春眠暁を覚えず

「そういえばさ、来夏って隣のクラスの宮本春菜と同中だったよな」


 高校三年生の春、クラスメイトで同じ写真部の征秋まさあきが唐突にそう切り出した。


「そうだけど」

「あの子、来月で高校辞めるらしいよ」

「ふうん。中卒?」

「通信制の高校に編入」

「ゲーノージンは忙しいからな」

「今やテレビであの子を見ない日は無いもんな。すげえよな、俺らと同い年で、いったいいくら稼いでんだろ」


 デビュー後、春菜は徐々に学校に来なくなっていった。たまに登校したと思ったら、一限目の途中で早退し、仕事現場に向かったときもあるという。単位が危ういのではないかと心配されていたが、ついに退学か。

 学校で見ない代わりに、俺は彼女のことをより頻繁に目にするようになっていた。征秋のいうとおり、テレビでは必ずと言っていいほど彼女の姿を見かけるし、インターネットを見ればだれかが必ず彼女の名前を話題に出している。SNSのアイコンを彼女の顔にしている人もよく見るし、自己紹介欄で「宮本春菜推し」と豪語する人間もいた。そして、そういう人間は往々にして、俺なんかよりも春菜のことをよく知っていた。好きな食べ物に苦手な教科、大事にしている言葉に、現在の身長。幼馴染が何でも知っているだなんて、幻想だ。俺の中で、春菜に対する解像度は下がる一方だ。


「あー、金欲しいなぁ」


 子どものころに、「二人で大金持ちになろう」なんて約束したな。そんなことをぼうっと思い出す。


「無限に金があったら俺、勉強しないし、受験もしないなぁ。一生遊んで暮らすわぁ。来夏もそうだろう?」


 征秋の相槌に、俺は大きく頷いた。――もしも一生遊んで暮らせる程度に金があったとしたら。最近、そんなことを考える。






 進路希望調査の紙を配られたのは春菜が高校を辞めた日のホームルームで、その一か月後には三者面談が実施された。

 よそ行きの真っ白な七分袖のブラウスを着て、緊張した様子で汗をぬぐう母親を横目に、俺は沈んでいた。


「えっと、来夏さんの希望調査票を拝見したのですが……芸術大学、ということで間違いありませんでしょうか。あの、第二志望の大学については十分合格できる成績ではあるのですが」


 今年で社会人三年目だという担任が少し戸惑った様子で母の顔色を窺う。母は目を丸くし、言葉を失っていた。


「あの、私……来夏からは国立の政治経済学部に進学したいと聞いていたつもりなのですが。来夏、どういうことなの」


 母は俺のことを軽くにらんだ。


「どうもこうも。ただ、A芸大に行きたいってだけ。それ以上でもそれ以下でもない」

「芸大で何をするの? ……あんたまさか、カメラ?」

「カメラ以外、なにするっていうんだよ」

「カメラでどうやって食べていくっていうの? あんた、そもそも何のために大学に行くのか分かってる? 将来就職するためだよ。それなのに、好きなことをやりたいなんて――」


 こんなの、どこにでもある話だ。夢を見たい子どもと、現実を見せたい親。両者が交わることはあり得ない。これが青春物語だったら、ひと悶着あった末、熱血教師が「来夏さんのことを信じてみませんか」なんて言って親を説得し、最終的には子どもの夢を皆が応援する、という運びになるのだろうが、これはあくまで現実であり、そううまくはいかないことは初めから分かっていた。


「あくまで、『希望』ですから」


 熱を帯びる母親の言葉を遮り、俺は鼻で笑った。


「『希望調査票』でしょう? だから、俺の希望を書いて出しただけ。第一志望がA芸大で、第二志望が、B大の政経。それが俺の希望。でも出資者は母さんと父さんだし、別にこの通りになるだなんて端から期待してないから安心して」


 そう言って俺は教室を後にした。


 本音を言えば、期待してないだなんて嘘だった。もしかすると、俺の想いを知った母は、難しい道だと窘めながらも応援してくれるのではないか。あるいは、担任が俺の夢を叶えるための進路について、何らかのアドバイスをしてくれるのではないか。そう期待したからこそ、本当の自分の希望進路を書いたのだ。


「ああ。――金が欲しいな、無限に」


 小さくつぶやいた。

 その日はなんだかすぐに帰る気になれず、予備校の自習室に寄ってグダグダと問題集を解いた後、重い腰を上げて帰路についた。夜道は静かで、男の俺でもなんだか心細い気持ちになる。路地から刃物を持った人間が飛び出して来たらどうしよう。背後から突然、クロロホルムを嗅がされたらどうやって逃げよう。そんなことを考えると、どうしても五感が敏感に研ぎ澄まされる。そんな状況で耳にする男女の甘い語らいは、甘美などころか治安の悪さの象徴みたいにも思えることがある。やだぁ、という女性の声に聞き覚えがあり、はっとする。慌てて、曲がり角の陰に身を隠した。

 ――春菜だった。見知らぬ大人の男性と腕を組んで歩いていた。ほっそりとした長い脚が、ショートパンツから伸びている。帽子を深くかぶっているし、あまり顔をはっきりと見たわけではないけれど、彼女だということが分かったのは、やはり幼馴染だったからだろうか。

 後の行動は反射的というか衝動的というか、自分が何を考えていたのかあまり覚えていない。自慢のライカは家に置きっぱなしだった。俺はスマホの無音カメラを起動し、春菜と見知らぬ男の姿がちょうど街灯に照らし出されたタイミングで、シャッターを切った。

 夢を見ることを許された人間がよ。想像以上に綺麗に撮れてしまったその写真を眺めながら、俺は一人、唇を噛んだ。

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