白蛇全伝

@shigerusugiyama

第1話 白蛇、下凡する

四川の峨嵋山は、五岳と並び称されるほどの山ではないが、天下の名山の一つとして、古来よりここで修業する仙人たちは枚挙にいとまがない。

さて、この山の中にある小さな洞の中に一匹の白蛇がいた。白蛇は数百年の修業を経て、天地の霊気、日月の精気を身に受け、すでに人に化ける能力をもっていた。

ある日の晩、月の光が輝き、空に雲一つない頃、白蛇が洞の外へ出てみると、目の前にピカピカ光るものがあって、その中に一粒の真っ赤な玉がある。誰かが練り上げた内丹のようだ。白蛇が見上げると、山の中腹ほどに、一人の老和尚が座っている。“彼”は長年の修業を経たガマの妖怪で、この山に来て何年にもなるのである。すこぶる道にはずれた者であるから、白蛇はこの老和尚を快く思っていない。幸いこの夜、老和尚は口から一粒の内丹を吐き出したのだ。この内丹、もう何度も見たものなので、白蛇は心中うらやましくなり、思わず貪心をおこした。うまい具合にこの玉は自分の目の前にある。白蛇は身を起こしてこの玉をまる飲みすると、一目散に洞の中に帰ってしまった。


さて、白蛇が内丹を飲み込んでから、白蛇はさらに五百年の修業を経た後、絶世の美女へと変身し、自ら素貞と名乗り、時たま外を出歩くようになった。

ある日、素貞が山中で草花を採りに白雲深き処に行くと、ある道姑に出会った。神仙の者だと思い、素貞は道姑にその名を尋ねた。道姑は、素貞が白蛇でありながらも殺生の罪を犯したことがなく、正道を修める妖怪だとわかり、自分は蕊芝仙子であると名乗った。素貞は急いで跪き、弟子入りを願った。蕊芝仙子は素貞の意気に心打たれ、素貞を弟子とし、六支という名を与えた。蕊芝仙子は素貞を西池に連れていき、彼女に桃園の落ち葉掃除をやらせた。孫悟空が蟠桃園の桃を盗んでから、蟠桃園の仕事につく者には十分な法力が要求されていたので、蕊芝仙子は素貞に九九玄功や様々な法術を伝授することにした。素貞は心中喜んだが、一つだけ納得いかないことがあった。ここで修業すること二百年以上にもかかわらず、正式な仙人として登録させてもらえない。これは実に残念なことである。


さて、蕊芝仙子が広寒宮へ出かけたため、素貞が一人で園の掃除をしていたときのことである。南海慈航大士(観世音菩薩)は金慈聖母(西王母)に盂蘭盆会に赴くように命じた。金母は梨山老母との約束があり、海上三山を遊覧したかったので、金母はまず梨山へ行き、梨山老母を連れて盂蘭盆会に赴き、十洲三島を遊覧してから瑶池へと戻り、桃園の風景をながめることとした。

金母と老母が蟠桃園に到着しても、桃園の管理者である蕊芝仙子の出迎えがないので、金母が蕊芝仙子を呼びにやる。すると、園内の仙人たちが申し上げた。

「蕊芝仙子様は広寒宮に出かけておられ、まだお帰りではありません。掃除役の女性が代わりにここを取り仕切っていますが、彼女に伺候させましょうか?」

金母は微笑んだものの、内心おだやかではない。

“蕊芝仙子は蟠桃園の管理者でありながら、その任をおろそかにするとは粗忽ではないか!”

老母になだめられながら、金母は身を起こして老母と桃園に向かう。蟠桃園の風景は世にもまれな絶景で、桃の実はまだ熟れていないものの、その一個一個があかあかとした光を放っている。老母と金母が桃園でよもやま話をしていると、素貞があわててあいさつにあらわれた。

「蕊芝仙子がはしため素貞、金母様、老母様のご来訪を歓迎いたします」

金母が「そちが素貞か?立つがよい」と言うものの、素貞は「めっそうもない」と平伏するばかり。そこで金母、「かまわぬ」と言う。

金母の仰せに素貞はうれしくてたまらない。

“蟠桃園に来てから、まだ金母様のお顔を拝していない。今日金母様をお迎えできるのも、日頃の心がけのたまものだろう”

素貞が顔をあげたとき、金母は目を素貞の方に向ける。

“素貞にはまだ俗世の縁が残っているようだな”

「蕊芝の件は仙部の審議にまかせ、素貞は下凡させよ」

金母がこう言うと、梨山老母が取りなす。

「素貞はいやしい出身ではありますが、千年の修業の間一心に道に励み、殺生の罪を犯しておりません。そこで格別の善行を求めるべく、理由を示して素貞を下凡させるわけですね。もしその“みさお”を堅持できれば、仙界に戻ったとき、正果を得られるでしょう」

「素貞は人ではない。仙人にはなれぬ」

「南極老人もその弟子も人ではないのに、仙人でしょう。仙人になれないとどうして言えるのです?」

老母の返答に金母はようやくうなづき、こう言いつける。

「素貞の沙汰の件は丹霞闕にて下すことにする」


さて一同が丹霞闕に到着すると、金母、老母は主客の地位に分かれて座り、仙人たちも二人へのあいさつをすませたあと、左右に分かれてならび立つ。素貞は傍らでひざまずき、金母の御沙汰をまつばかり。

