたらな、みたいな話を冗談半分でしてたんだよなぁ」
「恐縮です。……まぐれで撮れた、あの写真のおかげで、こんなに長い間お世話になることができるだなんて、俺も思ってもみませんでしたから」
現場に行って写真を撮ったり、たまにはちょっとした記事を書いてみたり。半分インターンのようなアルバイトを続けていた俺は案外、この出版社に期待されていたようであった。
高校三年生だったあの日、俺は春菜のデート写真を出版社にメールで送り付けた。それからあっという間に週刊誌の記事ができあがり、トップアイドルの彼女が恋愛をしていたという噂は日本中に広まった。相手は、撮影現場で知り合ったというカメラマンだったそうであるが、そんなことはどうでもいい。
「あんな清楚な顔をしておいて、俺たちを騙してたんだな」
「嘘つき女」
「あのバラエティ番組で見せた涙は偽物だったのか? 一生グループのために尽くすって言っていたのはなんだったんだ?」
ネットは一時期、彼女に対する罵詈雑言で溢れた。しかし彼女は悪びれる様子もなく、「恋愛をしてはいけないという契約はありませんでしたから」と言い放ったのだ。それから一年後、春菜はアイドルグループを卒業し(しかもちゃっかり、盛大な卒業コンサートまで開いてもらって)、今では女優兼モデルとして、相変わらず仕事を続けている。なんというか、強くなったものだ。俺が良く知る、泣き虫のハルはどこにもいねえんだなって、改めて思った。まあ、彼女のアイドルとしてのキャリアを台無しにした俺が言うべきことではないのだが。
日本を発つ前日、俺はライカを胸の前にかけ、幼い頃よく遊んだあの公園に来ていた。最後に、身近にあった美しい景色を順番に収めていこうと思い立ったのだ。桜の花はとうに散り、みずみずしい新緑が芽吹いていた。空気がしっとりと、重みを増している。この空気の重みや温度感を一枚の写真に収めるのはかなり難しい。
ジャングルジムって、こんなに低かったっけ? ブランコの座面はこんなにも狭く、シーソーだって、あの頃はとんでもなく長い板に乗っているつもりだったのに。そういう驚きをカメラ一台で表現する方法を渇望していた。
桜の木だってそうだ。あの頃はとんでもなく壮大で、頼もしく見えたはずだ。今となってみればなんの変哲もない、むしろやや小ぶりな幹じゃないか、と驚いてしまう。近づいて、その幹を撫でる。――そのとき気づいたのだ。
幾多の傷が、積み重なっている。左側の線は、右側の線よりいくらか高い位置に。春菜の身長と、俺の身長を比べていた頃のものが残されていたのだ。何より驚いたのが、右側につけられた傷がかなり低い位置で終わっているのに対し、左側、春菜の身長を示している傷がかなり高い位置までつけられていたことだった。
身長:百六十八センチ。たしか、彼女がアイドルであった頃の公式ホームページに、そのようなプロフィールがあったはず。大人になった俺の目線よりほんの少しだけ低い位置につけられた最後の傷は、何年前のものだったのだろう。
「あたし、これからは自分の身長を好きになる」
幼い頃にそう宣言した彼女の笑顔を思い出し、俺は目を閉じる。ハルは、自分の身長を、自分の姿を、好きになることはできたのだろうか。気弱で泣き虫だった彼女は、アイドルになってからもよく番組で涙を流していたという。そんな姿が視聴者の庇護欲を掻き立て、彼女を一躍有名にしたけれど、そういった経験は少しずつ彼女を強くし、いつしか彼女は涙を流さなくなった。そんな中のスキャンダルだった。
本当に、嫌になる。俺は耳をふさいで、ああ、と声を上げた。こんなにも大好きなカメラで、幼い頃にハルを幸せにすると誓った写真で、俺は。
ライカを、目の前に構えた。ファインダー越しに見えるものがどうしてもただの傷つけられた木の幹にしか見えなくて、ただ無力である。ごめん、と呟いて、俺は石を拾った。
桜の幹に背筋を当て、軽く背を伸ばす。頭のてっぺんの一に石を合わせ、力を籠める。一等高い場所に、新しい傷ができた。
「俺は、――このライカを好きになる」
『春にさよなら』――fin.
春にさよなら まんごーぷりん(旧:まご) @kyokaku
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