しばらくすると、金母が素貞を近づけ、質問した。

「そなたは自分の“もとの姿”を知っておるか?」

「金母様、どうかご教示ください」

「よい機会だ。そなたの“もとの姿”について教えてやろう。

光武帝が後漢を興した頃のことじゃ。雨をふらすよう命じられた東海白竜は、ぼうっとしていたせいで、うっかり数匹の竜の精を下界に落としてしもうた。そのうちの一匹が峨眉山に落ち、時を経て一匹の白いめす蛇になったのじゃ。

そなたは千年の修業を続け、正道から離れなかったがゆえに、この機会を得た。されど功徳足らざるゆえ、仙人となることはできぬ」

素貞は驚き、顔が赤くなり、声を失った。

“確かに、私のもとの姿は蛇だった。あの時師父が私に六支という名をつけてくださったのにも所以があったのだ”

金母は言う。

「素貞、そなたは下界で返さなければならぬ恩がある」

「私にはとんと心あたりがありません」

「忘れておるようだな。そなたは下界にいた頃、“もとの姿”をあらわしたため、あやうく殺されかけたことがある。幸いある善人が銭二千文でそなたを買い取り、逃がしてくれたのだ。その恩にお前は報いねばならぬ」

「その恩人は今、どこにおられるのでしょう?」

「その者は二十回も転生を続けておるが、転生のたびに善を重ねておる。西湖に行けば会うことができよう。清明節を待って飛来峰へ行くがよい。その大石にむらがる人々のうち最も背の高い者がそなたの恩人じゃ。恩返しがなったあかつきには、そなたは仙人となることができよう」

金母のこの言葉には謎がかけられているので、素貞にはとうてい理解することができなかったものの、余計なことを言うのも恐れ多いので、唯々として従うしかなかった。

“たとえ天の果て地の果てまでも、この身を捨ててかえりみず、命の恩人を探し出し、功徳を完成させたい”

金母は素貞の良心を見てとり、素貞を助けようと考えた。

金母は錦の袋を取り出すと、そこに入っている物は下凡後少しずつ見るよう命じた。

また金母は素貞に四つの偈を授けた。

「“遇黒而明(黒に遇うて明) 逢青而有(青に逢うて有) 見海而驚(海を見て驚)

聞雷而寂(雷を聞きて寂)”

この四句をしっかり覚えておき、細かく参照すれば、自らしるしがあたえられるだろう」

素貞は金母に問うた。

「私めに何か“罪障”があるのでしょうか?」

「それは聞いてはならぬことじゃ。誰かがそなたを探しにくるが、試練を耐え忍んでいれば、それは自ずから消滅するじゃろう」

素貞と金母が話し合っていると、傍らから仙女が薬酒をもってきたので、金母はその酒を素貞にさげわたし、飲むよう命じる。

素貞は両のひざをついてその酒を飲む。異香が鼻をつくものの、臓腑がさわやかとなり、心も大きくなる。

「そなたは白竜の化身であるから、下凡してからは白を姓とせよ。悪をはたらかず、殺生をするなかれ。もし異心あらば、そなたにはすみやかに天罰がくだるであろう」

「仰せのままに。もし殺生の罪を犯すことあらば、永遠に地獄に落ちますように」

「よろしい。そなたはすみやかに下山せよ」

素貞は叩頭して金母の御恩に感謝すると、身を起こして丹霞闕をあとにした。


さて、白素貞はもといた場所に戻ると、費用なものをいくつか取り出し、師父が戻るのをまたずに下山しようとしたが、出発の段になって、突然腹に異常な痛みを覚え、胸がむかむかして、吐きたくなってきた。

急いで林の中に入り、大量の黒い液体を吐き出した。この液体は千年の毒で、例の聖水により吐き出されたものである。素貞はひょうたんを取り出すと、もしものときに使えるよう、全てその中にしまいこんだ。

素貞は金母の例の訓示を思い起こす。

“天堂はどこにあって、恩人を尋ねるにはどうすればいいんだろう?”

心では躊躇しながらも、心の中でひたすら金母に祈りをささげる。

すると山の木こりの歌声が聞こえてくる。

“上有天堂清明界 下有蘇杭錦綉城 人生欲覓姻縁路 南土西池仙可成”

素貞はこの歌声を聞き、さっそく覚悟をきめて、“蘇杭”の二文字を頭に止めて、南に向かうこととした。

鎮江で、白素貞は黒風大王と名のる黒魚の精と出会い、彼から様々な接待を受け、彼と義兄妹関係を結んだ。そして武林(杭州の別名)の銭塘江で、七百年の修業を経たという青蛇の精を従わせることとなった。青蛇は一人の少女へと姿を変え、小青と名乗り、素貞に付き従うこととなった。

さて杭州にたどり着いた素貞は例の恩人と出会い、どのようにして恩返しをするのであろうか?それは次回の講釈にて。





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